吐露
部屋の壁にかけた時計は、短針が既に十一を通り越し、十二へと迫りつつある。
――この次元の狭間で電波時計は機能しないから、多少誤差はあるだろうが……基本的に人間界同様一日が二十四時間である事に変わりなく、だから今は午後十一時半過ぎである事実も変わらない。
魔界に出向いた数日で少々昼夜が逆転したものの、こちらに戻ってからは元通り、朝起きて、夜に寝る生活をしている。
いずれ、魔界に居住することになれば、否応なく昼夜は逆転するだろう。
吸血鬼が基本夜行性の生き物であるのは事実なのだから。
けれど、少なくともこの次元の狭間、ここ朔海の屋敷にいる間は、これまでの咲月の――人間としての生活スタイルに合わせていた。
さすがに小学生ではないから、十時前に就寝する事はよほど疲れていたり何か事情がない限りはまずないと言っていい。けれど、日付を跨げばさすがに夜更かしと言うべき段階に突入する。
朔海が扉をノックし、その誘いを咲月に告げたのは、そういうタイミングだった。
「でも、お酒って……、私まだ未成年なんだけど……?」
ひとまず入室許可を与え、部屋の中へ彼を招き入れながらも、彼が手にした酒瓶を見下ろす。
なんだかいかつい漢字が達筆な筆文字で大きく書かれたラベルの貼られた緑色の瓶。
酒の種類など分からないが、それが洋酒でない事だけは分かる。
彼が酒瓶と一緒に持ってきたつまみも、チーズやクラッカーといったワインの友的なものではなく、お浸しや刺身や豆腐など、ご飯のおかずにもなるような品だ。
「咲月、酒とタバコは二十歳から――ってのは、日本の法律だよ。世界的に見れば、十六からOKって国もあるし、二十一までダメ、って所もある。そしてもう一つ、それらは人間の法律だ」
酒とタバコが未成年に禁止とされる理由、それは健康的な意味での害があるからだ。
特に酒に関しては「アルコールは脳の細胞の破壊を加速する」、「未成年はアルコールを分解する仕組みが未熟なため、全身の臓器に負担がかかる」、「アルコール依存症になりやすくなる」から、とされている。
「でも、国によってその年齢の基準は色々だ。はっきりとした線引きはない。とはいえ、一応法律は法律だ。自分の国の法律は遵守すべきだと思う。けど……君はもう、そもそも人間じゃない。吸血鬼である僕たちに、そういう心配はない」
勿論、度を越えて飲み過ぎればまた別の問題は出てくるけれど――。
「ちょっと嗜む程度に楽しむには、何の問題もない」
そう言って、朔海は二つのグラスに酒を注いだ。
無色透明の液体が、淡い青のグラデーションのかかった綺麗なグラスに注がれ、サイダーのように炭酸の細かい泡がぷくぷくとグラスの底から立ち上る。
恐る恐るグラスを手に取り、そろそろと口をつける。まず、一口。殆ど舐める程度に口に含む。
「……あ、あんまり辛くない?」
がつんと酒の味が来るものと覚悟していた咲月は、思いのほかするりと喉を滑っていった爽やかな風味に驚いた。
「美味しい……」
「それは、良かった。って、手に入れてきたのは葉月だからね、僕が言うのも何なんだけど」
そう言いながら、朔海はつまみの料理を勧めてくる。
もう、夜も遅い。こんな時間に食事をするのはあまり良くないと知りながら、その美味しそうな料理の数々に咲月はつい手を伸ばす。
もはや安定の、彼の一級品の料理は、酒にとてもよく合った。
ついつい、箸も酒も進んでしまう。
一杯、グラスを空けるごとに、少しずつ身体が暖かく火照り出し、だんだんとふわふわした心地になっていく。これが酒に酔う、という感覚なのだろうか?
