魔王の祝福
「石……?」
碧みの強い、透明感のある美しい緑色をした石。球体の形に加工され、研磨されたそのサイズは、ビーズ玉にするのに程よい大きさのものが、一粒。
「これは……おそらくエメラルドでしょう」
朔海とともに咲月の手のひらの上のそれを覗き込んだ葉月が言った。
「エメラルド……」
透明度の高い、その石の中に、どう加工したものか、蛇の巻き付いた杖のような金色の紋章が刻印されている。
「その紋章は、魔界ではこう呼ばれている。――魔王の祝福、と」
「要は、魔王のお気に入りだという証ですね。魔界ではある種のステータスの一つと捉えられ――まあ、人の世で言う勲章みたいなものです。成る程、私がいただいた爵位に勝るとも劣らない餞別ですね」
元人間で、あの綺羅星の伴侶だというだけで、咲月を侮り軽んじるものはきっと少なくないだろう。
だが、魔王の祝福を授かったものは、数多いる魔物たちの中に、数える程しか存在しない。
そして事実、それを持つもの達を魔王が重用している前例がいくらもある。
「あの、『Spica』のジャンヌ・ダルク、彼女も魔王のお気に入りでね。……そして、彼女もまたかつては人間だったひとだ」
かつてのフランスで、神の声を聞いたとイングランド軍と戦いながら、最期は異端審問にかけられ火刑に処された、歴史上の人物の中でも特に有名な一人だ。
勿論、咲月もその名前くらいは覚えがある。
彼女は、神の声を聞き、人々を助けた。けれど、神と人に裏切られた彼女は、人間としての生を終えた後、魔王に見出され、魂の『器』を与えられた。――今の彼女は、種族としては魔王がその魔術によって創った『悪魔』ということになる。……かつて天から堕ちた堕天使である上級悪魔ではなく、下級悪魔。
しかし、その後その才覚を目覚めさせた彼女は魔王から祝福を受けた。
今や彼女は、上級悪魔と同等――どころか多くの堕天使たちより優遇される立場にある。
「今、魔王が身に付ける衣装を取り仕切っているのは全て彼女だ。身分としては魔王お抱えの衣装係、ってとこだね。実際、魔王の政務に携わる側近に次ぐ扱いを受けている」
「今回承ったそれを鑑みるに、それ以外にも何か事情がある可能性も捨てきれませんが――それでも、その印を持つものを軽んじようと思うものは、そう多くありません」
「まさに、最強の後ろ盾だよね。……お膳立てには完璧だ」
朔海が、ひとつ大きくため息をついた。
「正直、どんな無理難題を押し付けられるのかと戦々恐々だったけど……。世界の危機と言われて、黙って見ていられる訳もないし。とにかくまずは、信頼できる臣下を集めなくちゃね」
「そういえば、さっき言ってたひとって……」
「ああ、『赤竜』の事だろう? 彼もまた、竜の血を扱うことに成功した一人だよ。王家の血を引く、分家の分家、王族の括りには入らない一族に生まれながら、その力を発現させた英雄だけど、彼は吸血鬼の王位を蹴って、あのソロモン王の側近として名を馳せたひとなんだ」
「――天使も悪魔も従えたとされるかの王に仕えた能吏で、最も王の信頼の厚かった臣であったと聞きます。
「そして今は、自ら選んだ主に仕えている。……その主、というのが元はなんの取り柄もないようなごく普通の人間の少女だと……当時、吸血鬼一族の中では前代未聞だと言われて随分騒がれたらしいけど――」
「……そのひとに、会いにいくの?」
「ああ。彼は、その来歴から、魔物や天使に顔見知りが多い。――それもかつてソロモン王に仕えた、神の教えに従う魔物たちを纏めているのが彼だ」
「つまり、魔界においては変わりものと言われるだろうひと達を多く知ってるひとなのね」
「僕は、直接面識があるわけじゃないけど。……だからこそ、一度は直接顔を合わせたい。それもできるなら、魔界の吸血鬼の王城に呼びつけるのではなく、協力を乞いに行きたいと思ってる」
