儀式の間
そして、当日の朝、咲月は先日同様再び鏡の前の椅子に座らされ、朔海が髪を梳るに任せながら、彼の装いを鏡越しに眺めては、その度に咲月の目は「王子」たる朔海の姿に釘付けになった。
濃紺の詰襟と、揃いのズボン。そのラインを縁取る金糸。臙脂色のベスト。襟元のスカーフタイ。
艶やかな黒い長衣とマント。そして各所を彩るモールや宝石の数々。綺麗にセットされた髪。
どれもが彼にとてもよく似合っていて、思わずため息を吐きそうになるのを一体今朝から咲月は何度堪えただろう?
そして、これから彼にエスコートされて「儀式」を行うための会場へ向かう咲月もまた、彼の手によって、ここへ来た時に身につけていた盛装よりもさらに豪奢な、しかし動きやすいよう作られた衣装に着替えさせられ、今はこうして最後の仕上げにかかっているところなのである。
吸血鬼は、基本的に夜行性の種族。儀式は、今日、夕方から始まる予定になっている。
「――できた」
朔海は、鏡に映った咲月に、満足げに微笑んだ。
朔海の手を借りて、椅子から立ち上がる。
足のくるぶし程まであった先日のドレスに比べ、膝がギリギリ隠れる程度の短いスカートは、バレエのチュチュのようにふわりと広がり、足の動きを妨げないように作られている。
腰元に巻いたきゅっとリボンをきゅっと締めれば尚、ドレスは体によくフィットして、さらに動き易さが増す。
ひざ下まであるブーツも、可愛く見えても実は動きやすさを最優先させた代物だとよく分かる。
肩のところでふわりと膨らんだ袖も、口のところで一度きゅっと絞られ、そこからふわりとレースが広がる。
胸元を飾る首飾りも、両手首を保護するように着けられた腕輪も、どれもがその手の審美眼など皆無に等しい咲月の目にも明らかに高級品だと分かる品だ。
鏡の前で咲月は、昨夜教わったばかりの礼を取ってみる。スカートの裾をほんの少しだけ持ち上げ、膝を折り、頭を下げる。
玉座の前、彼の半歩後ろで立ち止まり、こうして頭を下げる。
「間違いなく、部屋には大勢の客人が招かれているはずだ。きっと、遠慮の欠片もない視線をたくさん向けれれる事になるだろう」
――ゴーン、ゴーン
表で、時を告げる鐘の音が鳴り響いた。
「僕は、その視線を受けるたび自分が異端だと思い知らされてきた。その視線を恐れ、僕はここから逃げ出した。……でも、今咲月とならその中でも僕は自分を見失わずにいられる気がするから」
朔海が、咲月に手を差し伸べる。
「――行こう。儀式の間へ」
尖塔の長い階段を下り、長い連絡通路を通って城の正殿へ入り、その離宮へと繋がる立派な廊下を歩く。客人は既に会場入りした後なのか、先日のようにそこまでの道のりに人の姿は殆どない。
時折、忙しそうに働く使用人や、要所要所に立っていたり、巡回警備に当たる衛兵とすれ違う事はあっても、城の中は不気味なほどに静まり返っていた。
縦に細長い尖塔が幾つもより合わさったような格好の城の中で、その離宮の外観は少しばかり趣が異なる。
サン・ピエトロ大聖堂のようなドーム状の屋根を冠したそれを主軸に、周りをテラスに囲まれた広間を擁する形の、バロック調の建築物。
周囲をぐるりと警備の兵が取り巻き、特に入り口の重厚な門扉の前に並んで立つのは近衛の中でも特に位の高い者たちだ。
会場に入る以前から、その彼らに威嚇の視線をまともに浴びせられる。
「――開けろ。僕は、綺羅星の朔海。お前たちも見知っているはずだ。そして、僕と彼女こそが本日の催しの主賓であることも、当然知っているのだろう?」
いつもいつも目を背けてきたそれを、朔海は初めて真っ向から見返し、彼らに命じた。
