忌まわしき過去の記憶(1)
見目だけは、きらきら輝く、美しい宮殿の中――その風景が溶けて流れ、全く別の風景に塗り変わる。
これとよく似た状況を、咲月はかつて経験したことがある。
あの時は、まさに前者の光景の幻を見た。
「……しまった、捕まった」
あの時、咲月に幻を見せた張本人たる朔海は、小さく舌打ちをした。
「しかもこれは……」
「ここは……これは、幻……なんだよね?」
広がるのは、咲月の全く知らない光景だ。
「……咲月。もしかしなくとも……君も、今、僕と同じ光景が見えている?」
朔海の声が、明らかに強ばった。
「どんより重たく曇っているくせに、夕焼けの空より赤く染まった嫌な色の空に、コウモリやらカラスやら何だかよく分からない生き物が飛び交って、どこまでも果てしなく続く荒野――むき出しのごつごつした岩がごろごろ転がる光景がそうだっていうなら……、多分、そうだと思うよ」
そう答えると、今度は咲月を抱える朔海の体が強ばった。
まるで、これから迫る恐怖に耐えるように――。
「……王妃は、――僕の母は、幻術を扱うのに長けた一族の血を受け継いでいる。僕が幻術を扱えるのは、その血の力があるからだ。けど、彼女のそれは僕が持つそれよりずっと強力だ」
正確なところを言えば、素質自体は大差ないはずだが、積み重ねてきた研鑽と経験の差が、大きく実力の差として現れている形だ。
「僕にもっと力があれば、このくらい簡単に破れるはずなのに……」
悔しげに朔海は呻いた。
「これは……つまり、私たちが幻に惑わされている間に殺っちゃえ、てそういう事な訳?」
だとすると、流石に少々まずい。咲月はそう懸念を抱いたが、朔海はそれにはきっぱり首を横へ振った。
「いや、それはない。これは……王妃が、咲月に見せるために仕掛けたものだ。今見えているこれは幻だけど……でも、ただの幻じゃない。これは、確かに現実の光景だから」
そう答える朔海の声が震える。
彼が視線を投げるその先から、やがてガラガラと車の音が聞こえてくる。
真っ黒い、地上のものとは明らかに違う魔界の馬に引かせた馬車が1台、道なき道をものともせずにやってきて、やがて小高い丘の上に止まった。
二頭立ての馬車の扉が開き、中から一人の少年が、乱暴に外へと蹴り出され、その少年の身長と同じくらいの高さにあるそこから地面に叩きつけられた。
その後から優雅に降り立った人物に、咲月は見覚えがあった。
「……王妃様?」
今より、少々若く見えるが、間違いない。それに、あの少年にも見覚えがあった。
つややかな黒髪と、綺麗な濃紺色の瞳。今より大きくつぶらな幼い子どもの目が、涙に潤んでいるのが見える。
「……あれは、朔海?」
まだ、四歳か五歳程度に見える幼児の姿をした彼は、冷たい目で己を見下ろす母親を見上げてえぐえぐと泣きじゃくっている。
――その、可愛らしさと言ったら。
体がこんな状態でさえなければ、咲月はとっくに彼を保護するべく駆け出していただろう。
ふにふにした幼児特有のほっぺたに、小さな手足。
ついうっかり状況も忘れて見入ってしまいそうになった咲月を現実に引き戻したのは、幻の中の王妃だった。
咲月が、思う存分抱きしめて撫でくり回したいと思う、その幼い彼を、王妃は無慈悲に蹴飛ばしたのだ。
それも、よくぞこんな荒野の真っ只中に履いてきたものだと呆れるようなピンヒールで。
大の大人が、幼児を力の限り蹴り飛ばす。
人間界でなら――日本で、あれを公衆の面前でやったなら、即座に警察と児童相談所に通報されるレベルの完全なる虐待だ。
蹴飛ばされた小さな体は、ボールのように宙を舞い、放物線を描いて、ゴツゴツした岩に背中を強打する格好で叩きつけられた。
もしも彼が人の子であったら、その時点で即死していてもおかしくなかっただろう。
だが、幼くとも純血の吸血鬼たる彼は、よろよろと自力で起き上がった。
そして、王妃が手を挙げ、ある一点を指し示す。
