異世界の番人
「ありがとうございます」
すぐ隣で、朔海の声がする。
「咲月、これを――」
つないだ手を持ち上げ、朔海は上向けた咲月の掌に、ひんやりと冷たくて硬い石のような物を乗せ、そのまま拳を閉じて握らせた。
朔海の手に包まれ、握った手の中で、それは氷の様に溶けて形をなくし、瞬く間にその感触が消えてなくなった。
その瞬間、握った手の甲、朔海の手に触れるそこが突然熱を帯び――さらにその次の瞬間、全く何も見えなかった闇の中、咲月の視界に三人分の人影が映り込んだ。
一人は、勿論朔海。そしてロキ神。そして見覚えのない、和装姿の男性。
明らかに欧州人風の風貌をしたロキ神や、何となく東洋人らしくない見てくれの朔海と違い、綺麗な黒髪黒目に、前者と比べ僅かに小柄な日本人の平均身長と大差のない体格は、人外ならではの整った顔があっても、何となく親しみを覚える風体だ。
彼が、先程からの声の主、つまりここの番人なのだろう。
「あの、ありがとうございます」
咲月は、丁寧に頭を下げる。
「礼を言われる程の事ではない。私は番人として当然の仕事をしたまで」
見るからに誠実そうな彼は、謙虚な返事を口にした。
「相変わらず、からかい甲斐のない男だなあ。いじって遊ぶなら断然小娘の方だ。全く、たかがちょっとばかし長生きしているだけのモノノケが、このロキ様に向かって随分な口をききやがって」
彼の返しにぼやきを漏らしたロキ神を、彼は鋭く睨んだ。
「千恵に、何をした? 指導係としての範疇を超えた振る舞いがあったなら、貴様が何者であろうと関係ない、容赦なく叩きのめすぞ」
「ああ、はいはい。相変わらず息の合った仲の良さで。さすが、本当の永遠を誓っただけはあるみたいだねぇ? 俺には理解しがたいけど」
「我らモノノケが、真に永遠を誓える相手はただ一人だけ。この不確かな身を確かなものへと昇華してくれる、何物にも代え難い宝。私からすれば、お前たちの方が理解しがたいな」
――幾人も女を取っ替え引っ替えする好色な神としても有名なオーディンの義兄弟、ロキ神自身もまた、複数人の女と契っている。
「……本当に、そうですね」
朔海がぽつりと同意の意を示した。
「僕は、吸血鬼です。……可能不可能の話で言えば、同時に何人もの女性を妻に持つことも可能な種族です。事実、我が父王など、正妃である僕の実母以外に数え切れない程多くの女性を妾として囲っている」
それを可能にするだけの力を持つ限り、幾人でも自分のものに出来る。――それは何も男だけとは限らない。多くの男を傅かせる女吸血鬼というのも存在する。
「でも、僕にはそれがどうしても理解できなくて。あれのどこが楽しいのか、全く分からない」
その見解を聞いたロキ神は、たちまち不味いものでも食べたような渋面を浮かべた。
「うへぇ、君たち本当に男なのか? どんだけ堅物なんだよ全く。いいじゃないか、可愛い女の子に囲まれてちやほやされて……楽しいだろう?」
だが、番人の男は哀れな者を見る目をロキ神に向けた。
「確かに、私も一応雄だからな。異性に囲まれて全く興奮しないと言ったら嘘になるだろう。……だが、それだけだ。本物を知っているなら、そんな味気ないもので満足など出来るものか」
彼は堂々と言い切る。
「千年以上生きてきて、私の魂を震わせ、確かな安らぎと喜びを与えてくれたのは彼女だけだ。彼女が居るからこその幸せを知った今、そんなものに興味はないな」
そんな彼に、朔海はもう一度大きく頷き、畏敬の眼差しを向けた。
「王子殿下にも厄介な事情がおありのようだが、彼女が大事だと思うなら、何があっても守り通せ。絶対に離すな。――掌中の玉を失う瞬間の痛みは、身を斬られるより辛いものだが、自らの失態で招いた事態で要らぬ痛みを彼女に負わせてしまった時のそれは、その比ではないぞ」
彼は、後悔の滲む目で、斜め下の地面を睨みながら、朔海に忠告を与えた。
彼の様子から、実際そういう経験があるのだろうと、朔海は察した。
「当然、そのつもりですが……。その言葉、しっかり心に刻んでおきます」
朔海は敬意をこめ、深々と頭を下げた。
「私の名は、那由他。あの扉の向こうの地で、長らく土地神などしていた者だ。まあ、そちらの神の言葉通り、少々長生きしただけのモノノケだが、ここ百年ばかりの間に色々あってな。今はこうして番人の任に就きつつ、神籍を得るための修行を積んでいる」
彼が、朔海に手を差し出した。互いに握手を交わし、会釈し合う。
「――行くといい。この辺一帯に棲むモノノケや妖の類は皆私の眷属だが、ここは異界の扉を有する地。いつ何時、どんな輩が訪れるか知れぬ場所だ。そちらの娘はまだ人間なのだろう? ならば、早々にこの場を離れ、安全な場所へ連れて行ってやるべきだ」
「はい。……では。――ロキ神にもお手数をお掛け致しまして、御礼申し上げます」
朔海は両者に礼儀正しく頭を下げ、咲月も慌ててそれに倣った。
「真面目だねぇ。俺、そろそろ胸焼けしそうだわ」
わざとらしく胸を抑えながら身を屈めるロキ神は、しかしニヤリと微笑んだ。
「けど、面白そうだ。ここで会ったも何かの縁、ってな。お前にいい物をやろう」
ピン、と何か小さなものを指で弾き、咲月に投げる。
パチンコ玉サイズの、赤い玉。そこに、少しひしゃげたアルファベットのFの文字に似たルーン文字が刻まれている。――今、目の前に居るこの神を意味するアンスールの文字だ。
「俺が直々に力をこめてやった文字だ。好きに使うといい。――ただし、使えるのは三度までだ。三度使ったら、後は砕けて消える」
にやにやしながら、彼は言った。
神様本人が刻んだルーン文字。ルーン文字はそれ自体も力を持つのだから、そのまま使うだけでも相当な威力の術になるだろう。
――だが、忘れてはいけない。ロキ神はトリックスターとして名高い、悪戯好きの神。
時に邪神扱いされる事すらある彼から贈られた文字の使いどころはかなり難しそうだ。
咲月は慌てて礼を口にしながら、同時に晃希との授業で叩き込まれた知識と照らし合わせ、頬が引き攣りそうになるのを必死でこらえた。
もう一度、軽く頭を下げた朔海は、再び咲月を抱え、空へと昇る。
番人たちの姿はたちまちのうちに遠ざかり、見えなくなる。
人間界の空のように、星や月は見当たらない、闇色の空。
(――ここが、次元の狭間。……ここはもう、人間界じゃない。これが、異世界なんだ)