第三章 家なき歌姫 (1)
真夜中すぎに、嵐は激しさの峠をわずかに越えただろうか。
豊かとは言えない漁民の村。そこから臨む海峡に激しく叩きつける風雨は、海面を荒れ狂わせている。
地元の民はここ数日、漁にも出られず家の中でおとなしく嵐が去るのを待っている。
夜更けの海岸から見える水平線に、二つの『人影』があった。誰かが目撃していればそれを神か天使と思ったかもしれない。
彼らは『海の上』を歩いていたのだ。暴風雨の中にも関わらず、二人の周囲数メートルの海面は、まるで鏡のように平らでさざ波一つ立っていない。
そしてさらに不自然なことがある。
二人がまとう白いローブには雨粒の染みすら付いていないのだ。もっとも、その理由は明白である。吹き付ける雨が彼らに届く数メートル手前で『見えない障壁』によって弾き返されているのだ。
まるでガラス製の大きなドームが、彼らの歩く速さに従って海面を移動しているような光景。そう言えばいいだろうか。そんな常識的にありえない現象を、あくびまじりの片手間で起こしている人物がぼんやりとつぶやく。
「嵐、明日には止むかな?」
大槻キュウタは原初魔法の『硬化』を使って、周囲の『空気』を硬質化させている。そう、彼は空気そのものを海面を歩くための床、また風雨を遮る屋根に変化させていたのだ。
この嵐の海峡を徒歩で渡るため、数日連続でその魔法を維持するには大量の『魔力』を要求される。のちの時代に大魔術士と呼ばれるクラスの者でさえ、仮に同程度の魔力を行使したならば、その寿命を十年単位で縮めることだろう。
彼が永遠の寿命によって二十万年近い年月を生きる中、ひたむきに鍛錬してきた魔力の圧倒的な強靭さ。それに匹敵する魔力を持つ人物は、今後の人類史においても他には一人しか現れない。そしてその人物は今、キュウタの後ろを歩いている。
「キュウタ……お腹すきました」
サザレが可愛らしく鳴った腹を押さえる。ため息をついたキュウタは、その場にあぐらをかいた。
「少し休憩しよう。朝まではもう少し時間がありそうだ」
「はあい」
にっこり笑ったサザレが、キュウタの隣にぺたりと正座する。
彼が袋から取りだしたパンに、サザレが条件反射のごとく目を輝かせる。これが彼女の悪い癖である。三大欲求が絡むと洞窟人だったころの血が騒ぐのか、普段の理知的な態度が一気に裏に引っこんでしまうのだ。かろうじて、よだれを流していないのがせめてもの救いかもしれない。
夜の海上、激しく叩きつける波にも動じない『空気のドーム』の中、のんびりと食事をする少年少女。それは何とも不思議な光景である。どことなく野性味を感じさせるしぐさでパンを頬張るサザレを見ながら、キュウタが腕組みをした。
「サザレが『未来視』で見た場所まで、あと数日ってとこか」
「そうですね。山と海岸の位置関係から推測すると……」
皮袋の水を一口飲んでから、サザレは視線を海上から海岸へと向ける。
「あの丘の向こうですね」
◇
朝露に草が濡れている。
木々の枝が折られた真新しい断面や、湖面に浮かぶ大量の緑の葉。それらは数日前に止んだ嵐の爪痕を感じさせている。
その少女は湖のほとりに立ち、『歌』を口ずさんでいた。
胸の前で軽く手を組むのが、声を出すときにもっとも楽な姿勢だった。麻の上着とズボンは体に比べると少し大きい。
湖面は東からの朝陽を受けて、さざ波の上に細やかなきらめきを作り出している。
あたりを飛んでいた小鳥や木のウロに住む小動物、果ては虫や魚までもがその動きをおとなしくしている。まるで少女の発する声に生けるもの全てが聞き入っているようだった。
突然、空気を切り裂くような青年の声が響く。
「タアル!」
その声に反応した生き物たちが、止まっていた時間から解放されたようにせせこましく動き出した。
歌を邪魔され、不愉快そうに振りむいた少女。全体的に小作りな部品で構成された顔つきだが、調和の取れた美しさと言えるだろう。
彼女と同様な浅黒い肌の青年が、土手の上から馬で駆けてきた。少女の目の前で鮮やかに馬を止め、黒々とした毛並みの背から草地にひらりと飛び降りる。その青年の背丈は、少女よりもかなり高かった。
タアルと呼ばれた少女は、ひそめた眉をさらに険しくする。
「ジャドゥ、見下ろすのは止めて」
青年は声にならない笑いを漏らし、目の前で可愛らしくふくれる少女の前にひざまずいた。ジャドゥと呼ばれた青年のやや垂れ下がった切れ長の瞳が、駄々っ子を扱うような色でタアルを見上げる。
「これでいいかい?」
ふん、と鼻をならしたタアルが腕組みをする。
「まあいいわ。何か用なの?」
「ああ。ナラガンが呼んでる」
「……族長が?」
そうさ、とつぶやいてジャドゥが立ち上がった。少女の頭上から自慢げに視線を下ろす彼に、タアルが歯をむく。
「だから上から見下ろさないでって……ちょっ」
