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第四章 創成の異端者 (7)

 広々とした工房の作業場には、ペンが紙の上を走る音がひっそりと反響している。

 ずらりと並んだ大机では、工房員たちがめいめい割り当ての『写本』作業を続けていた。


 そのなかの一人、大槻キュウタがインク壺にペンを入れようとした瞬間、彼の背後におぞましい気配が出現する。


「キュウタくん、調子はどうかなあ」

「ひゃぁあい!?」


 キュウタは耳元に吹きかけられた息に思わず飛び上がる。ペンを持つ手元が狂わなかったのは奇跡に近いだろう。

 彼はびついたような動きで首を回して抗議する。


「こ、『工房長』……そういうの、やめてもらえませんか……」

「なにがだい? 私は皆の仕事を見てまわっているだけだよ?」


 頬に手を当てた長身痩躯ちょうしんそうくの男がとろりとした視線をキュウタに向ける。今年で四十になると聞いたが、肌のツヤは妙になまめかしいものがあった。

 彼の黒髪は肩まで滑らかに伸びている。ていねいにくしをいれられ、ちょっとした身動きでさらさらと流れを変えていた。


 フィロマで暮らすようになってからのキュウタは、昼間は工房長、夜はサザレからの執拗しつようなボディタッチに悩まされ続けていた。

 作業への集中を乱されて非難がましい目になるキュウタ。それを気にするふうもない工房長は、彼の後ろから手元を覗きこんだ。


「んー。これはチェヴールさんの依頼だね」


 工房長の目が職人の鋭さに変わる。

 キュウタは相手の切り替えの速さに感心しつつうなずいた。


「ええ。今回も翻訳込みなので、僕が」

「よその言葉に詳しいキュウタくんのおかげで、仕事の幅が広がって助かってるよ」


 頬がふれあわんばかりに顔を寄せてくる工房長。キュウタはじわじわと体をそらして苦笑いでこたえる。


「ど、どうも」


 工房長が姿勢を正して腕組みをする。視線を上に向けて数をかぞえるように頭を小さく振った。


「しかし、ここ数年チェヴールさんからの依頼が多いねえ。今年だけで……五件目だったかな。全部きみに回されてるんだよね」

「ええ。ま、同じものをあちこちの言葉に翻訳するだけなので、楽といえば楽なんですが」


 肩をすくめるキュウタ。工房長が耳にかかった髪をかき上げて少年を見つめる。


「チェヴールさん、工房をお弟子さんにゆずってからはのんびりしてるのかな?」


 キュウタが頬杖をついて記憶をたどる。


「個人的な絵の仕事はちょくちょく受けてますね。忙しい、というほどでは無いでしょうけど」


 キュウタがエルネオ・チェヴールの邸宅に間借りしていることは周囲の人間によく知られている事実だ。フィロマ屈指の有名人であるエルネオ。それは誰もが話題にしたがるネタである。

 

