高まる緊張感
「――おはよう」
少しかすれた声が、鼓膜をくすぐる。
微睡みから覚めたばかりの視界に映る、彼のドアップと、すぐ傍で囁かれる彼の声――。
……もうそろそろ慣れてもいい頃だと思うのだけれど、未だこの状況に、いちいちドキドキしてしまう。
部屋は、まだ薄暗い――……いや、“もう”と言うべきだろう。
時計を確認した咲月はその短針が5を指しているのを見て、まだ少し気だるい身体を起こし、隣の朔海を見下ろした。
「……さすがに、そろそろ起きないと。――約束は、今夜0時、でしょ?」
夕べ――というより今朝の明け方近くまで人間界で遊び回った末、朝帰りというやつをし、それから今しがたまでベッドに入り浸っていたわけだが、ここからはもう、のんびり構えているわけにはいかない。
「……まあ、ね。吸血鬼の城から魔王の城まではそう遠くはないから、そう焦る必要はないと思うけど。さすがに遅刻するなんて致命的な失態は避けたいし」
朔海も、頭を掻きながらあくびをしつつ、起き上がる。
するりと、相変わらず憎らしいほどすべらかな素肌をシーツが滑り落ち、肩から胸板、腹までの裸体が露わになる。
咲月は慌ててそろそろと視線を逸らしながら、自分もガウンを羽織り、ベッドから降りる。
葉月との待ち合わせは、午後7時、この屋敷で共に夕食を食べ、身支度を整えた後、出発する予定だ。
待ち合わせ時間まであと、2時間。そして魔王との約束の時間まであと7時間。
少しずつ、少しずつ、緊張感が高まってくる。
シャワーを浴び、食事の支度を手伝い――。
やがて訪れた葉月と共に、食卓を囲む。ちなみにメニューは……肉うどんだ。
甘辛い味付けの牛肉に、生卵をトッピングした胃に優しいあったかメニュー。
「……やっぱり、葉月さんも魔王の城へ行くのは初めてなんですよね?」
「ええ、私の場合はそもそも魔界へ行くこと自体、数百年ぶりですから……」
丼を抱え、透き通った関西風のつゆを飲み干しながら、葉月が首肯した。
「僕は……生まれてすぐに、王に連れられて一度、魔王との謁見を許されたはずだけど、……さすがに記憶は無いからなぁ」
「王に連なる子は、生まれてすぐの一度だけ、魔王との謁見に臨む権利を与えられているのです」
朔海の言葉に葉月が補足する。
「……一応言葉は権利、って言っているけど、実際は義務、っていう方が正しい気もするけどね。でも、魔界では強者に見初められることは、栄誉な事だからね。魔王に認められるほど優秀な子を持てば、その王の優位性も増す。言うまでもなく、魔王は魔界で最強の位だ。魔王に見初められるかもしれない、その絶好の機会だ、皆は当然“権利”だと思ってる」
「けれど、朔海様から伺った、先日の魔王陛下のおっしゃり様では、どうやら陛下の側に何か目的があってそうしていた、とも考えられますね」
「当たり前だ。魔界の王だぞ、その忙しさは計り知れない。その中で、意味のないことにさく時間など無いはずだ。当然、魔王にとって何か理由があったからこそに決まってる」
――理由。
「魔王陛下の悲願、それを叶えるに足る器をはかる為だったと?」
「……これまで3百年、何の音沙汰もなかったんだ。その一度きりではかれるものではないんだろう。でも、その可能性のある者を把握しておきたい、程度の事だとは思うけど」
実際、王族の血も混じっているとはいえ、王族ではない葉月は、魔王との謁見は許されなかった。……にもかかわらず、今回朔海とともに魔王に呼び出されている。
「まあ、魔王陛下が何を望んでいるのかなんてさっぱり分からないけど。……行けば嫌でも分かるだろうさ」
箸を置き、デザートの蜜柑に手を伸ばしながら、朔海が肩をすくめた。
「……魔王陛下、かぁ」
思わず、咲月がため息を漏らした。
先日、初めてお目にかかった魔王陛下のあの威圧感。――あれは、紛れもなく本物だった。
例えば、葉月の医院の地下で紅狼と相対した時や、吸血鬼王に対面した時。確かにそれなりの威圧感を感じはしたが、それとは比べ物にならない、圧倒的なそれ。
それでも先日のあれは、吸血鬼の城、つまり魔王にとっては微妙にアウェーな場所であった。
しかし、今回は魔王の城、ホームグラウンドでの対面だ。
ついついため息が重くなってしまうのも無理はないだろう。
「――陛下は、僕たちに用事があって呼んだんだ。少なくとも、『王族認証の儀』の為に行った吸血鬼の王城に比べれば、危険度はむしろ低いんじゃないかな」
朔海は、少し情けなさそうに苦笑いを浮かべる。
「葉月や僕らを取って食おうと待ち構える紅狼殿も居なければ、僕らを特に邪魔に思う者も居ない。……僕らを客人として招いた以上、臣下には危害を加えることのないよう通達がなされているはずだ」
「力が絶対の魔界で、魔王に逆らえる者など居ませんからね。確かに、吸血鬼領より安全かもしれません」
朔海の考えに、葉月も同意の意を示した。
「……かも、しれないけどさ。でも、魔王の城でしょう? だって、ルシファーが実在したってことは、他にも――例えばベルゼブブとかベリアルとか、そういう悪魔たちも……」
「うーん、でも、城に伺候しているとは限らないから」
「彼らは名だたる大悪魔、つまりは大貴族です。それぞれ自分の城をお持ちですから、常に魔王城に居るわけではないのですよ」
「……って、ことは。やっぱり存在はしてるんだ」
と、いう事は。もしかして聖書に登場する聖人の中には、本当に天界や魔界を覗いた人物が居たのかもしれない。
「……この手のトリビア集めたら、本一冊くらい書けちゃいそう」
まあ、書いたとしても、こちらの世界ではどれも常識レベルの知識なのだから、売れはしないだろうが――。
……と。そう、この時は、思っていたのだけれど――。