抵抗する暇も無かった。ジャドゥが少女の脇に手を差しこみ、軽々と持ち上げて馬の背にちょこんと乗せる。ふわりと舞い上がった少女の三つ編みの黒髪が、目を丸くした表情のまわりを半周する。
「これでいいだろ?」
少女が馬の背から見下ろしているジャドゥは、今にも腹を抱えて笑い出しそうだ。
鞍に横座りさせられたタアルは仏頂面で黙りこみ、ぷいと横を向いた。
◇
ジャドゥが手綱を持って引き歩く馬の背から、タアルたちの現在の住み家が視界に入ってくる。
だだ広い草原の中に、丸みのある屋根を持つテント。それが十かそこら並んでいた。各々のテントの周囲には杭が打ち込まれ、そこに繋がれた馬がのんびりと草を食んでいる。
そのずっと遠くには羊や牛の群れが豆粒のように見えており、ときどき思い出したように地面の草へ頭を伸ばしていた。それらを見張るのは、部族の子供たちの仕事であり、いくつかの小さな人影が長い枝をもってぶらぶら歩きまわっているのが見える。
ジャドゥが子供たちから、馬の背で黙りこくる少女へと視線を向けた。その声には初めからどことなく諦めの念が浮かんでいる。
「なあ、タアル。そろそろ俺のテントに住まないか?」
「どうして、私たちが一緒になるのが当たり前、みたいな事を言うのかしら」
タアルの答はいつもと同じである。
青年の提案は正直言って悪い気はしない。だが今は、まだその時では無いように思うのだ。
年中、決まりきった経路で牛や羊を引きつれて牧草地を渡り歩く生活。やがて誰かのテントに嫁ぎ、子を産み育てながら、余る時間で羊毛やらの布を織り暮らしの足しにする。
別に悪いとは思わないのだが、どうにもしっくり来ない。
タアルの部族は長距離を移動するついでに、あちこちの町で自分たちの家畜と交換に仕入れた品物を交易し、差益を得ている。取り引きに向かう父親の後について、タアルも時々町の中を見て回るのが好きだった。町には色々な人がいる。そして一ヶ所にとどまって暮らす生活とはどんな物なのだろうと空想することもあった。
いつも馬に乗って弓やら投げ槍やらの腕を磨くことしか頭にないジャドゥは、そんな事を考えたことも無いのだろうとタアルは思う。
ジャドゥの声がタアルの思索を断ち切った。
「お、あれだな。客人ってのは」
一際大きなテントの前に、族長であるナラガンが立っている。その横には小柄な人影が二つ。見かけない顔で、自分と変わらない年頃に思えた。客人だから見覚えが無いのは当然だが、彼らの容姿に似合わぬ落ち着いた態度は、この距離からでも察することができる。
奇妙な不審感がタアルの胸に巣を張った。
タアルの家族が属するのは総勢五十人ほどの、やや大所帯の部族である。遊牧を生業としている彼らは、内外との交流が少なくない。それは牧畜では手に入りづらい日用品の工面や、行商人の道案内などという意味合いがもっぱらであった。
だが時として、ワケありの人間を労働力や新しい血縁として迎え入れたりすることも、その『交流』の中には含まれている。
ジャドゥが目をすがめて、まだ遠くにいる相手を見定めようとした。
「新入りか? 何か弱っちそうだな」
「あなたから見れば、皆そういう風に見えるでしょうね」
確かにジャドゥはこの部族の中でも恵まれた体格を持っている。体だけではなく、馬や弓の扱いも大人たちに引けを取るものではない。それを自慢げにひけらかすような態度さえ無ければ、自分も多少は素直になってやってもいいのだが、とタアルは心の内でぼやく。
ナラガン族長がタアルたちに気づき、手招きをする。酒も飲んでいないのにいつも赤ら顔のナラガンは人懐っこい笑顔を滅多に崩さない。だがこれでも他の部族長からは一目置かれているのだ。人は本当に見かけだけでは分からない。
馬の背に揺られるタアルを指したナラガン。客人に話しかける彼の声が彼女の耳にも届く。
「ほら、あの子がそうなんだが、その……どうなんだ?」
何の話をしているのだろう。ジャドゥの手を借りて馬から降りたタアルは、その客人たちをしげしげと眺め回した。
少年と少女の二人組。肩から羽織った丈夫そうな白い布が、彼らの体を膝の下まで隠している。
うん、子供だ。少年のほうは、ひょっとしたら自分よりも年下かも知れない。そして少女のほうは間違いなく年下だとタアルは確信する。
なぜか少女はずっとタアルの顔を見つめていたが、やがて少年に向かって小さくうなずいた。青い瞳がとても綺麗な娘だ、いやそれはどうでもいいと頭を振る。何なのだろう、人の顔をじろじろと。タアルは少しばかり不愉快になった。
腕組みして客人を眺めていたナラガンも小首をかしげる。
そして少年はタアルを指差すと、ナラガンに向き直り、こう告げた。
「彼女を僕に『売って』下さい」
それが白いローブをまとった少年、キュウタの第一声である。
タアルは十六年の人生の中で、最高に不愉快な気分になった。




