第三章 家なき歌姫 (4)
水平線に沈みかける太陽が、白い建物が並ぶ港町をオレンジ色に染めている。
海岸からやや奥へと進んだ町並みのなかにも、潮風の匂いはささやかに吹きこんでいた。とある角にたたずむ少しばかり大きめな建物は、人の出入りが朝夕にわたって盛んに繰り返されている。
そしてまた、がやがやと戸口に現れた旅姿の一団。
疲労の色が濃い彼らに一人の少女が部屋の奥から声をかけた。涼やかな声音が男たちの疲れを微かに和らげる。
「いらっしゃい。泊まりですか?」
質素だが清潔な衣服を身につけた少女の笑顔。
トレードマークの三つ編みの黒髪は二年前に比べて少し長くなり、背の中ほどまで垂らされている。
先頭の男が少女に向かってうなずく。
「ああ。五人なんだが」
「左の奥の部屋へどうぞ」
やっと空きを見つけられたと、ぶつぶつ呟きながら、男たちが中へと進みはじめる。
あごひげ豊かな年長の男が、ふと立ち止まり少女を振り返った。
「食事できる場所はあるのかな?」
「簡単なものでよければ、隣の酒場に」
よどみなく上げられた少女の片手がさす土壁の向こうを、男がふうむと考えこみつつ眺める。
「酒場か……そう言えば面白い歌をうたう娘がいると聞いたんだが。今もいるのかね?」
タアルはにっこりと微笑んだ。
「ええ。今日も夕方ごろに歌う予定です」
◇
大槻キュウタの言葉は事実だった。
タアルの身元を引き受けた商人は、少女に町での生活のイロハをていねいに教えてくれた。
彼女に与えられたのは商人が経営する宿屋の補助的な仕事だった。タアルが元来持ち合わせたきっぷの良さは、この仕事におあつらえ向きだったようだ。今では少しなら文字も読めるようになったし、異国の旅人たちの相手もすっかりなれた。
また時間が空いたときなど、となりにある酒場の手伝いに入ることもあった。遊牧民族出身のタアルの姿は、旅慣れた連中にも新鮮に映るのか、少しずつではあるが常連を店に増やしていった。
そして酒場の評判をさらに高めたのはタアルの『歌』だった。
紡がれる旋律はどこの国の言葉でもない。それゆえに聞く者の出身を問わず、皆の心を穏やかに癒やした。評判は評判を呼び、あちこちの国の旅人が彼女の歌を聞くために酒場に集まる。
タアルの歌声が響く酒場のすみ、ぽつりとつぶやくのは、はるか東からやってきた行商人。
「こりゃ大したもんだ」
それに返すのは、たまたま相席になった西からの旅の修行僧。
「まったくもって。世界は広いですな」
町に入りそして出て行く旅人たち。彼らの心にタアルの歌は少しずつ記憶されていく。その中の何人かは自分でも彼女の歌をうろおぼえながら口ずさんでみる。それを耳にしたどこかの誰かの記憶にも、タアルの歌はそっと足跡をのこす。歌は人から人へ、町から町へ、国から国へと伝わっていく。
タアルの歌は、少しずつ歴史の上に刻み込まれだしたのだ。
この夜も、タアルはいつものように歌ったあと、酒場の厨房に戻った。すると一人の若い料理人が杯に満たした水をタアルに手渡してくる。
「ありがとう。気がきくじゃない」
料理人は、はにかみながらタアルを見つめた。
「君の歌は何度聞いても素敵だな」
「なあに、私を口説いてるつもり?」
流し目で相手を見上げ、タアルがくすくすと笑う。料理人がぐっと口を引き結んでから少女の方へ一歩あゆみ寄る。
思わず目を丸くしたタアルに、彼は真剣なまなざしを向けた。
「うん、そうだな。口説いてる」
いつもはちょっと頼りない彼のきっぱりとした物言い。
それに目をぱちくりさせたタアルが、ゆっくりと頬を染めて唇をゆるませていく。
普段から威勢のいいタアルの顔が、ふっと一人の少女のものに戻った。かつてテントの中でタアルの母親が夫について語ったときの言葉が頭をかすめる。
あの時の言葉の意味が少しだけ分かったような気がした。家族の皆はどうしているだろうかとぼんやり思い起こす。
この時、タアルの部族の上に降りかかっていた『災厄』。それを彼女が知ることは決してない。
◇
騎馬の進軍速度は戦において有利に働く。
敵が十分な兵数を集めるための日数的な猶予や、戦場を選択し策を練る自由。それを与えずに戦略目標を達成することが騎馬兵にはできる。
