女神の侍女
普段、潮が姫と呼ぶ咲月に比べ、随分とぞんざいな扱いを受けている朔海は、彼のその意外な擁護にびっくりしたように目を瞬かせた。
叩頭し、敬意を評しながらも、潮は揺るぎなく神に向かって意見した。
「――生意気な、小童め」
低い声音で呟いた女神は、牡鹿の背から身軽に飛び降り、自らの足で立ち、こちらを見下ろした。
「……だが、その心意気は嫌いではないな。お前の言葉に嘘は見当たらぬ。しかし娘よ、どうしてこのような森の奥へ来た? その出で立ち、私のように狩りを楽しみに来たのではないだろう?」
「あの……、ダンスの先生を、探しに――」
「何、ダンスの教師だと? こんな森の中にか?」
「は、はい、マダム・パンジーに――ピクシー族の女性が、ここへ来るといいと教えてくれたので……」
「成る程、マダムの差金か」
途端、アルテミスは呆れたようにため息を吐いた。
「こんな森の中に居た理由はそれで納得してやる。しかし、何故そんなものを探している?」
その理由を告げる事で、この女神の勘気を被らないかと懸念を抱きつつも、神からの下問に黙りを決め込む事も出来ない。
「……彼は、近々王位を継ぐ事が決まっています。彼の伴侶たる私も、それに相応しい教養を身に付ける必要があり、それを教えて下さる方を探しているのです」
「王位だと? ……お前、吸血鬼の王族なのか。全くそれらしくないな。嘘を言っているのではないのは分かるが……。ふむ、確かにこれは変わり者と呼ぶべきなのだろうな」
犬の頭を撫でながら、彼女は肩をすくめた。
「偶然にも、私はお前たちの望みに見合うものを知っている。彼女は、我が侍女だったのだが、私がここ、次元の狭間へ狩りに赴くにあたって伴って来た際、掟に背き、異性に恋をした。気に入っていた侍女なのだが、私も秩序を保つ義務がある。このままにはしておけん。と、いうわけでだ」
手にした弓を、こちらへ差し出しながら言った。
「お前たちに、彼女を預ける。――たが、掟に背いたとは言え、私の大事な侍女だ。我が目にかなう者で無ければ託せぬ。娘、我が弓であれを射抜いて見せろ。見事当ててみせたなら、彼女はお前のものだ。仮にも、私に長く仕えた者だ、ダンスはもちろん、一般的な宮廷作法にも精通しているぞ」
そして、そっと茂みの陰に咲月を誘い、そこから森の奥を指さした。
彼女の示す先には、蹲った大きな熊が一頭。
(……熊? 待って、確かアルテミスの神話に、そんな話が無かったっけ?)
人間界の夜空に昇る大熊、小熊座にまつわる伝説に、確かこの神が関わっていたはずだ。
「……アルテミス様。我が身に余るお話で、大変恐縮なのですが、私はここへ殺生をしに来たのではないのです。貴女の言うとおり、私は吸血鬼で、魔物です。けれども、真実魔物へと身を堕とさぬためにも、無用な殺生はしないと、決めているのです」
もしや、と過ぎった疑念から、咲月は彼女の申し出を謹んで辞退する旨を伝えた。
――果たして。
女神は満足そうに微笑んだ。
「では、殺生が関わらぬなら、どうだ? 例えば、あれ。あの木の枝に下がった実。あれはもう、熟しきっている。自然に落ちるのは時間の問題だ。あれならば、射落としたところで何ら問題はあるまい。地に落ちた実は、遠からず根を張り芽を出し、やがてまた新たな実をつけるまでに成長するだろう」
新たに示されたのは、他の木々より頭一つ分は高い木の枝に下がる、やけに毒々しい紫色をした大玉のスイカ大の実だった。
しかし、その遠さから今はテニスボールサイズに見える。
その、小さな的に矢を当てろと、この女神は言っているのだ。
咲月が弓を手にしたところなど一度も見たことのない朔海は焦ったように咲月の肩に手を置いた。
「咲月、無理する事はない。……今回ダメでも、また他を当たればいいんだから」
けれど、咲月はそれを不敵な笑みを浮かべてそっと外した。
「ほんの数ヶ月だけだけど、ね。稲穂様にお墨付きをいただいた腕前、見せてあげる」
アルテミスの象徴とも言える、月の弓を受け取り、一本の矢を貰い、咲月は的に向けて矢を番えた。
矢尻に人差し指を添え、照準を合わせ、矢羽根を捕まえて弓を一杯に引き絞る。
新月になる寸前の、か細い月を模したようなそれは、女性が使うには大ぶりな弓だが、意外にも軽い。
これならば、問題なく当てられる。
咲月は確信を持って矢羽根から手を離し、矢を撃ち放った。
ヒュン、と空を切り裂いて飛んだ矢は、僅かに放物線を描きながらも、ストン、と目標の実の真ん中を貫き、実は勢いのまま矢と共にさらに後方へと飛ばされ、落ちていった。
「――お見事」
咲月が差し出した弓を受け取りながら、女神は言った。
「その腕、このアルテミスが確かに見届けた。故に、お前を認め、我が侍女をお前たちに託そう。――セレナ、おいで」
アルテミスが指を鳴らすと、先程彼女が示した大熊が、青白い光を放ちながら、人の姿へと変わる。……それも、アルテミスと同じ髪色を持つ美しい女人に。
(やっぱり……)
先ほどの疑念が当たっていた事を確信し、咲月は内心でホッと胸をなでおろした。
「セレナ。お前を、掟破りの罪にて追放処分とする」
セレナ、と呼ばれた彼女は、押し黙ったまま静かに、深々と頭を下げた。
「長い事、世話になったからな。……まあ、達者で暮らせよ」
アルテミスは、あっさりとした調子で言うと、くるりとこちらに背を向け、牡鹿と猟犬を伴って森のさらに奥の方へと歩き出す。
「……だが、どうしてだろうな。何故かお前たちとはまた何処かで会う気がしてならない。私に予言の能力はないはずだが、もしもまたその機会があったなら。セレナ、その時お前が今より幸せな暮らしを手に笑っていて欲しいと、私は願うよ」
そう言い残し、女神は姿を消した。




