いざ、異世界へ
社殿の奥は深い森が広がっていた。
ここが、街中にぽつんと取り残された小さな里山の中だと忘れてしまいそうな程に深い森の中を、番人は迷いなく進み、その背を追う朔海は、咲月の手を引いて月明かりさえ遮られる真っ暗な山道を歩く。
――グワァン、ゴゥン、グワァン、ゴォゥン……
と、背後から重たい鐘の音が聞こえた。
「……何?」
何も見えないと承知しながら、つい振り返って見た咲月が小さく呟いた。
「この町にある、古びた廃教会の鐘の音だ。毎日、決まって朝と夜の12時に鳴る。知ってるか? あの教会とこの神社、同じ人間が管理しているんだ。面白いだろう?」
今度は本当に面白がって普通に笑みを浮かべたロキ神が、ふと手を掲げた。
暗闇の中、よく目を凝らして見れば、そこにはまるで欧州の古城の城壁に取り付けられた堅牢な城門の如き古めかしい扉が、行く手を阻むように立ちはだかっている。
「この扉の向こうはもう、次元の狭間――お嬢さんにとっての異世界だ。この扉を潜ればもう、人間世界での規則も常識も通用しない。覚悟はいいな?」
最後の覚悟を問うロキ神に、朔海も咲月を振り返った。
「――はい」
そのつもりで、ここまで来たのだ。咲月の心臓は再び鼓動を早め、緊張感が否応なく高まってくる中で、それでも、大きくしっかり頷いた。もう、引き返すつもりはない。
「では、扉を開こう」
ロキ神は、大きく重厚そうな扉を、軽く手の平で押した。
ほんの少し、軽く触れただけに見えたのに、見るからに重たそうな両開きの大きな扉は、ゆっくりとあちら側へ向かって開いていく。
ギギギギギィ、と、重たく軋む少し耳障りな音を立てながら、閉ざされた道が開かれていく。
やがて、ガコン、という音と共に、両扉ともあちらへ直角に開いたところで動きを止め、枠と同じだけの空間の景色を切り取り、咲月たちの前に曝け出した。
「……行こう」
朔海が、一歩前へ足を踏み出す。
その瞳には、いったい何が見えているのだろう。まるであの、葉月の家にあった地下室の様に、咲月の目には何も見えない。
暗い霧に覆われた世界。
こちらの世界でも、真っ暗な森の中では咲月の目にまともに映るものは少ないが、それでも僅かな物の陰影くらいは判別できるというのに、あちらの世界は完全に真っ黒い霧の他何も見えない。
咲月は、朔海の手に強く縋りながら、彼に続いて一歩、足を踏み出す。
もう、すぐ目の前。ほんの数歩の距離を歩き、そして――
「客人か、ロキ神?」
扉の敷居を跨いだ瞬間、霧の向こうから男性の声が聞こえた。
「ああ、お前たちへの挨拶と、通行許可証の発行申請に来たんだと」
扉を潜った瞬間、それまでかろうじて見えていた朔海の姿も、そういえば他にまともな明かりのない中で、あれだけ――朔海よりもはっきり見えていたはずのロキ神の姿まで闇に飲まれ、その向こうから彼らの声だけが聞こえてくる。
「ほらほら、お仕事、お仕事。はい、これ」
ピラリと、紙が空を切る音がする。
「これは……千恵の……」
彼らの言葉と、聞こえた物音から判断するに、どうやらあの書類をロキ神が新たな声の主に渡したらしい。そしてロキ神の態度からするに、この声の主が、こちら側の番人なのだろう。
と、すると。彼は血を糧とするモノノケなのだと千恵は言っていた。朔海と種族は違えど、広い意味での吸血鬼で――そしてこの彼が、千恵の思い人なのだろう。だから、書類に押された彼女の血判から香る彼女の血の匂いに動揺した――。
「おいこら、血の匂いに酔ってる暇があるなら、とっとと仕事しろ、仕事」
が、何かを思い切りどつく音と共に、ロキ神の冷たい声が咲月の鼓膜を震わせる。
視覚で彼の表情が確認出来ない今、その声の冷たさは先ほどよりも直に心臓を冷やしてくれる。自分が怒られているわけでもないのに、つい謝りたくなるのだ。
「……分かっている。だがしかしだな、我が花嫁ともう一年以上会っていないのだぞ? 花嫁を定めたというのに、その血から引き離されて……一瞬でも惑うなとは、大概無茶が過ぎるだろう」
「おやぁ? 君の方はたった一年でギブアップ? 君たちが次に再会できるのは九年後。でも……君がギブアップするなら、この話はなかったことに……」
ロキ神に反論した彼に、意地の悪いセリフを返す声音は、まさに彼らしい。
「――するな。誰も、途中放棄するとは言っていないだろう。私は、何があろうと彼女の望みを叶えると決めたんだ。これが、彼女の願いの結果だと言うなら、私は決して投げ出したりなどしない」
しかしそれに対して声の主は、聞いているこちらが恥ずかしくなるような台詞を決然と口にした。
「……それで、彼らは?」
「ああ、こちら、吸血鬼王の第一王子と、その婚約者だってさ」
「なるほど、道理でまだ年若そうなのに強い力の気配を感じるはずだな。……しかし、まさか王族が直々に挨拶に来られるとは、例えついでなのだとしても珍しいな」
「まあ、肩書きは確かに第一王子ですが、実のところ放逐される寸前の身ですから。母親と実弟共々殺されたくなければ一年以内に妻を娶れと、我が父王に命じられまして」
「へぇ、それで婚約者? よく都合良く見つかったねぇ、わざわざ異世界に赴いた上、吸血鬼になっても良いとまで言ってくれる娘が」
あちらにいた時より数段意地の悪さが増したような気のするロキ神の声。
「神として生まれ、私よりも永く生きていながら知らないのか? 時に、この世には奇跡のような運命というものも、確かに存在するのだと」
相変わらず何も見えない中で、深く心に染みてくる不思議な声が紡ぐ反論の台詞は、確信に満ちている。
「さあ、渡してやるといい。彼女の、通行許可証だ」