敵を常に後手に回らせる。それが騎馬を主力とする軍隊の強みなのだ。
タアルが生まれた部族を離れてから、すでに五年が経った。
彼女が名さえ知らないどこかの国。
そこで激しい戦いが始まりつつあった。
だがタアルは戦火と無関係な異国の町で、静かに暮らしつづける。
彼女が戦と関わることは絶対に無い。
タアルが平穏無事に人生を過ごすこと。
それは歴史の決定事項なのだから。
◇
砦の中は憂鬱な空気が立ち込めている。
「いかん、いかん。いかん、いかん」
指揮官がうろうろと部屋の中を歩きまわる。金属製の胸当てがそのたびにガチャガチャと耳障りな音を立てていた。
軽装の兵士が室内に一歩だけ入り、直立不動してはきはきと報告する。
「伝令! 敵軍、北の砦を突破! その数、弓騎兵およそ五百!」
顔をぴくりと引きつらせた指揮官。彼は口のはしに泡を吹き出してテーブルにかじり付き、上に広げた地図を食い入るように見つめる。だが、いくら見ても何かが変わるわけではない。精神力で戦況がひっくり返るなら誰でも英雄だ。
彼らがいる場所、つまり地図に描かれているのは巨大な湖と内海に挟まれた地域である。南北に細く伸びた土地には、河川に縫い合わされたパッチワークのように森林や穀倉地帯が広がっている。
そして、この地域は富める者と貧しい者の境界線でもあった。
北は荒涼とした貧しい土地に暮らす、遊牧主体の複数民族の勢力圏。南には肥沃な土地を持つ、農耕主体の単一文化的な『王国』。
近年、北の遊牧民族たちは元々の土地だけでは人口を支えきれなくなりつつある。彼らが南進を選んだのも歴史の必然と言えるだろう。
指揮官の補佐に着いた兵が、半ば諦めの境地で声をかける。
「隊長。御指示を」
震える声で指揮官が返す。それは指示というよりは願いが込められたものであろう。
「ほ、本国からの援軍を待て」
「早くてもあと三日です。敵がこの砦を破り町に着くまで二日かそこらでしょう」
補佐官が忍耐強く説明する。指揮官が首を振りながらふらふらと壁にもたれかかり、焦点の合わない目になる。こいつはもうダメだな、と補佐官は内心で見切りをつけた。
指揮官は片手で力なく宙をかいた。
「撤退しよう。後方の町にも触れて回れ」
「あの町を落とされたら、王都まで農地が広がっているだけです。平地で馬の略奪に対抗できる軍を、誰が用意するんですか?」
うつろな表情の指揮官が、ぎょろりとした目玉を向ける。
「だから何だ?」
「うって出ましょう。援軍が来るまで時間を稼ぐのです。森の中ならまだ勝算はあります」
略奪を前提とした相手には、大抵の場合において野戦を挑まざるをえないのだ。でなければ土地は踏み荒らされ、人民は飢え、国が衰退する。難しい話ではない。
一気に指揮官の感情が爆発した。
「百かそこらの歩兵で、五百の弓騎兵を相手にするのか!? 死にたいなら一人でやれ! いいから撤退だ、撤退!」
補佐官はここが戦場なら真っ先にこいつの首をかき切ってやるんだが、とつくづく残念に思う。
そのとき戸口に人の気配があらわれる。
見た目は白いローブを肩から羽織った、ただの少年と少女の二人組。だが彼らのことは兵の間でも有名である。
戦において軍組織から独立した行動を認められ、場合によっては自軍に対する絶対の指揮権すら許される。二人はその権利を『王』から『直接』与えられているのだ。
彼らの手首にはめられた銀の腕輪には、王家が認めた者であると示す紋章が刻まれている。
第一印象だけで二人をただの子どもと侮る兵は王国軍にも多い。だが実際に戦う場面を目の当たりにした者は、そろって彼らのことを神か悪魔を畏れるように語る。
また、二人は軍内部における自らの呼称をあらかじめ用意して、それを王に認めさせたという。
補佐官はそれを敬意をもって口にした。
「『魔術士』殿」
そう呼ばれたキュウタは白いローブから葉をはらって、小さく頭を下げる。サザレの方は戸口わきの壁際に立ち、室内や周囲の気配へ静かに意識を向けている。
縄張りを争う野犬のように少年をにらみつける指揮官。それを歯牙にもかけず、キュウタはテーブルに歩み寄り地図を見下ろした。
「すいません、遅れました。ちょっと地形を見てたので……敵はどこまで来ていますか?」
