城下町の日常(2)
朔海は、とある店のドアを押し開け、咲月を中へと誘う。
「いらっしゃいませ」
寂れた喫茶店、といった雰囲気の店の中、案内されたテーブルにつき、朔海が渡されたメニューを開いた。
当然、メニューは魔界文字で記されている。まだまだ勉強を始めたばかりの咲月には全く読めないし、そもそも魔界の料理というのがどういうものかすら分からない。
朔海も、もちろんそれは分かっている。ちらりと、咲月に目だけで確認を取ってから、彼がふたり分の注文を店員に告げた。
テーブルが十五ほど並ぶ店内で、埋まっている席は六。少々閑散とした雰囲気が漂う中、隣のテーブルに料理が運ばれてくる。
客は、身なりの良い初老の男性と、その妻であるらしい女性。
テーブルに並べられた料理は、パンとスープ、サラダに卵と、塊のままのローストビーフ。
そして、空のグラス。
給仕を終えた店員と入れ替わりに、一人の女性がテーブルに近づいた。
咲月よりは明らかに年上の、しかしまだ若く、曲線を描くくびれのラインが嘘のように整ったその女性は、その体型を強調するような、アオザイ風のドレスの袖をまくり、おもむろにその細い腕にナイフを入れた。
当然のごとく滴ってくる血を、彼女はグラスに落とす。
よく見れば、彼女の腕には何本も、引きつれたような生々しい傷跡が残っていた。
吸血鬼として力を振るうため、咲月も幾度となく手や腕の皮膚を刃物で裂き、血を滴らせはしたが、吸血鬼としての驚異的な治癒力でその傷は全て跡形もなく消え去っている。
彼女のその顔立ちを合わせて考えれば、彼女もまた人間なのだろう。
たった今注がれたばかりの血を、吸血鬼の夫婦は優雅に互いのグラスを触れ合わせ、乾杯の仕草をしてから、ぐいっと一気にそれを干した。
彼らに血を提供した女は、客に一礼して奥へと下がる。
しかし、別のテーブルにまたグラスが配膳されると、再びホールへ出てきて、自らの血をグラスに注ぐ。
それを痛ましそうに眺めながら、朔海の瞳も、僅かながらに物欲しそうに揺らぐ。
「……朔海、もしかして喉渇いてる?」
程なくして運ばれてきたのは、隣のテーブルに並ぶのと殆ど違わないメニュー。
しかし、あのグラスは無い。
あの女性がこのテーブルにやって来る様子もない。
咲月は、レタスのような葉物野菜にフォークを突き立てながら、朔海に尋ねた。
「まあ、ね。僕も吸血鬼だし。ああして目の前でやられると……流石に揺さぶられる」
それはきっと、他人が食べているものが無性に美味しそうに見えてしまう心理に似て。
しかも、普段薬の味のする不味い血液パックで我慢している分、余計にそう見える。
「でも……さっき魔界の空気は人間には即死モノの毒だって言ったよね? ……なのに、何で?」
「魔界の毒を中和する魔法薬があるんだ。材料を入手するのは簡単じゃないし、作るにも悪魔と契約して知識を得るか、薬の製作を依頼するしかない。入手するには結構な金を積まなきゃならない希少な薬だけど」
肉を切り分けながら、朔海は言った。
「でも、ちょっと小腹が空いた程度で自ら街を出て泥をかぶって狩りをするのが面倒だって連中にとっては、ある程度高い金を積んでも、こういうサービスは歓迎すべきものだ。だから、こういう事もここでは珍しくないのさ」
しかし、この店でのその扱いは、まだマシな方なのだと、咲月はすぐさま思い知らされることになる。
食事を終え、再び街を歩けば、時折、乞うような眼差しを向けてくる者が居る。
「ねえ、そこの兄さん。どうだい、ちょっと味見だけでもしていかない? 安くしとくよ」
まるで惣菜でも勧めるかのような台詞だが、彼女は何も持っていない。
代わりに広く空いた襟元をさらにはだけて、その首筋を見せつけ、誘うように道行く者に擦り寄っていく。
まるで風俗の客引きのよう――。
いや、あの人たちは実際、自らの血を売って、食いつないでいるのだと、何度もそういう場面にでくわしながら咲月はそう察した。
そして、その人たちに吸血鬼が向ける眼差しは、人間が路上生活者に向けるそれよりなお冷たい。
ただつまらないものとしてしか見ない。油断すれば、金を得るどころか、血を吸い尽くされ命を奪われる。
そんな殺伐とした空気が漂う。
――これが、この吸血鬼の街での当たり前の風景。これが、吸血鬼という種族の本来の姿。
咲月は、朔海や葉月がどれだけ異質な存在であるのか、ようやく実感として理解した。
そして、朔海が魔界でなく、次元の狭間に居を構えた理由の一端をも理解する。
こんなところに長居などしたくはない。
「明日……、私、頑張るから」
咲月は、改めてその決意を口にした。
「大手を振って、うちへ帰れるように、頑張るから」




