城下町の日常(1)
この魔界に、太陽は存在しない。
しかし、次元の狭間同様夜も昼もある。
完全なる闇に閉ざされる夜と、薄ぼんやりと曇りがちで随分と重苦しい暗さの残る昼が。
どれほど暗かろうと、ここに住まう者でその事に困るような者など居はしない。
朔海は、夜よりは若干明るくなってきたのを感じ、ぱちりと目を開いた。
流石に、頭が重い。
「喉……渇いたな」
城内の様子を探るのに力を使ったせいだろう。血の渇きを覚えて朔海は寝台から起き上がった。
「いや、それだけじゃない、か……」
昨夜、紅狼の部屋で見た光景と五十歩百歩の光景を、あの後朔海は至るところで嫌になるほど目にした。穿たれた傷からこぼれ落ちる赤い雫。彼らの振る舞いに嫌悪を抱きながらも、その甘露の魅力に抗いきれずに思わず喉を鳴らしてしまいそうになったのは……哀れな吸血鬼の性のせいか。
朔海は窓辺に立ち、次元の狭間のあの街の華やかさとはかけ離れた、退廃的な雰囲気の漂う城下町を見下ろした。
――昨夜のあれで、城内の様子は大方探ることが出来たが、できれば城下の様子も探っておきたい。
朔海は、次元の狭間の屋敷から持ち出してきた保冷パックに入れていた血液パックの中身を飲み下しながら思案する。
「……朔海?」
少し掠れた、彼女の声が朔海を呼んだ。
「おはよう、咲月。良く眠れた?」
「え……、あっ、――……うん。その……お陰様で……ぐっすりと」
昨夜の一件を思い出してか、彼女の頬がうっすら赤く染まる。
「ところで、朝食なんだけど」
いそいそと着替えを始める彼女に背を向けて、朔海は再び城下町を見下ろした。
「朝食に限らず……城の厨房に頼めば、何かしら作って持って来てもらう事は出来るけど……僕の経験上、それでまともな食事を用意して貰えた事は無かった」
古今東西、食事に細工をするというのは嫌がらせ目的から暗殺目的まで、かなりポピュラーな方法だ。
だから、一応自分で食事の用意ができるだけの用意はしてきた。
「でも……」
「城の外に、何か用事があるの?」
着替えを終えた咲月が、窓の外を眺める朔海の視線を追って、同じように城下町を見下ろす。
「用事……って程でもないけど、ちょっと様子見と、情報収集しておきたいけれど……あそこは、正真正銘魔界の、吸血鬼の街だ。次元の狭間の、あの商業で成り立つ街とはまるで趣が違う」
ただ、見た目だけの話ではない。
吸血鬼が快適に暮らすために、吸血鬼が造り、吸血鬼が棲まう街だ。
「でも……吸血鬼というのが本来どういう種族なのか、知っておくにはいい機会ではある」
咲月が知る吸血鬼は、朔海と、葉月と、晃希と、紅狼だけだ。
咲月にとっては紅狼の方が異端のように思えているかもしれないが、実際はその逆なのだと。
「昨日の状況を考えると僕らの正体は隠して行くほうがよさそうだけど」
「……つまりそれって、いわゆるお忍びってやつ?」
それは、何だか少し楽しそうだ。咲月はとたんに好奇心に満ちた目で朔海を見た。
「そうだね、食事しがてら城下町見物でもするかい?」
とはいえ、ここは魔界だ。その危険度は次元の狭間より遥かに高い。
「絶対、逸れないように。手を、離さないで」
全身をすっぽり包む、真っ黒いロングマントに着替えた朔海は、彼と同様の格好に着替えさせられた咲月に手を差し伸べた。
朔海は、扉からではなく、翼を広げて窓から直接外に出た。門番の居る門扉を潜ることなく、城下の街の端っこの、人通りのない場所に降り立つ。
「空を飛ぶ事のできる吸血鬼は、限られている。いくら格好を誤魔化しても、この翼を見せたら、僕が何者か、すぐにバレちゃうからね。だから、咲月も気をつけて。――城へ戻るまでは」
その理由を、朔海はそう説明してくれた。
そして、咲月の手を引いて表通りへと歩き出す。
例えば洒落たレンガ造りだったり、ログハウスの様な木造の建物、厳格なゴシック調の建物や可愛らしいコロニアル様式など、欧州風の店が建ち並ぶ通りだけでも様々な建物が並んでいたあの街と違い、見渡す限り、切り出してきた石をそのまま削って形だけ整えて積み上げ作ったらしい壁がそそり立ち、そこを鬱蒼と生い茂ったありとあらゆる蔦植物が覆う街。
そこに降り立ってまず初めに咲月が抱いた印象が、それだった。
多少、岩の色味に違いはあれど、基本的に灰色を基調としている事に変わりなく、多少黄味が強いとか、赤味が強いとか、白っぽいとか黒っぽいとか、その程度の違いは、遠目に見れば殆ど分からなくなる。