幼い朔海が、そしてそれを眺めていた咲月が、そちらへ視線を向けると、先程王妃たちが乗った馬車がやってきたのとは別の方角から、再びガラガラと車の音が聞こえてきた。
しかし、今度はそれが幾重にも重なって聞こえる。
ほどなく、地平線の彼方から、馬車の一軍がやってくるのが見えた。
一台や二台ではない。二頭立ての荷車が二十以上、そのどれもが見覚えのある鳥かごを荷台に乗せてやって来る。
あの街の広場で店を広げていた屋台を全てかき集めてきた――。
そう思えてしまうような光景が、目の前に広がる。
やがて、先頭の馬車が幼い朔海の前で止まり、後続の馬車もそれに倣って止まる。
先頭の馬車を操っていた者が、恭しく腰を折り、王妃に向かって頭を下げた。
「大変お待たせいたしまして、申し訳ございません。ですが、お待ちいただいただけの価値のある商品ばかり、選りすぐって参りました。まずはじっくりご検分の上……」
「長口上は良い。――それ、前金分をやるから早う荷物を置いて去れ。残りは城で受け取るが良い」
王妃は、自らの乗ってきた馬車を御す御者に命じ、大きなケースをその男に渡した。
男はケースを開け、中身を確かめる。――中いっぱいに詰め込まれていたのは、札束。おそらく、この商品の代金という事なのだろう。
彼は満足げに頷き、もう一度深々と頭を下げた。
「毎度、ご贔屓くださり、ありがとうございます。次回の御用命も、ぜひ私どもにお言いつけくださいませ」
先程長口上を止められた男は、簡単な挨拶だけを述べ、早々とその場を後にする。
ぐるりと馬首を返し、やってきたのと同じ方角へ隊列を進め、やがて地平線の向こうへと消えた。
後に残されたのは、大量の鳥かごと、檻の中に囚われた少女たち――。
咲月を抱える朔海の体が、更に強張る。
すぐ傍に聞こえる彼の心音が、どんどん速まっていく。
見上げた彼の眼差しは、苦しげに細められていた。
王妃が、そのうちの一つの鍵を外し、檻の扉を開いた。
中を怖々と伺う幼い朔海に、冷たい視線のみで王妃は彼を中へと促す。
しかし、嫌々とばかりに首を横へ降ってびくびく怯える朔海を、王妃は再び無慈悲に蹴飛ばし、中へと無理やり放り込んだ。
ガシャン、と檻の扉が閉じられ、鍵がかけられる。
その音に、ハッと幼い朔海が振り返るが、王妃は悠然と馬車へと戻っていく。
そして、檻の中を改めて見回せば、彼が放り込まれた瞬間こそびくりと怯えた顔をした少女たちだったが、見たところ今の咲月と大差ない年頃に見える彼女たちは、幼稚園児並みの幼子が相手ならば遅れは取らぬと思ったか、窮鼠猫を噛むが如く、こぞって彼に襲いかかった。
ここで、彼を退けたとして、檻を一歩でも出れば死が待つだけの彼女たちにとって、その恐ろしい瞬間が僅かに先送りになるだけだ。
しかし、それでも己の命がかかった状況に、彼女たちはなりふり構わずめちゃくちゃに殴りかかる。幼い子どもの体の上にのしかかって押さえ込み、首を絞め――
寄ってたかって殴る蹴るの暴行を受けながら、幼い彼は怯えながらも抵抗の意思をみせる事なく、なされるがままに泣きじゃくっていた。
しかし、首を締められるに至った時だった。流石に苦しかったのだろう、初めて抵抗らしい抵抗として、自らの首に手をかけていた一人の少女を突き飛ばした。
――見た目は幼く、力のない子どものようでも、彼は吸血鬼で、その身体能力は、既に人間の幼児の域を完全に超えていた。
呼吸を阻害され、苦しさに無我夢中だった彼も、手加減をする余裕はなかったのだろう。
突き飛ばされた少女は車に撥ねられたかのような勢いで吹っ飛び、体を檻の格子に叩きつけられ――そのままくたりと力を失ったようにその場に崩れ落ちた。
一瞬、場を静けさが支配する。
弱々しい存在と思っていたものが、突然牙を剥いた。
それがもたらした結果を、少女たちが理解するまでの僅かな間。
そして、己がしでかした事、その罪に怯える子どもが、息を呑む、その僅かな間を置いて。
――次の瞬間、檻の中に狂乱が満ちた。