「だとしたら、正式に王城へ入る前に行くべきでしょうね。でなければ、そうそう城を出る機会はめぐってこないでしょうから」
「……むしろ、このまま直接行ってしまおうか?」
「それは……さすがに。魔王が知らせを飛ばすと申されていたとはいえ、こちらからも一応は先触れを出しませんと、さすがに非礼に当たります。今後のためにも、心証は大切にしなければ」
「なら、葉月。僕の臣下として、お前がこのまま先触れとしてかのひとのもとへ赴け。先方と交渉し、アポが取れたら、使い魔を飛ばせ。葉月にとっても、彼と顔つなぎしておけば、今後の為になるだろう」
朔海は馬車を下ろし、扉を開けた。
ひょいっと、まず自分が降り、続いて咲月を支えて降ろす。
「僕らは一度、このまま次元の狭間へ戻る。……あちらにも何人か、会って話をしたい心当たりが居るからね」
葉月を一人、馬車に残して朔海は扉を閉め、ひらひらと笑顔を浮かべながら手を振った。
ヒヒン、と嘶きを上げながら、天馬がその翼を広げ、馬車は闇夜の向こうへと消えていく。
それを、朔海とともに見送りながら、咲月は周囲を見回した。
見渡す限り、空と大地との境の線――人間界でなら地平線と呼ぶだろうそのラインが360度ぐるりと囲う、ただただ荒れ果てた大地の続く荒野だ。
ごろごろと大きな岩や小石が散らばるだけで、他に目に映るものもない。
だが……何故だろう。見覚えがあるような気がする。
「ここは……、もしかして、あの時の――?」
自らの足で立つのは初めての場所だが、以前、咲月はこの場所を目にしている。
『王族認証の儀』で、王妃に仕掛けられた幻術。その中で見た、朔海の過去。
その時に見た背景に、ここは酷似している。
「――そうだよ。あの地平線の向こう、すぐの場所に、吸血鬼の王都がある。ここから馬車を使えば数十分の距離だ」
「わざわざ、ここを選んで馬車を降りたのは、何か考えがあってのこと……?」
「ん……。これまで、努めて忘れようとしていたことだけど。でも、忘れられはしなくて。ずっと罪悪感を抱えたまま生きてきた。……だけどそろそろ、一区切り、けじめをつけなきゃいけないなぁって思ってさ」
大したことをする訳じゃない、ただ自分で納得するだけの、自己満足でしかないけれど、と、朔海が自嘲の笑みを浮かべる。
「うぅん。鎮魂、って言って思い浮かぶの、私的には牌を立てるとか、祠を作るとか、それくらいで……。あ、でも。そう言えば、ちょっとだけ、お神楽教わったの。本当に少しかじった程度だけど、さ」
咲月が、そっと朔海の隣から一歩踏み出す。
「姫様!」
ひょいっと、潮が顔を出し、待て、と言わんばかりに叫んだ。
「姫様、それでしたらこの潮の得意分野でございます。悪しき気の浄化など、寝ながらでもできます!」
はいはい、と己の存在を精一杯主張するようにピンと右手を挙げる。
――雅楽も謡いも、衣装も、何もない。
ただ、拍を刻む朔海の手拍子に合わせて、拙い舞を披露して、どの程度意味を持つのか定かではない。
それでも、気休め以上の意味はある。
二人で背負うと決めた罪だ。
咲月が何もしないでいる選択肢はありえない。
観客は、朔海と潮のみながら、城で少なからず窮屈な思いをした身体をのびのび使って踊るのは、存外気持ちいい。
潮は、竜に姿を変えて宙を舞い、、咲月が踊るその場に銀の光を降らせる。
破魔の力を持つそれが、雪のように地を覆い、釣られるようにふわふわと漂いだす形をなさない気の集まりのようなものたちが共に踊りだす。
それが、陰から陽へと性質を変えていくごとに、はっきりとした形をとりだし、やがて一つの姿をかたどった。
手のひらに乗るほどの大きさの生き物。
こういう生き物を、咲月は目にしたことがあった。
これは――
「……妖精?」




