第四章 創成の異端者 (9)
『宮殿』の廊下からも異変を察知することは出来た。
階上から響く嵐のような轟音に、宮殿の中で働く者たちは慄いていた。
十数人の武装した衛兵が騒々しく階段を駆け上がり、上層階へと辿り着く。全員が危急の事態であることを認識している。
異変の源と目される『謁見室』は肖像画の制作作業中であり、この宮殿の主、『会皇』がいるのだ。
だが彼らが職務を遂行することは出来ない。
行く手を遮るように一人の少女が立っていた。
白い外套を身につけた小柄な体が廊下の真ん中で衛兵の一団と正対する。
殺気立った男たちは、相手が誰だろうと容赦するつもりのない勢いである。
「誰だ貴様っ! そこをどけっ!」
サザレは相手の怒気に眉ひとつ動かさず、もの静かに応じる。
「会皇は『彼』が必ず守ります。あなた方は邪魔をせず、そこで待っていて下さい」
彼女は耳にかかる茶色がかった黒い長髪をかき上げる。その拍子に外套の陰から腰に下げた二本の刀がちらりと見えた。
無言で目配せしあう衛兵たちが、一斉に剣や槍を構える。十数本の切っ先が少女の顔から一メートル手前あたりでハリネズミのようになる。
小さくため息をついたサザレが二刀をすらりと抜き、体の前でX字に刀身を交差させる。青く透き通った瞳が衛兵たちをじろりと見つめた。
訓練された精強な衛兵たちだったが、少女が放つ凄まじい殺気に一瞬たじろぐ。
なるべく殺すな、と少女は少年から言いつけられている。というわけで、サザレは彼らを死なない程度に痛めつけることにした。
◇
謁見室のなかに吹き荒れる風が心なしか弱まる。
それは気勢をわずかに削がれたエルネオ・チェヴールの心に同調しているかのようだった。
大槻キュウタは相手の身動き一つも見逃すまいと神経を研ぎすます。仮に魔力を数値化できれば、少年のほうが確実に数千倍の強さを持つだろう。
だが、キュウタは微塵も油断するつもりは無かった。エルネオ・チェヴールの超人的な才能を純粋な『暴力』に変換したならば、それがどれほどの凶暴さを持つのか見当もつかなかったのだ。
片膝をついていたキュウタは、右手をエルネオにかざしたままゆっくりと立ち上がり、会皇の姿を相手の視界から遮る。そして左右に転がる衛兵の死体を見た。
「エルネオさん。理由を聞いてもいいですか」
キュウタの背後でへたりこむ会皇を見通すような鋭い視線。
エルネオは三脚画架に乗せた魔法陣に左手をかざしたまま、ぞっとするような冷たい声色で答える。
「その男は『迷信』の象徴だからだ」
彼は積年の思いをようやく口に出来たとでもいうように、大きく息をついた。緊張にこわばるキュウタの顔を、褐色の瞳がじっと見つめる。
「キュウタ。人間はいい加減、秩序ある世界を作らねばならん。これはその通過儀礼なんだ」
少年の心のはじに浮かぶ『相手を止める』という選択肢。キュウタはそれを振り払うように拒絶する。
『これ』は歴史の分岐点である。今、この男の人生の結末に情けをかけることは、千年後の人類全体の危機に直結する。
目先の種をついばんだせいで、翌年の収穫を失う。そんな危険を冒すことはできない。
だが、ともに暮らした『わずか十年』の重みが、二十万年近く生きてきた少年の口を開かせてしまう。
「そんな行為に意味はありません」
エルネオは少年の言葉に何の感慨もなくさらりと返す。
「あるんだよ、キュウタ。これは『証明』なんだ。魔法とは奇跡でも何でもない、ということのな」
部屋の隅ではピエナート・シンプランツァ灌教督が壁にもたれかかって座り込んでいる。今はただ、事の行く末を見守ることしかできないと、彼は無力感とともに理解している。
エルネオが片手を上げて部屋の中をぐるりと指し示す。
「俺は予め『これ』をやることをあちこちの連中に予告している。ようやく世界は目覚めるんだ。魔法の意味を皆が正確に理解し、迷信ではなく理性によって『世界』と『人の心』を治める時代が訪れる」
キュウタはわずかに前傾姿勢となる。油断なく相手の隙をうかがう様子は、はるか以前に少年が兵士だったころの名残りを思わせる。