 ふむ、と工房長が再び本を覗きこむ。紙面には何やら不可解な数字の羅列や、楽譜にも似た独自の発声記号がずらずらと記述してある。


「それにしても不思議な本だよねえ。何が書いてあるのかさっぱり分からんよ」


 キュウタも相手につられて文字の並びに視線を沿わせる。


「ええ。僕も文字通り写しているだけですね。ちゃんとやくせているといいんですけど」

「そのへんは気にしても仕方がないさ。どこかで割りきらないとね」


 なまめかしい指の動きがキュウタの首筋を不意打ちでつつっとで上げる。

 キュウタの笑顔が引きつっていく。


「そ、そうですね」

「ところで、仕事が終わったら食事でもどうかな」


 工房長の頬が心なしかピンク色に染まっていく。

 背骨が氷の柱に変わったような感覚がキュウタを襲う。


「へっ?」

「最近、寒いよね。人肌が恋しくならないかい?」


 覆いかぶさるようににじり寄る工房長を必死で押し返しながら、キュウタが震える声をしぼりだす。


「あ、いや、ちょ、ちょっと用事が」


 結局その日の午後はまともに作業が進まなかった。





 酒場の一角で数人の男たちが昼間から顔をつき合わせて雑談に興じている。

 彼らの野太い声は、離れた席でひとりさかずきを傾ける人物の耳にも十分届いていた。


「北のあそこだろ? ありゃひでえよな」


 男がぐいっとワインをあおって首を振る。


「ああ。『異端者』だっつって、怪しいやつ片っぱしから捕まえて殺しちまったんだろ? おっかねえわ」

「百人近く吊るしたって話だぜ。子供にも容赦無しだとよ」


 年かさの男が椅子に浅く座り、シャツの隙間からだらしなく腹をかきむしる。


「まあ異端者なんだから、しょうがねえだろ。神さまのばちがこっちにまでっかかってきたらタマンねえっつうの」


 何かが叩きつけられる音が鳴り響く。

 店内がしんと静まりかえり、皆の視線がそこに集中した。見れば、木の椅子が店の真ん中で逆さになっている。


 すぐそばのテーブルで一人の男が席についていた。

 エルネオ・チェヴールは、蹴りだした形のまま伸ばした足を軽くさする。ひょいと眉を上げて、こちらを見る男たちに謝意を示した。


「失礼。飲み過ぎたようだ」


 どこか興をそがれた男たちは、やがて声を低めたひそひそ話に移る。どんな内容なのか興味も沸いてこない。

 エルネオは深く息をついて、片手で顔を覆いゆっくりとなで下ろす。若い頃は黒ぐろとしていたあごひげも最近は急に白い物が混じりはじめていた。


 突然、酒場の扉が開かれ、絞められる寸前のニワトリのような声が店内に響く。


「あ、いたいた! 先生、捜しましたよお」


 その青年はボサボサの髪をかきむしりながらテーブルに近づく。エルネオのじとっとした視線がぞんざいに向けられた。


「『先生』はめろ。工房はとっくの昔にお前が引き継いだろうが」

「んなことどうでもいいですよ」


 結局のところ、青年にとってエルネオはいつまでも『先生』であり、本人はいつまでも『弟子』だという認識らしい。それはもはや『間柄』というより『固有名詞』に近い意味合いなのだろう。

 弟子は顔の汗をぬぐってテーブルにもたれかかる。


「ああ、走り回って喉がカラッカラですわ。それ、もらいますよ」


 エルネオの手から杯を引ったくって、中身を一気にあおる弟子。仕事の技術よりも礼儀作法を教えておくべきだったなとエルネオは後悔する。

 からになった杯が景気良くテーブルに叩き置かれる。弟子は向かいの椅子にどっかりと座り込み、天井を見上げて豪快なゲップを吐き出した。あげくの果てにその姿勢で欠伸あくびまじりにくつろぎだす始末である。