「扉を開け、中の者に伝えろ。僕たちの到着を――」
そして、一瞬の間。まるでお前の命令で動くのではない、という意思表示のように。僅かな、けれど確かな間をおいて、扉の両脇に立つ兵が、手にした長槍の柄で床を叩き、カツン、と高い音を打ち鳴らした。
そして、その扉へ続く通路の両脇に等間隔に並ぶ兵のうち、一番扉に近いところに立っていた二人が動き、観音開きの扉をそれぞれ片方ずつ引き開ける。
朔海は、左腕を咲月に貸したまま、まっすぐ前を向いて中へと足を踏み入れる。
――嫌な記憶の光景と大差のない光景が、目に痛い。
まるで人間の王侯貴族のごとく着飾り、紳士淑女を装う者たちから嘲笑を浴びせられるのはいつもの事だが……。
朔海がこの場所への立ち入りを許された、二百と数十年もの大昔、あの忌まわしい儀式を受けさせられた、あの一度だけの光景と全く同じ設えに整えられた会場の、一番奥の高座に据えられた玉座にあるのは、もちろん紅龍――朔海の父王であるその人だ。
二百と数十年、しかし吸血鬼の感覚としてはほんの一昔前、といった程度の過去。
あの時の記憶より、貫禄の増した父王の前で、咲月を促しつつ片膝を床につき、頭を下げる。
「綺羅星の朔海、我が伴侶と共にただいま参上いたしました」
玉座の手前には、玉座よりは若干低く設えられた壇がある。
その上では、青い炎をたたえる器が、一つ。その中で、その忌まわしい儀式の“主役”が炙られ、赤々と燃えている。
朔海はその手前から、声を上げた。
「本日は、我が伴侶を王族の一員とお認め頂きたく、こうして参上した次第。改めて、お願い申し上げます。我が伴侶が、『王族認証の儀』を受ける事をお許しください」
心からの願いとは真逆の言葉を口にする辛さを押し込め、朔海は用意していた台詞をなぞった。
「――まずは、面を上げよ」
さわさわと静かな、しかし絶え間ない囀りの喧騒の中、それをものともせず押しのけるだけのものを持った声が、広い室内いっぱいに響いた。
部屋の扉から、壇、玉座まで直線上に並んだそのスペースだけ空けて、やはり思ったとおり、多くの者たちがそこにひしめき合い、ひそひそと何やら歓談中だったようだが、王のその一言でぴたりと止んだ。
「綺羅星よ。お前の言う伴侶とは、その娘のことか?」
静まり返った会場に、王の苦り切った声がよくよく響く。
王は渋い顔で咲月を見下ろし、そのすぐ隣に控える王妃は汚いものでも見るかのような目を向けた後ですぐに顔を背けた。
その態度に朔海は憤慨しつつも、なんとか堪える。
「――はい。ご命令通り、婚礼の儀を済ませた私の伴侶を伴い、御前に罷り越しました」
「……ほう。人間を襲う事を恐れ厭う出来損ないが、元は人間の小娘を伴侶に迎えると申すか。全く相変わらずお前は王家の恥さらし者だな。まあ、それでも確かにお前は我が命には応えた。よって、お前の母と実弟の処刑の話は撤回してやろう。だが……」
王は、嘲笑を浮かべて朔海を睨みつけた。
「覚えているか、お前がかつてこの場で演じた醜態を?」
「……はい」
パチン、と、王妃が手にした扇を打ち鳴らした。
「おお、思い出すだに腹ただしい。私、あんな辱めを受けたのはあれが初めてでしたわ」
くすくすと、両脇にひしめく者たちからも失笑が漏れる。
「曲がりなりにも王家の血を引く純血の吸血鬼たるお前ですらあの有様だったと言うに。その人間上がりの小娘が、あの儀式に耐え切れると思っているのか?」
「――無論。そうでなければ、この場に同伴などさせません」
「だ、そうだが、王妃よ。どうだ?」