「エルネオさん。残念ですが会皇を殺しても、生まれるのは混沌だけです」
ぷっと吹き出したエルネオが体を小さく揺らす。
「まるで見てきたような事を言うんだなあ、キュウタ」
エルネオが目を閉じて肩をすくめる。
その一瞬の隙をキュウタが見のがすことは無い。
彼はエルネオの身動きを封じるため、相手の体周辺の空気に『硬化』魔法をかけた。
そしてキュウタは自分の目を疑う。
風船が割れるような音とともに、彼は『魔法が弾き返された』ことを理解した。
キュウタの表情がとたんに険しくなる。自信をもって繰り出した自分の初手が、相手にねじ伏せられた。かすかな焦燥が少年の胸に根を下ろす。
一瞬、目を丸くしたエルネオがちらりと左右を見渡し、にやりとする。まるでキュウタの行動を何もかも織り込み済みであるかのように。
「んー、何かしたのか? 残念だったなあ。この術式は魔法に対する一定の障壁効果も持っている。自然界に存在する物をただ変質させるだけのお前の原初魔法で、『これ』を破ることは難しいかもな」
愉快そうに語るエルネオ。今、彼が発動させている魔法は歴史に残る『傑作』である。
人類史上、屈指の才能を持つ男が十年の歳月を惜しみなく注ぎ込んで導き出した一つの魔法術式。
それは後世の魔術士が見たならば確実に舌を巻く出来栄えのはずだ。現代の画家が過去の巨匠の作品を見て、その筆致や個性に感銘を受けるさまを連想すればいいだろう。
エルネオ・チェヴールが今この瞬間、発動させている魔法術式は『魔術士の至宝』と呼ぶにふさわしい価値を持っているのだ。
そしてキュウタは自身の能力を看破された驚きに、言葉を詰まらせている。
「僕の原初魔法を知っていたんですか……?」
エルネオの目が据わる。お前の目の前にいる者を誰だと思っているのだ、そう言いたげな色が浮かんでいる。
「初めて会った時に使ってたじゃないか。フィロマ最高の絵描きの目を侮るなよ」
キュウタは戦慄とともにごくりと息をのむ。
この男は紛れもない『怪物』だ。
二十万年近くかけて鍛錬してきた魔力が、これほど頼りなく思えてしまう日が来るなど想像もできなかった。
エルネオの挑みかかるような表情がキュウタに向けられる。
「俺を止めたければこっちに来てみろ」
キュウタは逡巡する。このままではお互い決め手がないまま時間だけが過ぎていくだろう。強引に仕掛けるべきかと迷ったその時。
不意をつくようにエルネオの指から『力の矢』が放たれる。
人体を容易に貫通する威力を持つ魔法である。だがそれはキュウタの眼前で『空気の盾』によってあっさり弾かれる。よし、と少年は胸の内でうなずく。
防御に徹していれば問題ないはずだ。少年は戦略の選択肢をいくつか頭のなかで組み立てていく。
エルネオは唇に指をあててしばし考えこむ。
「お前の『魔力』はずいぶん強いようだな」
そして彼は魔法陣の上にかざした左手を迷いなくスライドさせる。
「だが、これならどうかな」
言葉と同時に、エルネオの指から再び魔力の発現する気配が生まれる。
それを察したキュウタの肌が一瞬で粟立つ。
とてつもなく危険な『何か』が来るという直感。
少年はとっさに右手をかざし『空気の盾』の強度を上昇させ、自身の肉体にも全力で『硬化』をかける。
同時に凄まじい『激痛』が彼を貫く。
「ぐうっ!?」
かざした右手から胸のあたりにかけて、槍が突き入れられるような衝撃。キュウタの上半身がのけぞり、たたらを踏んだ彼は思わず膝をついてしまう。背後の会皇から小さな悲鳴が上がった。
乱れる呼吸を整えつつキュウタは歯をくいしばって、驚愕の視線でエルネオを見る。圧倒的な強者であることを自覚している者の顔が少年を見下ろしていた。
全身の骨に響く痛みのなかで今の攻撃を分析する。危なかった。全力で硬化してもなお、この衝撃なのだ。硬化が一瞬でも遅れたなら即死していても不思議ではない。
だがそれ以上にキュウタに衝撃を与える『事実』がそそり立っている。
エルネオが放った魔法は、『空気の盾』をあっさりと『貫通』していたのだ。