 エルネオは超人的な辛抱強さをもってそれを座視する。だが一分近く待っても相手は一向に動きだす気配がない。

 ついにしびれを切らしたエルネオがテーブルの上を指でトントンと叩き注意を引く。


「おい。何か用があったんじゃないのか?」


 弟子は、がばっと跳ね起きると目をいてエルネオににじり寄る。


「ああ、そうだ! 教会から仕事の依頼ですよ!」


 一瞬ぽかんとしたエルネオだったが、すぐに眉をしかめた。ため息をつきつつ、虫を追い払うような仕草で手を振ってみせる。


「だから、工房のことはお前が判断しろ。いちいち俺を通さな……」

「違うんです、教会が『先生』を指名してきたんですよ」


 目をしばたかせたエルネオが相手を胡散うさんくさそうに見やる。


「教会が? 俺を? なぜ?」


 師の問いを無視して、弟子は好き勝手にまくしたてる。


「大体、先生が悪いんですよ。朝から家も留守にして、あっちこっちフラフラ飲み歩いちゃってさ。それでウチらの方から連絡つけてくれって話に……」


 エルネオはうんざりしながら両手を上げる。


「はいはい、俺が悪かった、悪かった。で? 教会が俺に何の用なんだ?」


 途端に弟子の顔色がさっと変わる。テーブルの上に乗り出して声を低めた。小悪党のような芝居がかった表情がなんともしゃくさわる。


「聞きたいですか? わが師よ」

「ああ。是非ともお聞かせ願えませんかね、わが親愛なる弟子よ」


 エルネオの声に嫌気いやけと疲れが濃くなりつつある。心なしか頭痛まで生まれはじめていた。宿酔ふつかよいが前払いされたような気分だ。

 ふふんと息をもらし、もったいぶるように目を細めてニヤリとする弟子。


「なんと……『会皇かいおう』さまの『肖像画』の作成依頼ですよ! どうっすか、ご気分は?」


 イリユヌス教最高指導者である『会皇かいおう』、その肖像画を描く仕事。フィロマ市の芸術家にとっては最上級の名誉である。今までエルネオ・チェヴールにその機会が無かったのが不思議なほどだった。


 はしゃぐ弟子を横目にエルネオは口元に指を当てる。視線をゆっくりと彷徨さまよわせて、慎重に思索を重ねていく。


 そしてエルネオの唇に小さな笑みが浮かんだ。

 長年あたためてきた計画を、ようやく実行に移す時が来たのである。





 板張りの床をほうきがけしていた小さな手が止まる。

 

 単色のシャツとスカート姿のサザレは、箒を胸の前で握りしめ、そっと目を閉じて意識を集中する。


 彼女が常に微小な強さで発動させている『未来視』。

 それは歴史上の大きな変動を監視する『あみ』に似た使いかたも出来る。そこに今、待ち構えていた物が引っかかっていた。

 詳細を『見る』ために、サザレはさらに意識を先鋭化させる。映像はきわめてリアルな臨場感を持ち、それが発生する確度を示している。

 重要な分岐点であるほど、それを見ることは容易になるのだ。


 そこにカロリエッタが通りかかった。取り込んだ洗濯ずみのシャツや毛布の入ったかごをわきにかかえている。

 普段のまじめな態度にそぐわない、仕事中にぼんやりと立ち尽くすサザレを見て眉をひそめる。

 

「どうしました、サザレ?」

「……いえ、なんでもありません」


 少女はぱちりと目を開けて、何ごともなかったように箒がけを再開する。だがその手元は、どこか心ここにあらずな大ざっぱさをかもし出している。


「熱でもあるのでは無いですか?」


 そう言ってカロリエッタがサザレのひたいに手をあてる。くすぐったい感覚にもじもじと身をよじらせながら、少女は先ほど意識がとらえた映像について考えていた。

 十年前から予想していた状況が訪れただけだ。心構えはとっくの昔に出来ている。


 たとえそれが、この穏やかな生活の終わりを告げるものだとしても。

 カロリエッタの手のぬくもりを感じながら、サザレはそう自分に言い聞かせる。





 珍しく静かな食卓だった。

 普段は笑い声の絶えない三人が見せる不可解な態度に、カロリエッタが厨房で首をひねっている。


 エルネオがワインの入った杯をそっとテーブルに置く。


「明日、お前たち何か用事があるのか」


 キュウタはシチューのうつわを見つめたまま答える。


「いえ。二人そろって休日なので、のんびりしようと思ってます」

「……そうか」

「エルネオさんは?」


 少年からの問いはごく儀礼的な口調である。まるで答の分かっている質問とでもいった調子だ。

 エルネオもそれを承知しているかのように淡々と言葉を接ぐ。


「ああ、ちょっと教会のほうから仕事が入ってな。朝早くから出かける予定だ」


 キュウタが食べかけのパンの断面に視線を移し、ぽつりとつぶやく。


「……長くかかりそうですか?」


 サザレはずっと黙りこくったまま、パンをもぐもぐと咀嚼そしゃくしている。誰よりも食を楽しむはずの彼女が、土を噛むような表情をかすかに浮かべていた。

 ぼんやりと頬杖をつくエルネオが、杯のふちを指でなぞった。彼の褐色の瞳に普段のあかるい輝きはなく、今はただ平坦な色がそれを塗りつぶしている。


「いいや、大した仕事じゃない。すぐ終わるさ」


 そして皆が黙りこむ。

 むかい合っていても、誰も他者と視線を合わせようとしていない。食事が終わるまで誰一人として口を開くことは無かった。

 

