朔海の教育係
まだ、王宮はとても騒がしい。
――無理もない。半日にも満たない時間の中、あまりに多くの事がありすぎた。
しかし、それでもこの北塔はその喧騒から切り離され、しんと静まり返っている。
朔海はその喧騒の中を、再び咲月を抱えて突っ切り、そして先刻の宣言通り、部屋へと戻るなり咲月をベッドに押し込んだ。
「ちょ、待……、着替え……!」
慌てる咲月に構わず、彼は黙々とドレスの背中のボタンを一つ一つ丁寧に外していく。
その途中で、部屋のドアがノックされた。
こんな場所にくる者などまず居ない、と先日朔海が言っていた。――では、誰だろう?
そう言えば、さっき王が部屋に食事を運ばせると言っていた。
と、するとそれだろうか? ――また、随分と早い。
朔海が、少々警戒を含んだ眼差しで、下を見下ろした。
「――朔海様、お食事をお持ちいたしました」
扉の向こうから、男性の声がした。
「……まさか……涼牙、か?」
その声に、朔海は覚えがあったらしい。驚きに目を見張る。
この城の、誰も彼もが皆「綺羅星」と二つ名で呼ぶのに、「朔海」と彼の名を呼ぶ声。
朔海は緊張した面持ちでゆっくり階段を下り、階下のドアを開けた。
咲月は、半分脱がされかけたドレスの上からシーツをまとい、そっと様子を伺った。
「お久しゅう御座います、朔海様」
丁寧に腰を折り、頭を下げたのは執事然とした初老の男性。
「――ですが、朔海様。主たる者自ら扉を開けてはなりません。ましてや、私は侍従。一言『入れ』と命じて下されば良いのです」
黒の燕尾服、灰のベスト、黒い蝶ネクタイに片眼鏡。白いものが混じり始めた頭髪を後ろへ流してきちっとセットし、胸ポケットに三つ折の手巾、手には真っ白な手袋をした、正しい執事の図。
彼は朔海に説教口調で苦言を呈しながら、がらがらと食事の乗ったワゴンを押して部屋へ入った。
汚くはないが、荒れ果てた感の否めない部屋に、彼はため息を吐きながらも、てきぱきとテーブルを拭き、真っ白いクロスをかけ、食器を綺麗に並べていく。
その後ろから、もう一人、少女が部屋へと入ってきた。
「……涼牙」
朔海が渋い顔をする。
「朔海様、奥方様の事を思うなら、今はお断りにならない方が良い」
涼牙、というらしい侍従は、彼が自分で主と言った朔海に対し、有無を言わせぬ口調で言った。
「こちら、手当の道具をお持ちしました。――侍女が必要なようでしたら、お呼びいたしますが?」
「……必要ない」
「では、私が食事の席を用意するまでに、奥方のお仕度を」
朔海が、薬箱らしい木の箱を抱えて階段を上がり、咲月のもとへ戻ってくる。
「あの人は……」
「あれは、涼牙。僕の――かつての、侍従長だったひとだよ」
「侍従長……」
「まあ、教育係兼世話係みたいなものさ」
渋い顔で目を泳がせながら、朔海が箱を開く。
「……ちょっと――いや、かなり痛むだろうけど、我慢して」
消毒液らしいものを染みこませたガーゼで、じくじくとまだ血の滲む傷をそっと拭う。
その手つきは丁寧だが、その薬品が酷く染みて、咲月は痛みに思わず目に涙を浮かべた。
朔海は、新しい乾いたガーゼで傷を覆い、その上から氷を入れた包をあて、包帯を巻いて固定する。
未だにじんじんと鈍い痛みを訴えていた傷が、氷に冷やされようやく少し楽になる。
朔海に渡された着替えに袖を通し、咲月は階下でじっと佇む少女を見下ろした。
彼女が何のためにここへ派遣されてきたのか、察しがつかない咲月ではない。
その少女は、あの鳥かごの中の少女たちのような悲壮な顔はしていない。あの喫茶店に居た女性ともまた違う表情を浮かべている。
そう表現するのは、何か引っかかるが――まるで誇らしげな顔をしているように見える。
「……彼女は、城付きの――その為だけに雇われた、血液提供者だ」
「雇う、ってことは……」