「最後の森に入る手前です。遅くても二日で後方の町に達するでしょう」
地図の一点を指し、補佐官が相手の様子を見る。数瞬の思案ののち、少年は窓から空と森を見る。
「もうすぐ日暮れですね。『仕掛ける』には悪くないと思います」
口をあんぐりと開けた指揮官がキュウタと補佐官の間に割り込み、両手を駄々っ子のようにぶんぶんと振り回す。
「いや、撤退だ撤退! 貴様は何も分かっとらん!」
「明日の日暮れまで待って下さい」
きっぱりという少年に、指揮官が頬をひきつらせる。補佐官と指揮官を退屈そうに見比べるキュウタは、どっちが実質的な上官なのか分かっているのだろう。
「僕と彼女がこれから森のなかで騎兵を止めます。明日の昼ごろに森へ斥候を出してください。多少、撃ちもらしが出るかもしれませんが、現兵力での対応を期待します」
少年と少女を交互に見て、補佐官は眉をひそめる。
「はっ? 今から二人だけで、ですか? しかし……本気ですか?」
「もちろん。だから撤退は一日だけ待って下さい」
キュウタは王より授けられた銀の腕輪をにやりと指差し、それが持つ意味を改めて強調する。
そして少年は軽く会釈をして、素早く戸口から屋外へ走り去った。少女もいつの間にか部屋から姿を消している。補佐官はまるで夢でも見ていたような気分で二人を見送った。だが彼らの言葉には本物の『力』を感じていた。
きっと、彼らはやってのけるのだろうと補佐官は確信する。二人を見た者は誰でも、その内に秘められた力を感じずにはいられないのだ。
「ふん、死にたいなら勝手に死なせとけ。ガキの英雄ごっこにいちいち付き合ってられんわ」
ぶつぶつと指揮官がつぶやく。何事にも例外はあるらしい。
◇
暗く染まる森のなか、蹄の音が響いている。
ちょうど月明かりも十分な夜であり、弓騎兵の軍団は日没後も森の道を走り続けた。
十頭前後の騎兵で一つのグループを組む。そして互いのグループは一定の距離を保ちつつ、蟻の巣に水を染みわたらせるように進軍を続ける。
彼らの邪魔をできる者はいなかった。
家を持たない遊牧民族は、コミュニティの移動が兵站そのものである。ゆえにその進軍速度はまさに疾風となる。
卓越した騎乗技術と独自の改良をとげた強力な弓。それが実現した戦闘力をもって手ごろな村や町を襲撃する。相手が従属すれば、そこからの収穫を住民全体の身代金として定期的に巻き上げる。従属しなければ命を奪い、あるいは奴隷としてさらい、財産を根こそぎ奪い、家々を焼きつくす。
シンプルな二者択一による経済システムは、彼らの遊牧社会に見事な相乗効果をもたらした。
彼らは自らを無敵の軍団だと信じている。
だが、常識をくつがえす存在が闇のなかから彼らを狩ろうとしていることに、まるで気づいていなかった。
軽快に疾走していた一頭の馬が、不意にバランスを崩す。
「おっ……うおっ!?」
進軍の先頭を走っていた馬がとつぜん転倒し、それに続く十頭ほどが同様に乗り手ごと地面へ投げだされる。乗り手たちの驚きと痛みに叫ぶ声が夜の森に響く。
地面に放りだされた兵の一人が、痛む体を持ち上げて月明かりの中で何が起きたのかを確かめる。
「いってえ……いきなり何だよ……?」
「お、おい! これ見ろっ!」
一人の兵が声を裏返らせる。それは戦慄する光景だった。
馬の足が四本とも中ほどからすっぱりと『切り落とされて』いるのだ。激しくいななきを上げてもがく馬たちは、何が起きているのか理解できないだろう。何しろ乗り手ですらそうなのだから。
そしてその怪現象は自分の馬だけではない。隊列を組んでいたまわりの馬がすべて足を切断されているのだ。
背筋に雪のかたまりを流し込まれるような感覚が兵たちに走る。
慌てて円陣を組み弓を構え、夜の森の中に感覚を集中する。苦痛にもだえる馬の鳴き声がようやくおさまっていく、その時。
「けうっ」
隣の仲間が妙な声を上げる。
兵が思わず目を向けた先では、首を九割がた切り離された仲間の姿があった。傷口からはどくっどくっと、鼓動に合わせて血があふれている。
「えっ」
自分の目が信じられなかったが、それを気にする必要はなかった。数秒後には、その兵自身も何者かに首を切り落とされていたのだから。
狩られる恐怖を弓騎兵たちが存分に味わう、長い夜が始まった。