 今日が、三人のそろう最後の夕食であることを全員が理解している。





 翌日の朝。

 キュウタとサザレが普段食事に使っている部屋に入ると、そこにはカロリエッタが座っていた。


 彼女はテーブルの上に肘をつき、祈るように両手を組んで顔を伏せている。肩は力なく落とされ、いつ崩れ落ちても不思議はないほどだ。

 常に落ち着きを失わなかった彼女らしからぬ、不穏な様子。キュウタとサザレはその理由を知っている。

 少年はそっと声をかけた。


「おはようございます、カロリエッタさん」


 ちらりと子供たちを見る視線に力は無い。かすかに震える指がテーブルの上の数枚の書類を指し示す。

 

 エルネオ・チェヴールの『邸宅』の所有権を本日付でカロリエッタに譲渡するむね、そして彼女が今後の人生で不自由しない程度のがくが記された手形。

 カロリエッタがまた顔を伏せ、弱々しくつぶやく。


「今日で解雇だ、と申し渡されました。何が……起きているのでしょうか」


 彼女がこんな感情的になるのを、二人が見るのは初めてだった。カロリエッタの唇がきゅっと引き絞られる。


「御当主様はこんな事をなさる人ではないのに」


 ぎくしゃくと視線を上げるカロリエッタが、ようやく子供たちのただならぬ姿に気付く。街を散策するにしては念入りな格好。初めてこの家を訪れた時と同じ、白い外套マントの旅姿が二人の体を包んでいる。

 

 サザレの外套の端からのぞく二本の刀は、これから起こることの暗示でもあった。


 カロリエッタはゆっくりと立ち上がり、二人の前に進む。彼女の瞳はいつもの落ち着きを取り戻している。理解はできないまでも受容する『覚悟』。それはカロリエッタという女性がもつとうとい資質である。


「あなた達も……行ってしまうのですね」


 キュウタが小さくうなずく。


「はい。やらなきゃいけない事があるんです」


 カロリエッタは姿勢を正し、小さく息を吸いこみ、りんとした表情になる。最後までいつも通りの姿であろうとする、彼女なりの気遣きづかいなのだろう。


 サザレがふらりと前に出る。カロリエッタに抱きつき、胸に顔をうずめた。

 ほんの少し目尻にしわを作って、カロリエッタがサザレを見おろす。小さな体を優しく抱きしめて、少年に視線が向く。


「またフィロマに来る機会があれば、ここを訪ねて下さいね。いつでも歓迎しますよ」

「はい。その時は必ず」


 キュウタは軽く会釈し、外套をはためかせておもてに通じる扉から出て行く。カロリエッタの顔を見上げたサザレが何かを言いかけて、また視線を伏せた。

 カロリエッタがふっと微笑む。抱き締めていた手をほどくと、サザレを少年の方へ押しやった。


「さあ、お行きなさい、サザレ。あなたといた十年は、とても楽しかったですよ。病気などしないようにね」


 少女は相手の手をそっと握ってささやいた。


「カロリエッタさんも、お元気で」


 サザレはそれだけを言って足早に外へと出ていった。扉がそっと閉じられ、薄暗くなった室内が静まり返る。カロリエッタは、ぽつんと立ち尽くす。


 彼女は孤独になったのだ。

 

 やがてカロリエッタは何かに誘われるようにおずおずと前に進み、扉を開いた。


 目の前に、朝の光が石畳で照り返された街並みが現れる。左右に続く道路はどこまでも見通しが利く。


 だが少年と少女の姿はすでにどこにも無かった。



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