次元の狭間の移動法
扉を潜った直後の、全く何も見えなかった状態とは違う。すぐそこにある朔海の顔は暗闇の中でもある程度視認は可能だし、周囲を何か薄もやのようなものが取り巻いているのは見える。
だが、基本として周囲一帯全てが黒一色で塗り込められている事に変わりはない。多少の濃淡はあれど、物の輪郭は全くつかめない。
ドライアイスが発する靄を黒く染めた中に居る。視界に映る景色の説明としてはその喩えが一番しっくり来る。
要は、何も見えないも同然なのだ。
そんな中で、彼が灯りのひとつも持たない理由は、やはりあの地下室と同じ理屈なのだろう。
それでも、こうして朔海の顔が認識できるのは、あの時との大きな違いだ。
これが、手に入れた通行許可証の効果の一つなのは間違いない。
あの時目にすることのできなかった何か硬い塊が溶けて消えた掌と、その後に熱を感じた手の甲とを眺めても、特に何か変わった様子は見当たらない。
――それにしても。月も、星もない。ただ暗いだけの空間に長時間いると、だんだん時間の感覚が鈍くなり、どれだけの時間が経過したのか分からなくなってくる。
もう随分長いことこうしているような気もする一方で、あの扉を潜ってからまださして時間が経っていないようにも感じる。
「ここからまだ遠いの、朔海の家って?」
そもそも、次元の狭間という世界はどの程度の広さがあるのだろう?
「いや、もうすぐ着くよ」
答えた朔海は、ほんの少し高度を下げた。
「次元の狭間は、そんなに広い世界ではないからね」
「そうなの?」
「うん。例えば魔界は、人間界の世界とほぼ同等、地球一つ分の広さがある。僕自身は行った事はないけれど、話に聞くところによると、天界もやっぱり同じくらいの広さがあるらしい。だけど、その三つの世界が干渉し合って出来たこの世界は、確かに他と同じくらいの広さはあるんだけど、中央から離れるに従って、色々不安定さが増していく。世界の境目なんか、あまりに曖昧で、まともに近づけないんだ」
だから、主要な施設や街、そして多くの住居や諸々は、全て中央付近に固まっているのだという。――異界の扉も含めて。
「それでも、大陸一つ分くらいの広さはあるんだけど。僕の家は中央よりは辺境寄りに在ってね。あの扉は他の扉と比べれば一番近い。……咲月の家から若宮町までの距離と比べたら、倍以上の距離があるのは確かだけど」
言いながら、朔海は一気に高度を下げる。
「でも、この世界に自動車なんかないし、電車も飛行機もない。……けれどここは、人間から見れば特殊な力を持った者たちが集う世界だ。だから、この世界にはこの世界なりの移動手段が存在する」
地面に突っ込む勢いで急降下する朔海。咲月の目に地面は見えないが、何をするつもりなのかと思わず目を疑わずにはいられない。
だが、一瞬、魔術を使ったときに見る特有の青白い光りが視界に広がり、その輪の中を潜り抜けたように見えた――瞬間、ぐにゃりと周囲の空間が歪んだ気がして、一瞬胃がひっくり返ったような気分の悪さを感じ――ぐるりと、世界が反転する。
「こういう、魔法のワープポイントがいたるところに設置されているんだ。……ここを潜れば、僕の家は――」
先程までの急下降から一転、一気に急上昇した朔海は、ひときわ高い音を立てて羽ばたいた。
「もう、すぐそこだよ」
その言葉を聞いてから、しばらく。確かにそうかからず、朔海はゆっくりと高度を下げ、やがて地面へ降り立った。
――とは言え、咲月の視界に映るのは、上下左右360°全てが相変わらずの黒い薄靄に覆われた世界のみ。地面すらも、スモークを目一杯焚かれたステージのようであやふやだ。
そんな中に立ち、朔海は手のひらを掲げ、何かに触れた。
まるで、扉に触れたロキ神の様に。
すると、薄ぼんやりした仄かに青白い光が、うっすらと前方に広がった。
ちょうど何かの輪郭をなぞるように、ぼんやりとした光の内に影の形が顕になる。
それは、家というより屋敷というべき広さの建物だ。
――相変わらず外装はまともに視認できないが、その大体の大きさだけは何となく把握できた。
相当に広いと思っていた葉月の自宅でさえ、医院部分を含めても、小さく見える。
そのくらい大きな屋敷だ。
思わず息を飲んだ咲月の前で、ゆっくり開く扉の、蝶番の軋む音がした。
「どうぞ、入って。――ようこそ、僕の家へ」
咲月の手を引き、一歩、進む。そして、もう一歩。更にもう一歩。そうして数歩歩いた、そのすぐ後ろでもう一度、蝶番が軋み、ガタン、と重々しく扉が閉じる音がして。
朔海が、人差し指で宙に小さな魔法陣を描いて、それを上へ放り投げた。
初めは人差し指を取り巻く程度だった大きさの外円が、見る間に大きく広がり――
パッと、眩い光が辺りを明るく照らし出した。
目を庇い、咄嗟に翳した腕をゆっくりどかし、改めて見てみれば、キラキラと美しい輝きを放つ、巨大なシャンデリアが、高い天井からぶら下がっている。
幾つも輝く小さな明かりは、電球ではない。蝋燭を幾本も並べた淡い光が、それまで闇一色に染まっていた場所に色を与える。
――蝋燭に灯された炎の明かりに浮かぶ色は、少なからず赤みを帯びた色に染まりながらも、むしろだからこそだと思える幻想的な光景を咲月の目の前に広げてみせた。