序章 分岐点に立つ少年 (終)
優しい声が語りかける。
「危ういところでした」
少年は夢だと思った。これは人間が死ぬまぎわに見る幻なのだと。自分は廃墟の片すみで、ぶざまに野たれ死にかけている。それこそが現実であり、これは夢なのだと。
「夢ではありません。これは現実です」
魂に響くような現実感がその声にはあった。少年は目を見開き飛び起きる。
彼はどこまでも続く白い大地の上にいた。ぐるりと見回しても真っ白な砂が敷き詰められた地面があるだけで、地平線もカミソリで切ったように平らで山影すらない。
空はかつて無いほどに青く澄み渡っているが、なぜか太陽はどこにも見当たらない。とてもあり得ない光景だった。
これのどこが現実なのだろう。そう少年が思った時、再び声がする。
「ここは時と空間の狭間」
目の前に一人の女性がたたずんでいる。今までこんなに美しい人を見たことが無かった。少年の人生の中で目にしてきた女性は、みな薄汚れ、どんよりとしていた。
『魔族』との数十年に渡る戦争で、人類には着飾る余裕などなかったのだからそれは仕方のない事である。物質的にも、精神的にも誰もがその日を生きるだけで精一杯だったのだ。
少年はゆっくりと立ち上がり地面を両足で踏みしめる。自分が衣服も靴も何も身に付けていないことに気付いたが、それを恥に思う心は無かった。この場では外見に意味などないのだろうと、彼は直感的に理解していたのだ。
少年が状況をのみ込み始める様子に、女性が柔らかな笑顔になる。
「傷は治しておきました」
彼が無意識に腹をなでた指先がその言葉を裏付ける。
少年は警戒心を強くした。彼は、無償の行為という物が黄金よりも稀少になった時代に生まれた世代である。さて、この女性はどんな代価を求めるのだろうか、と内心身構えて彼女の言葉を待つ。
慈母のような眼差しのまま、女性は小首をかしげた。
「何かお聞きになりたい事は?」
「あの……僕の友達は、助けてもらえないんでしょうか」
自分の声がどこか頭の上から降ってくるような奇妙な感覚だった。まるで肉体がどこか別の場所にあるような。
女性が幼子を見つめるように微笑む。
「まず、お友達の心配とは、お優しいのですね」
「……ずっと一緒に戦って来たんです」
「ごめんなさい。私が助けられるのは貴方だけなのです」
瞳を曇らせた女性がそっと顔を伏せる。
少年は、こういう表情をした女性が何を考えているのか経験上知っていた。これは自分の価値を理解し、冷徹で合理的な計算をする者の表情であると。
彼は出来るだけ内心を悟られないように言葉を選ぶ。それがこの人智を超えた存在の前では、まったく無駄な駆け引きなのだとしても。
「貴方は誰なんですか?」
「私は貴方がたが『神』と呼ぶものに最も近い存在です」
それは少年が生きてきた世界では役に立たない物の代名詞だった。魔族の軍団に日々、街を焼かれ、人々をなぶり殺される光景を前にして、誰もが神に祈った。そして誰も救われなかった事を少年は知っている。ただの一人も救われなかったのだ。
少年は相手を気づかうことをやめる。この女性は自分に何かの取り引きを持ちかけるつもりだと分かったのだ。何故ならこの神とやらは全能ではないのだから。全能でないものが見返りも無しに施しを与えるわけがないのだから。
「お名前はかねがね聞き及んでいます。で、僕に何の御用ですか?」
つっけんどんに返す少年に、神がどことなく安堵したような雰囲気になる。まるで彼女にとっても、こういう冷めた対応の方が気楽と言わんばかりの態度だった。神の言葉はすでに対等な相手に向けられるものへと変わっている。
「もはや人類は魔族に滅ぼされる運命です。最強の魔族、『魔神王』までも顕現した今、それは覆しようのない現実です」
「まあ、そうかもしれませんね……それで?」
「魔族の力は強大です。現在の人間の力では戦いにすらなりません。たとえ貴方がたが持つ最強の武器を用いたとしても、焼け石に水です」
