月の女神
いつも、あの街へ来る度に目にしていた、アルプスのような山並み。
それを、こちら側から見るのは朔海も初めてだった。
「山のこちら側の森は、獰猛な獣型の魔獣や精霊なんかが多く生息する地域なんだ。大した用もないのに無闇に立ち入れば、いらぬ殺生をしなければならなくなる」
言いながら、朔海は血色をした簡易使い魔の狼をけしかけ、二本の尾を持つ虎の様に大きな猫型の獣を追い払う。
鬱蒼と大小様々な木々や草、毒々しい色のキノコやらが生い茂る森の中。
昨日、マダム・パンジーから得た情報を頼りにやって来たそこは、全く手付かずの大自然の中、当然整備された道などない。
かろうじて下草のならされた獣道があるだけの、道なき道を行く。
当然、朔海も咲月も昨日のような正装ではなく、動きやすい長ズボンと長袖シャツというラフな格好をしている。
「……でも、こんな所に何があるって言うんだろう? 普通に考えたら、こんな所にひとが居るとは思えないんだけど」
ましてや、ダンスを教えられるだけの心得のあるようなものなど――。
だが、不意にヒュッと風を切り裂く音がすぐ耳元で聞こえ、直後、ガツンと咲月のすぐ横の樹木に矢が突き刺さった。
「――!?」
寸前で、朔海が腕を引いてくれなかったら、間違いなく咲月の頬を矢尻がさっくり貫いていただろう。
思わず息を飲んだ咲月の隣で、朔海が咲月を庇いつつ油断なく周囲を警戒する。
すぐに、ガサガサと草木をかき分け駆けてくる、比較的体重の軽い四足の獣の足音が近づいて来た。跳ねるような、間隔の短い呼吸音。
それがすぐそこまで迫った瞬間、それは大きく跳躍して茂みから飛び出し、牙を剥いた。
朔海の簡易使い魔がそれを迎え撃つように飛びかかる。
朔海は、咲月を抱えて、ひとつ、後ろへ跳躍し、距離を取る。
「狼……?」
美しい蒼みを帯びた銀の毛並みを持つ、狛より一回りほど小さな獣。
毛並みや体躯の美しさは桁外れだが、ぱっと見の印象は、ハスキー犬の様でもある。
そしてそれは、朔海の使い魔の狼の首を食いちぎろうと激しい攻防を繰り広げている。
「待て、シリウス!」
だが、その背後――先程それが飛び出してきた茂みの向こうから、ピシリと手綱を引き締めるような鋭い声が飛んだ。
ガサガサと茂みを揺らして、現れたのは――
美しい、透き通るような白の毛皮を持ち、幾つにも枝分かれした美しい角を持つ、鹿。
そして、その鹿に跨る、矢筒を背負い、弓矢を手にした鎧姿の女性だった。
その、鎧は随分と古風なデザインで、まるで古代ローマのグラディエーターの様な出で立ちだ。月光のような金髪に、しなやかな体型の中にも、女性らしいふくよかさがしっかりとある、とても
美しい女性。
姿かたちは人間のようだが、その見てくれは明らかに人間離れしている。
当然、次元の狭間の、こんな場所にただの人間が居るはずもない。
彼女は当然何がしかの人外のはずだ。
だがここは次元の狭間、それが聖に属するものか、魔に属するものかは確信がもてない。
だが、その出で立ちから猟犬を伴った狩りの途中であるらしい事は察せられた。
そして……
「犬の名前がシリウス……。あの髪色と、それに弓――。まさか……」
確信はもてないが、咲月はふと思い浮かんだ名前をポツリと漏らした。
「アルテミス……様?」
その囁きに応えるように、しゅるしゅると潮が姿を現す。
「――おそらく、間違いありません、姫様。アポロン神とご姉弟であらせられる、月の女神様です」
潮は、元はローレルの大精霊に由来する精霊だ。
そのローレルはアポロン神と少々因縁を持っている。
そして、かの神と姉弟神であるアルテミスは、月の女神であると共に、狩猟と貞潔を司る神でもある。
清廉、という言葉を体現しているような、そんな威厳に満ちた佇まいは、確かに彼女が神と呼ばれるに値するものだ。
一口に神と言っても、あの豊生神宮の気安い面々とは、まるで別格の存在に思える。
「懐かしい気配を感じる。そこな小童、お前、ローレルの仔か」
「は、仰せの通りにございます。私は、魔狩りの一族を守護する大精霊ローレルの仔、名を潮と申します」
潮は朔海の頭の上で慌てて片膝をつき、頭を下げた。
「確かに彼女の気配を感じる……が、お前の傍らに居るそれらは何だ?」
主に諫められ、積極的な攻撃こそ控えたものの、主に危機が迫ればすぐさま喉笛に噛み付いてやるとばかりに唸る猟犬を、それ以上たしなめる素振りもなく、むしろこちらが妙な動きを見せれば即座に射殺すぞと言わんばかりの鋭い目で睨めつける女神。
――そう言えば彼女は、死をもたらす女神という側面を持っていたのだったと、咲月は思い出した。
こちらの行い次第で彼女は和御魂にも荒御魂にもなりうる。
咲月は、自分を庇う朔海の後ろから出て彼の前へ立ち、地面へ膝をついた。
「私は、この仔の母体たる大精霊が守護する一族の血を引き、また古くから英国にて血を繋いだ魔女モーガンの娘。けれど運命の悪戯で自らの血とは無縁な環境で育ち、そしてある事情から彼の血を受け吸血鬼となる事を選んだ者」
神に偽りを述べるなど、罰当たりも良い所だ。
咲月は事実のみを簡潔に纏めた名乗りを上げた。
「吸血鬼――魔に属する者か。それも、人間上がり……。聖なる血を持ちながら自ら闇に墜ちるとは愚かな。ここが人界か天界であれば即座に我が弓にて浄化してやるものを」
それに対しアルテミスは、侮蔑に満ちた視線と言葉を返す。
「お、畏れながら申し上げます! 我が主たちは、確かに種族こそ吸血鬼、魔界でも悪魔に次ぐ力を持つ魔物でございます。けれど私は今も尚、破魔の精霊なのでございます」
多くの神々にとって、吸血鬼は魔物の一種で、排除すべき存在である。
あの豊生神宮の面々が変わり者なのであって、これが普通の反応なのだと、頭では分かっていてもグサリと心に突き刺さるものを感じたものの、神を相手に言い返すなど、恐れ多い。
そう思って堪えた所を、果敢にも声を挙げたのは潮だった。
「他のものには確かにまだ有効である我が力を受けても平然としている。我が主は、そういう変わり者の類なのでございます。そして我が姫は、己の血とは全く無関係の世界で孤立無援に近い環境で育たざるを得なかったのでございます。……その姫の命を心を救った主を貶されたまま黙っている事は、守護精霊たる私には出来ません」