特に何を話すでもなく、ただ静かな時間が流れていく。
「……私って、もしかしたら女の子失格なのかもしれない」
そんな中で、咲月がぽつりと漏らした。
「これまでだって、お洒落に気遣う余裕なんかなかったし、別に自分を可愛いとか思ったりした事も無いし、服とか、化粧とかそういうのに興味を持ったことも無かったけど……」
口にするつもりのなかった、もやもやと心に凝っていた気持ちがするすると、緩くなった理性の堰を越えて流れ出ていく。
「色々聞かれて、でも、答えられなくて。式次第のあれこれどころか、それ以前、もっと基本的な事すら、答えられるだけの知識も、何もなくて……、何か情けなくなってきちゃって」
だからもう、勧められるままに頷くしかなくて――。
「どうせ、何も分からないんだから。ファティマーさんたちが一生懸命考えてくれたものなんだから、黙って首肯けばそれでいいのに。何だか、どんどん自信が……元々あってないようなものだったけど、なおさら……無くなってきちゃった」
夢の中で話しているような、ふわふわと現実感の希薄な心地のまま、咲月は項垂れた。
「周りの女の子たちは、皆お洒落な服を着て、流行りの化粧品を持ち歩いて、ファッション誌で色々研究して……。特に派手な子たちのグループのメンバーなんか、本当に凄かったし、それは極端な例としても……私みたいに何にもしてなかった子って、そう言えば居なかったかも、って、今更思い出しちゃったりもして……さ」
そういう話題に一切ついていけない自分。
その手の話題を出されると、大概の男性は嫌な顔をする。
けれど、何もしない自分みたいな女より、その『結果』たる可愛い、もしくはお洒落な格好をした女の子の方が男性ウケは良い。
「何か、自分の女子力の低さを改めて突きつけられちゃって。……せっかく色々してくれてるのに、なんか……ごめんね、こんなんで……」
咲月は自嘲じみた笑みを浮かべ、泣きたくなるのを必死にこらえた。
そんな咲月の愚痴も同然のセリフをずっと黙って聞いていた朔海が、静かに口を開く。
「……別に、そんなの気にしなくたって、咲月は十分魅力的なのに――なんて、月並みなセリフじゃ、きっと今の君の心には効かないんだろうな」
咲月と同じだけ杯を空けているのに、あまり酔った様子の伺えない彼は、肩をすくめてみせた。
「でもさ、つまりそれって、知識や経験の不足からくるものなんだろう? だったら、今これから新たに得て、積み重ねていけばいいものなんじゃないの?」
そして、簡潔な答えを出した。
「好みを選ぼうにも、そもそもの候補が挙がらないから選べない。そういう事でしょ? だったら、候補の知識が増えれば、自然と好みも分かってくるはずだし、幸いにして時間ならいくらでもある」
『今』の状態は何も絶対不変のものではないのだから、これから次第で『未来』は違ってくる。
「僕は別に気にしないけどね。でも、君が気になるというなら、これから頑張ればいい事だ。――違う?」
分からないなら、分からないと尋ねて説明を求めればいい。
そういう意味で、今回の件は絶好の機会と言えるだろう。
これから、頑張ればいいこと――。
これから頑張らなければいけない事は、今の咲月にはたくさんある。
その内の一つに括られて、咲月はハッとする。
吸血鬼になりたてで、まだまだ色々覚えなくてはならないこと、出来るようにしなければならないことはたくさんある。これから王城住まいとなるなら、これかまた新たに覚えなくてはならないことが増えるだろう。
そのうちの、一つだというなら……。
現状に絶望していた眼前に『未来』の二文字をぶら下げられた咲月は、一気に気分が楽になった気がした。
「そっか……、それでいいんだ……?」
「そうそう。……で、少しは楽になった?」
「――うん。少し、どころかかなり」
「それは良かった。……何だかなぁ、やっぱりまだ葉月に頭が上がらないや」
こうして、咲月の話を聞く機会を作るきっかけをくれたのは、彼だ。
「それじゃ、あんまり長居しすぎて明日に障るといけないから。僕はそろそろ戻るよ」
改めて時計を見れば、そろそろ草木も眠ると言われる時刻に片足を突っ込みかけている。
「明日は、僕も同席するから」
まだ、夢心地のまま、咲月は朔海をぼんやり見送る。
式まで、あと五日――いや日付が変わったからあと四日、だ。