そう、いよいよ進退きわまった先進国のいくつかは、魔族が大量に棲息するところへ片っぱしから核兵器を撃ちこんだのだ。結果は一時的に魔族の進攻を食い止めたものの、惑星環境や食糧事情に対する影響、インフラ破壊による死者を見れば赤字収支と言わざるを得ないだろう。
うんざりするような現実を突きつけられて、少年は不愉快な気分になり始めていた。
「だから何です? 貴方が神の力で魔族をぶち殺してくれるとでも?」
神が悲しそうに首を振る。
「残念ながら、私の力では魔神王や魔族軍を退けることは不可能です」
「なるほど。人間でも勝てない、神でも勝てない。よーく分かりました。でしたら、このくだらない会話をさっさと終わらせて、僕を天国なり地獄なりに送っていただけませんかね、親愛なる神さま?」
手をひらひらと振って呆れ返る少年に対して、神は断言する。
「勝つ方法はあります。そして、それは貴方にしか出来ないことです」
『勝つ』。それは今の人類が何よりも求めている言葉である。気勢を削がれた少年が口をつぐむ。神は真剣な表情で詰め寄った。
「魔族の比類なき力は『魔法』によるものです。そして魔族を倒すには、やはり『魔法』以外に有効な手段はありません」
魔族が世界に出現して数十年。
多くの犠牲のもとに集められた情報は、魔族が謎の技術を使っていることを示している。科学的な法則をまるで無視したその超常的な力のことを、人類は当然のごとく『魔法』と呼んでいた。
少年は肩をすくめてみせる。神でも人違いをすることがあるのだろう、と思った。
「残念ですけど、僕は魔法なんか使ったことありませんよ?」
「ええ。今の人間には使えません」
「だったら……」
「ならば、使えるようになれば良いのです」
意味をはかりかねる少年に、神は丁寧に言葉を選んだ。
「この歴史では魔法が発達しませんでした。ならば、魔法が発達する歴史に『変えて』やれば良いのです」
「は? ちょ、ちょっと待って」
「時間がありません。この空間を維持するのは骨が折れるのです。今すぐ決めて下さい」
空にひびが入り、ゆで卵の殻のようにぽろぽろと剥がれ落ち始め、その後ろにある暗闇が姿を現しはじめる。大地に敷き詰められた白い砂が、あちこちにできた蟻地獄のような穴からこぼれ落ちだす。彼らのいる空間が、少年を急かすように虫喰いのような崩壊を進行させ始めていた。
神の眉間にしわが寄った。まるで背負った荷の重さをこらえるように。
少年は足元に次々と生まれる穴から、逆もぐら叩きといった格好で逃げ続ける。混乱する頭を必死に働かせて、彼は神を見た。
「歴史を変える? 僕が?」
「そうです。『はい』と言って下さい。それだけが、魔族に勝つ手段なのです!」
「いや、だから何を言って……うおわっ!?」
少年の体がついに穴につかまり、砂に呑みこまれ始める。もがくほどに体は深みへと引きずられ、あっというまに喉元まで砂に埋まってしまった。
なぜか自分だけ宙に浮かんだままの神が、必死の形相で呼びかける。
「早く! 『はい』と、おっしゃいなさい!」
「わ、分かった! はい! やる! やります!」
口の中に流れ込む砂を吐き出しながら何とか答えた瞬間、神は両手を胸の前で打ち合わせ、その音を高らかに鳴り響かせた。同時に少年の体を光が包み込み、周囲の景色が猛烈な速度で流れ始めた。
ほっと息をついた神が、にっこりと微笑む。少年は記憶の中でこれに似た笑顔を見たことがあった。そうだ、あいつだ、いつだったか自分のとっておきの砂糖菓子を言葉巧みにかすめ取ったあの野郎だ。これは『詐欺師』の微笑みなんだと気付いた。
そして神はこう告げる。
「その決断に感謝します。ではまず、『二十万年前』に貴方を転移させます」
「は……はあっ!?」
生まれてこの方、魔族との戦争に明け暮れていた一人の少年兵、『大槻キュウタ』。
彼の人生はこの瞬間、飛び切り派手な分岐点を通過した。