「私、もうあのような辱めを受けるのは二度とごめんですわ。……口では、何とでも言えます。もしも再びあの日の醜態が繰り返されるようなら、私、これが第一王子と名乗る事を許せなくなりますわ」
「それは、同感だ。綺羅星よ、此度の儀式に失敗した暁には、お前から王族の名を剥奪し、第一王子の名は暁に与える事とするが、良いな?」
成る程、あの晩の会話はこれの事だったのか、と密かに納得しつつ、朔海は頷いた。
「はい、構いません」
「――ならば……」
「王よ、お待ちくださいませ」
炎のすぐ傍に立つ儀式の催者に、儀式の開始の合図を送ろうと手を上げようとする王の仕草を遮るように、一人の男が、人々の群れの中から声を上げた。
周りの者をかき分け、そこから一歩前に出て、王に向けて頭を下げる。
「……紅狼か。何だ」
「王よ、まさかとは思いますが、よもやその娘に儀式を受けさせてやるつもりではありませんでしょうな?」
言葉自体はへりくだり、丁寧に取り繕っているが、その声音はむしろ挑発の色が見え隠れしている。
「『王族認証の儀』とは本来、王の子として生まれた者に、王族を名乗る資格があるかどうかを見定めるためのもの。王の子でない者に、儀式を受ける資格は無い。そうして王族と認められた者の伴侶として選ばれた者が、王族として相応しい者であるか見定めるためにも、この儀式は行われる。しかし――」
そこで一度言葉を切った紅狼は、朔海たちに侮蔑の目を向ける。
「元々は王の子にしか与えられぬ名誉を、まさかこの娘に与えると? 王族の伴侶として、王族の名をいただくからには相応の資質が必要。……しかし、元は人間の小娘に、それがあるのでしょうか?」
「――紅狼殿。彼女を闇へと誘ったのは誰だと思う?」
「ふむ、まあこの場合はあなた様だと考えるのが普通でございましょうな、綺羅星殿」
蔑みを全く隠さない態度で、彼は笑う。
「なればこそ、余計に思うのでございます。そこな娘に、儀式を受ける資格があるのかどうか、と。由緒正しき儀式を、これ以上貶めるようであるならば、私は、あなたの王たる資格を疑いますぞ」
そして、彼は玉座の王にそう噛み付いた。
「……確かに、一理ございますわ。ここは、儀式を行う前に、それに耐え得る者であるかどうか、試してご覧になってはいかがですか? 宴の余興にはもってこいの催しでございましょう?」
王妃が、王に囁く。
「悪くない。だが……綺羅星、そなたはどうだ?」
この展開を予想していた朔海であったが、あまりに予想通りの展開過ぎて、笑いたくなる。
「私は、構いませんよ」
しかし、朔海が答える前に、その後ろから答えが返った。
「どうぞ、ご自由に。存分にお試しくださいませ」
咲月が、強かな笑みを浮かべて堂々と声を上げる。
「ほう、臆病者の綺羅星が選んだ娘にしては、なかなか度胸があるようだが……。所詮は人の子。いつまでその余裕を保っていられるか、楽しみだな。いっそ賭けるか、紅狼よ?」
「それで、何をお賭けになるつもりですかな、王よ? もしも玉座を差し出すならば、喜んで乗らせていただきますがね」
「このようなつまらぬ賭けで差し出せるほどこの玉座は軽くはない。――が、運も実力の内とも言うな。いいだろう、そなたに負けたなら、玉座を明け渡しても良い。だが……余が勝ったなら、そなたは何を差し出す?」
「――ならば、我が血を。竜の血の使い手を生み出した血だ。興味はおありでしょう?」
「……でしたら。私もその賭け、一口乗らせていただけますか? 私が負けたら、この血を――私に『双葉』の姓を与えてくれた人の血を預かるこの血を差し上げましょう。その代わり、私が勝った暁には、私に『儀式』を受ける権利を頂きたく存じます」