それらを覆う植物も、緑を基調に多少色味の濃淡はあれど、街全体が灰と濃緑に包まれ、それらは街全体の威圧感を増幅するのに一役も二役も買っていた。
空を見上げてみても、一面を覆い尽くすのは暗く厚い雲、雲、雲。そして飽きもせずその空を飛び回る、コウモリ、カラス、そして得体の知れない何か――おそらく魔物とかそういう類のものだろう生き物たち。
たった今降り立ったばかりであるのに、もう気が滅入ってしまいそうな景色の中を歩く人々――そう、格好こそファンタジーめいた、RPGの世界の中の登場人物たちのような出で立ちであるが、老若男女、すれ違う者たちは皆、一見すれば人間にしか見えない姿をしている。
どちらかといえば、欧州風の顔立ちの者が多く、アジア系の者は少なく、、アフリカ系の顔立ちをした者は殆ど見かけないという傾向はあるものの、明らかに人でないと分かる出で立ちのものが当たり前に闊歩していた次元の狭間のあの街に比べて雰囲気は、よく言えば落ち着いている、と言える。
……まあ、その人々のご面相がどれもこれも一流モデルや映画俳優のような、嘘みたいに整った顔立ちである、という部分には違和感を覚えるけれど、だからこそ、何かの映画の世界に迷い込んでしまったような気分にもなる。
しかし――。
「ねえ、朔海……。あれは、何?」
通路の至るところに屋台や露店のテントが張られていた次元の狭間の街と違い、この町の店の大半は頑丈な格子のついた窓と、頑強そうな扉の中に商品を並べ、店によってはさらに屈強そうな用心棒らしき者すら居る。
しかし、時折通路が開けたちょっとした広場を抜けるたび、そこに必ずと言っていいほどテントが立っているのに、嫌でも気づかされる。
商品として並べられているのは、大きな鳥かごだ。
――だが、もちろん商品は鳥かごそのものではなく、その中身である。
「あれは、餌だ。吸血鬼の小腹を満たすための……」
鳥かご、というには少々サイズの大きい、人一人収められるサイズの檻の中に閉じ込められているのは、少年や少女と言うべき年頃の――
「……じゃあ、あれは人間なの?」
見てくれだけは綺麗に整えられているが、その表情は皆一様に暗い。
周りが容姿の整いすぎた人外の中で、一見冴えなく見えるが、きちんと見れば十分可愛い顔立ちをしているのに、うつむいたままにこりともしない。
「……魔界の空気は、人間には毒にしかならない。あの籠には特殊な術がかけられているから、あの子どもたちは魔界でも生きていられる。でも、あの籠から一歩でも出れば……魔界の空気にあてられて、大抵は即死してしまう」
朔海が、感情を殺した声でそう説明してくれるその目の前で、二人連れの男がテントに近づき、籠の一つを指さした。
店主と何やらやり取りをした後、彼らは懐から革袋を取り出し、店主に渡した。
代わりに彼らは鍵を受け取り、店主が地面へ下ろした籠の中へと入っていく。
その籠の中に居るのは、咲月よりも幼く見える――アジア人に比べ、欧米人の方が老けて見える場合が多いことを考えると、もしかしたら咲月よりもっとずっと年下なのかもしれない、一人の少女。
彼女は、細身ながら随分背丈のある男たちを前に、びくりと身を竦ませたが、男たちはそれを意に介した風もなく、楽しそうに笑いながら彼女を無理やり立たせ、そして――彼女の首筋に、牙を立てた。
少女の顔が、痛みに歪む。思いやりの欠片もないその行為に怯えるその様を見て、男たちは愉快げに笑った。
それを遠巻きに眺める他の子供たちは、恐怖と絶望を閉じ込めた瞳でそれをぼんやり眺めている。
男たちは代わる代わる彼女に牙を埋め、少女の顔色が青白くなるまで吸血を続けた。
――たくさんの血を一度に失う、その辛さを咲月は身を以て知っている。けれど、あの少女の辛さは咲月のあれの比ではあるまい。
少なくとも咲月は、朔海に血を吸われることに対して恐怖や嫌悪を抱くことは無かった。
でも、無理やり血を吸われているあの少女の心は恐怖と嫌悪で一杯のはずだ。
籠から出れば死ぬしかない状況で、道行く吸血鬼に望まぬ吸血をされるために、あの子供たちはあそこにああして並べられている。
「……行こう、咲月」
朔海は辛そうにしながらも、哀れな子どもたちから目を逸らし、歩き始めた。
――これは、この街の日常なのだ。
可哀想だけれど、あの子供たちにしてやれることは、何もない。
ああした店は、町の至るところで展開されている。
この店で並べられた子どもたちだけを助けても、何の意味もないのだ。
それに――。