鋼鉄以上の強度をもつ『空気の盾』がいともたやすく防御を破られた。そして同じく全力で硬化したはずの腕や体までも大きなダメージを与えられている。
これはマズい。攻撃も防御も相手が上回っている。こんな状況に陥ることは『転移』して以来、初めての経験だ。
余裕の笑みを浮かべたエルネオが口調を和らげる。多くの弟子を抱えていたころの癖がでたのか、まるで教師のような物腰だ。
「魔法というものは面白い性質があってな。術式制御を工夫することで、多少の障害物なら簡単に『通り抜ける』のだ。金属、陶器、木、水、革、人体、およそあらゆるものをな」
死体となっている衛兵の一人にキュウタの視線が向く。
衣服やその下の鎖帷子には穴一つあいていないにも関わらず、大量の血液が内側から染みだしている。そういうことか、とキュウタは魔法の力の一端を少しずつ理解し始める。
前の歴史で人類が敗れた理由の一つがこれなのだろうと。
魔法に対抗するには、魔法しかない。
神の言葉をキュウタは今、自分自身の体で嫌というほど確認させられている。
そして心も折れそうになる。今のキュウタの魔法では、どうあがいてもエルネオに勝利することは出来そうにないのだから。
どうすればいい。考えろ、とキュウタは自身を叱咤する。ここで諦めるわけにはいかないのだ。
すうっと息を吸い込んだエルネオがゆっくりと言葉を紡ぐ。
「どけ、キュウタ。お前を殺さずに済むなら、俺はそうしたいんだ」
ふと、キュウタの頭にその言葉が引っかかる。
何だろう、この感覚は。もう少しだけ、考えをまとめる時間が欲しい。キュウタは出来るだけ言葉をゆっくりと選びつつ、先ほどのエルネオの発言に意識を集中する。
「僕にも、やるべき事が、あるんです」
エルネオは少年の言葉に唇を結ぶ。そこに生まれた間隙の数秒で、キュウタは思考を最大限に回転させた。
何故、エルネオは「どけ」と言ったのか。
魔法が障害物を自在に『通り抜ける』ことが可能なら、キュウタがどかずとも彼は会皇を殺せる間合いにいるはずだ。その引っかかりが徐々に一つの仮説をなしていく。
そしてキュウタは『賭け』に出ることを決意する。賭け金は『自分の命』だ。この際、選り好みしている余裕など無い。
駄々をこねる幼子を見つめるような視線でエルネオが問う。
「何故、お前はそうまでして戦うんだ?」
キュウタはきっぱりと言い放つ。
「未来のためです」
未来という言葉に、エルネオは目を瞬かせる。
ここだ、と見て取ったキュウタは作戦を行動に移す。
彼は素早く身をひるがえすと、かたわらに転がる『衛兵の死体』をつかんだ。
ゴムのように脱力し、ぐらぐらとする死体を渾身の力で抱え上げ、バランスが崩れる前に『硬化』させた空気の層で支えを作る。
キュウタは、自分とエルネオの間で『衛兵の死体』を盾としたのだ。
エルネオ・チェヴールは自分が口を滑らせたことに気付いた。
──制御の仕方を工夫することで、多少の障害物なら簡単に『通り抜ける』──
キュウタは相手の言葉から一つの『仮説』を導いた。
この魔法が『全ての物質』を平等に通り抜けるなら、魔法はキュウタの肉体をも通り抜け、何ものにもダメージを与えられないはずだ。
つまり『通り抜ける』という言葉の本当の意味は、攻撃する対象を『選択できる』ということではないだろうか。
そしてエルネオはこうも言った。
──金属、陶器、木、水、革、『人体』──
それらが『選択』の『単位』ではないのか。
この魔法は『空気』のような他の物質とぶつかることなく『人体だけ』を選択してダメージを与えられるのだ。
だから『空気の盾』に阻まれずにキュウタの肉体だけにダメージを与えられた。少年はそう推理したのだ。
ならばエルネオが今行使している攻撃魔法は、少なくとも二種類ある。
ひとつは障害物を通り抜ける性質を持ち、『人体だけを破壊する力の矢』。
もうひとつは単純な攻撃能力をもつ『力の矢』。
この二つを自在に切り替えているのだろう。
そしてその魔法はいずれも『直線的』にしか放射されないことを先ほどの攻防で確認している。長年の鍛錬の副産物として、キュウタは魔力が発現する『気配』を正確に感じとれるのだ。
