異界の扉とその番人
人一人の体重と、重たい荷物を負っているとは思えない程軽やかに、彼は中天に輝く月に向かうようにぐんぐん高度を上げていく。
「次元の狭間って、どうやって行くの?」
以前にも尋ねたことのある問いを、咲月は再び彼に投げかけた。
「うん。咲月が異世界に渡るのは一応、これが“初めて”だからね。今回は異界の扉から行こうと思ってる」
あの時は、鍵を持たない咲月には理解が難しいだろうという答えが返ったが、今回はしっかりした答えが返ってきた。
「異界の扉?」
「そう。世界と世界が干渉しあっている場所は割とどこにでもあって、それこそ無数に存在してる。本来は、そのどこからでも行き来は可能なんだけど」
朔海はゆっくりと言葉を選びながら、丁寧に説明してくれる。
「でも、いくつもあるそれの中で、特に干渉の強い、大きな道には必ず扉が設けられていて、番人がそれを守っているんだ」
「――番人」
「無闇に世界を行き来して悪さをして無用な混乱を招く輩を取り締まる、ってのが番人の一番主な仕事なんだ。番人が発行してくれる通行許可証は、絶対持ってなくちゃならない物じゃないけど、持っていればいざという時に困らなくて済む。一度は顔を出して挨拶をしておいた方が良い」
「その扉って、どこにあるの? ここから、遠い?」
「いいや、さっきも言ったとおり、扉はいくつも在るけど、一番近いのは富士山の向こうの港町。確か名前は……、若宮町、だったかな?」
記憶の頁を探るように視線を宙に彷徨わせながら、朔海は答える。
「そんなに近くに、そんな物が……」
甲府から富士山までは、こうして空から直線最短距離で向かうならすぐ目と鼻の先だ。山を越えれば海もすぐそこだ。
「ただ転移するだけなら、すぐにも飛べるんだけど……せっかく近くにあるんだから、と思ってさ。つい最近、番人が代替わりしたらしいから、僕も一度挨拶しておきたかったんだ」
空を見上げれば星が、下を見下ろせば街の灯りが瞬く。
その街の灯りがふと途切れ、空の星を押し退けるようにそびえ立つ影に気づく。地平線を咲月の視界から隠すいくつもの影のうち、一際大きなそれは、富士山の影。
それが左手に見え始めた頃、街の灯りがある所でふつりと途切れ、代わりのように月明かりを映して揺らめく水面が、空と交わる水平線まで続く。
――海。港町だ。
海沿いを海岸線に沿うように走る列車の明かりと、それに並走するように走る大きな幹線道路を行く車のテールランプがその概要を大まかに示し、その内側に点々と、街や住宅の灯りが点在している。
その後方、街の灯りの中に、ぽっかりと空いた闇。
標高はそう高くない。豊生神宮のあった里山と同じくらいか――いや、こちらの方が少し大きいか……目測だけでは定かではないが、その小山は街の中にひっそりと鎮座していた。
朔海は、その闇を目指してゆっくりと高度を下げ、やがて降り立ったそこは――。
「……神社?」
賽銭箱が設置され、紅白の紐が下がる大ぶりの鈴が二つならぶそれは、小規模ながら確かに拝殿だ。
豊生神宮のそれも大きくはなかったが、時代を感じさせる趣のある建物だったのに比べ、こちらは更に小規模な上、どうやら最近建てられたばかりのようで、真新しい木材の香りがする。
「ここが……?」
異界の扉……なのだろうか? 尋ねる咲月に、朔海が頷きを返した。
「けど、これは多分一般の……普通の人間が参拝する為の拝殿だね。僕たちが挨拶するべき番人は、もっと奥に居るんだと思う」
夜の深い今、社殿の明かりは全て落とされ、辺りは深い闇に覆われている。その中で、朔海は周囲を見回しながら、咲月の手を引いて歩き出した。
咲月は彼の手と月明かりだけを頼りに、狭くて急な階段を登ると、確かにそこにも建物が建っていた。
やはり、先程の拝殿同様、最近建てられたばかりであるらしい社殿。だがそれが参拝客を迎える為の施設でないことは明らかだった。
ここへ続く階段は明らかに人目につかないよう隠されていたし、建物のどこを見ても賽銭箱や案内表示の類は見当たらない。
完全に住居仕様になっているにもかかわらず、その建物の造りは一般家屋ではなく明らかに社殿として造られている。
普通、大概の神社では神職や関係者用の住居や宿泊施設は社殿とは別に造られているものだ。
あの気安い神様を祀る豊生神宮でも、拝殿や社務所と住居は完全に別に建てられていた。
社殿は、あくまで神様の為の建物で、人の住まいではない。
だというのに――?
「――ここは、関係者以外立ち入り禁止ですよ」
不意に、背後から声を掛けられた。
「きゃ!?」
暗闇の中、その気配に全く気づいていなかった咲月は思わず悲鳴を上げて飛び上がった。
慌てて振り返る咲月に、声の主は不思議そうに少し考える素振りをした後で、ハッと何かに気づいたらしい。
「ご、ごめんなさい。あなた、もしかして人間なのね? 脅かすつもりはなかったんだけど……」
月明かりの下に立つのは、一人の少女――。
「ちょっと待ってね。――夜陰に遊ぶ鬼火たち。お願い、力を貸してちょうだい」
するとどうだろう。彼女が上手に翳した掌の上に、ふわりと青白い炎が揺らいだではないか。
彼女が手にした炎の明かりに照らされて、ようやく咲月の目にも彼女の姿がしっかり認識できるようになる。
見たところ咲月と同じか、少しばかり年上のようにも見える少女は、巫女装束を身に纏っていた。
この装いと年齢からすると……この神社の巫女見習いか何かだろうか?
しかし、あの炎は――。
「……もしや、貴女が?」
朔海は、声音に敬意を滲ませながら尋ねた。
「ああ、お察しの通りさ。彼女がここの扉の番人だよ。――まあ、まだ見習いのヒヨっ子だけどな」
するともう一人、今度は男の声が少女の背後から飛んできた。
「噂で聞いたんだろう? 新しい番人は人間上がりの小娘だって」
その声の主を見て、咲月は目を見開いた。
肩甲骨まで伸びる美しい生糸のように細く艶めく髪は、殆ど銀に近い色に僅かに黄金の蜜を垂らしたような、ごく薄いハニーブロンド。こちらを愉快げに眺める金の瞳はとろけたバターのように掴み所がない。そして、その白い肌。――朔海も大概白く美しい肌をしているが、それとは質の違う白さを持つ肌に包まれた身体を、着崩した男物の着物に包み、派手な赤い女物の着物を肩から袖も通さず羽織る、美しい人。
……いや、確かに人の姿はしているが、間違いなく人間ではない。
「それで? 若い人間の娘を連れて何の用だい、吸血鬼のお坊ちゃん?」