「彼女は、彼女自らの意思で相応の報酬と引き換えに血を提供している。……普通は、吸血鬼に血を吸われるなんて嫌だと思う。だから、強制的に奴隷のように売買される。でも、中には変わった趣味を持つ人間も居るのさ」
「それは……吸血鬼なら誰でも良いってこと?」
だとするなら、正直咲月の理解の範疇を超える。
誰か特定の――咲月が朔海になら血を吸われてもいいと思ったように、特別な想いを抱いた相手に自ら血を差し出す、というなら分かる。
でも、誰でも良いなんて……。つい眉をひそめたくなるが、その一方で、喉の渇きがそろそろのっぴきならない状態になりつつあるのも確かだった。
朔海の手を借りて、階段を下りると、少女が軽く頭を下げ、咲月の前に跪いた。
襟ぐりが大きく開いた、肩から項、鎖骨、首筋までが顕になった衣装で、跪かれると、その綺麗な曲線のラインが惜しげもなく咲月の目の前に晒される。
強烈な喉の渇きを必死に抑えていた咲月の目には、毒にしかならない画だ。
思わずゴクリと喉が鳴る。
「奥方様、さあ、お食事の前に是非、まずは喉を潤して下さい」
促されるが、かといってどうすればいいのか分からない。
吸血鬼になって大分経つ。当然何度も血は飲んだが、そのどれもが血液パックから、もしくはマグカップに注がれるか――ああ、先程は朔海に口移しに飲まされたけれど――……咲月はまだ一度も、己の牙で他人の肌を破って直接血を啜った事がない。
「――では、朔海様。奥方様にお手本を」
その戸惑いを正確に見抜いた涼牙が今度は朔海を促す。
しかし、朔海がこの彼女の血を吸う場面を想像したら、ふつりと腹の中で苛立ちが沸き立った。
「……ふむ。娘の方が具合が良いかと思ってこれを連れてまいりましたが、もしや男をお連れした方がよろしかったですかな?」
「――いや」
涼牙の問いに、今度は朔海の方がムッとした声を上げる。
「僕は、まだ持ってきたパックの残りがあるから、それで済ませる。僕の方は特に怪我を負った訳でもないし、それで充分だ」
「あの……、私もそれで……」
咲月は、朔海の台詞に便乗しようと声を上げる。
「いいえ、奥方様。朔海様も。聞けば龍の血の力を使われたと言うではありませんか。元々、並みの吸血鬼では扱えぬ力。それを使うのにどれほど魔力を消費なされました? 消費された魔力を回復するには人の生き血が欠かせない、これは我ら一族の宿命でございます」
しかし、涼牙はぴしゃりと言った。
「朔海様、只今もう一人、男の血液提供者を呼んでまいります。――ご観念なさいませ」
涼牙は窓から簡易使い魔を飛ばす。――程なくして再び部屋の扉がノックされた。
「入りなさい」
それに入室許可を与えたのは部屋の主たる朔海ではなく、涼牙だ。
彼が幼い頃の教育係だと言うだけあって、朔海は彼に対しあまり頭が上がらないらしい。
新たに現れた男をみて、げんなりした表情を浮かべた。
「……女の子だけじゃなく、男の人も居るのね」
現れたのは、二枚目時代劇俳優のような小ざっぱりとした、しかしそこそこガタイの良い男。
「我ら吸血鬼にとって最高のご馳走は処女の生き血。……ですが、お嬢様方の中にはそれよりも見目の良い男の血を好む方も居られますので」
彼もまた、それを厭う様子もなく、咲月に頭を下げた。
しかし、涼牙に朔海の方を指し示されると、とたんに不満げな顔になった。「何故お前なんだ」と言わんばかりに。
朔海は朔海で、「誰が好き好んで男の血なんか飲むか」と不機嫌を隠さない。
だが、
「朔海様、奥方様とお相手を交換なされますか?」
と涼牙に提案されると、渋々彼の前に立った。
朔海より、頭一つ半は背の高い彼の前に立つと、朔海の目線はちょうど彼の胸の辺り。
お子様め、とばかりに意地の悪い笑みを浮かべながら、わざとらしく恭しく朔海の前に彼が跪く。
朔海はひくひくとこめかみを引きつらせながら、その首筋に牙を埋めた。