エルネオがキュウタに「どけ」と言った理由もこれで説明がつく。二人の人間が前後に並んでいるならば、『人体だけを破壊する力の矢』は手前にいる人間を先に破壊せざるを得ないのだ。
キュウタは衛兵の死体を『一枚目の盾』にしてエルネオへと全速力で迫る。
エルネオの顔色が変わる。少年は自分の仮説の正しさを確認した。
舌打ちをしつつエルネオがキュウタに向けて指を振る。
放たれた『人体だけを破壊する力の矢』は、衛兵の死体の体や顔面のあちこちを容赦なく削り、血をまき散らす。
だがその後ろに隠れるキュウタに魔法は届いていない。直線的にしか進めないその魔法は、まず『手前』にある衛兵の肉体に作用しているのだ。
ならばとエルネオは魔法を切り替え、出力を最大にした単純な攻撃魔法である『力の矢』を放つ。それは衛兵の死体をあっさりと貫通し、キュウタの眉間へと迫る。
だが、それは『二枚目の盾』、すなわち原初魔法『硬化』によって作られた『空気の盾』によってたやすく弾かれる。
二種の攻撃魔法を無効化してしまえば、もはやキュウタにダメージが届くことはない。
エルネオの眼前に、死んだ衛兵の原型をとどめていない顔面がつきつけられる。
刹那、エルネオはまるで鏡を見ているような錯覚におちいる。
そうか、自分は負けるのだ。
どん、とエルネオの腹部に衝撃が伝わる。
「……あ?」
彼がゆっくりと見下ろした視界に『刀身』の鈍い輝きが映る。ぐいっと体の奥深くに刃が押し込まれる感覚と同時に、エルネオの口に生暖かいものがこみ上げる。
キュウタが衛兵の腰から取り上げた剣が、衛兵の死体の陰からエルネオの胴体を貫いていた。
口から血が吐き出され、エルネオのあごひげをどす黒く汚していく。彼の体からがくりと力が抜け、その場にゆっくりとひざまずく。
小さく体を震わせながら、エルネオが見上げる。その表情はどこか楽しげに思えた。
ごぼごぼと吐きこぼれる血の隙間から、言葉がたどたどしく漏らされる。
「……やるじゃ……ないか。キュウ……タ」
向けられた笑顔に少年は唇を引き結び、思わず一歩あとずさる。『硬化』させた空気による支えを失い、衛兵のずたずたになった死体が横倒しになった。
そしてエルネオの体からずるりと剣が抜ける。傷口から一気にあふれだす真っ赤な血が、足元に溜まりを作っていく。
キュウタは小さく息を乱しつつ、両手で不格好に握っていた剣を床に落とす。
うずくような痺れの残る右腕を無意識に押さえた。ギリギリの命のやり取りをしたのは二十万年振りだ。
「ただの……偶然です」
本心からの言葉だった。
これは薄氷を踏むような勝利だ。純粋な魔法能力だけなら、圧倒的にエルネオの方が上回っていた。キュウタが勝てたのは、ただ単に相手の能力の裏を取り隙をつくことが出来たからだ。
それを強さと表現していいのかは彼にも自信がない。
エルネオがぽつりと呟く。すでに声は注意していなければ聞き逃しかねないほど、か細くなっている。
「未来……か」
先ほどキュウタが思わず口にした言葉。
少年は、あの一言からエルネオが自分たちの『正体』を見抜いたかもしれないと思う。だがそれを確かめる暇は残っていなかった。
エルネオ自身もそれを悟っていたのだろう。彼は少年に向かってニヤリと笑ってみせるだけだった。
「じゃあ……な、キュウ……」
名前を呼び終わる前にエルネオの意識は途切れ、その場にどうと倒れ伏す。
とっくの昔に嵐が消え去っていた室内に沈黙が降りる。
そしてキュウタが膝をついて相手の背中に触れたとき、すでにエルネオ・チェヴールは死んでいた。
これでいいんだ、とキュウタは自分に言い聞かせる。
会皇への魔法による襲撃と、それに失敗したエルネオ・チェヴールの『死』。
この出来事が後の歴史にどんな因果関係を持つのか事細かには分からない。だが『必要だった』のだ。
これは魔法の発展する歴史の道すじにおいて不可避な出来事なのだから。
会皇襲撃事件が起きない歴史では、魔法の発展が百年単位で遅れる。そんな未来しか見えなかったのだ。
選択の自由などない。
いつでもそうだった。
きっとこれからもそうなのだ。




