ある朝の風景
カツ……カツ、カツ……カツカツ、カツ……
きらきらした光が、瞼を閉じた視界に広がる闇をも越えて橙の色を投げかける。
肌に触れる温もりがあまりに心地よくて、まだ微睡みの中を揺蕩っていたい――そう思うのに、その至福に水を差すように、耳障りな音が断続的に聞こえてくる。
「ん……もう少し寝かせて……」
寝返りを打ち、頭から布団をかぶって音を遮ろうと無意識に手を伸ばそうとして、ふと違和感に気づく。
肌に直接触れる、シーツの感触。まるで包み込むように背に回された腕と、そこから伝わる体温。すぐ間近に聞こえる、自分のものではない心音と、呼吸音。耳をくすぐる吐息――。
ゆっくり、ゆっくりと意識が微睡みから浮き上がると同時に、少しずつ少しずつ、昨夜の記憶が蘇ってくる。
息を吸い込めば、覚えのあるコロンの残り香が嗅覚を擽った。
ハッと目を開ければ、まず最初に飛び込んできたのは、見覚えのある画――すぐ間近ですよすよと寝息を立てる朔海の顔のドアップで……。
一気に意識が浮上し、眠りの中で閉じられていた感覚が外へ向けクリアになる。
恨めしいくらい白くて綺麗な肌に包まれた、細身ながら引き締まった胸に抱え込まれる格好で、彼の腕に抱きしめられているのだと認識するに至り、ようやくはっきり目が覚めた。
――下腹部に感じる違和感。
(……そうだった……昨夜……)
まだすよすよと規則正しい寝息を立てる朔海の寝顔は――……少し不快気に眉間にシワが寄っている。これはやっぱり、あれが原因だろうか?
カツ……カツ、カツ……カツカツ、カツ……
音の出処を探って部屋を見回そうとするが――動いてみようとすると、以外にもがっちり抱え込まれていて動けない。
身動きすらできないほどがちがちに抱えられているわけではないけれど――その腕の中から逃れることを許してはくれないらしく、音のする方へ視線を向けることができなくて。
カツ……カツ、カツ……カツカツ、カツ……
しかし、音はしつこくしつこく鳴り続け、とうとう朔海の瞼がぴくぴくと不快気にひきつり、その下から彼の綺麗な濃紺の瞳が姿を現した。
「ん……うるさいなぁ、何の音……」
ほんのひと時、ぼんやりと瞳がさ迷い、微睡みと現実の境を漂い――
そして、おそらくは先程の咲月と同じような経過を辿って、ようやく目が覚め、己の状況を正確に把握したのだろう、彼は慌ててガバリと身を起こし跳ね起きた。
恨めしいほど白く綺麗な肌が光を浴びて、その綺麗な体の線をくっきり浮かび上がらせる。
その、彼の双眸が向けられた先を追ってみれば――
カツ……カツ、カツ……カツカツ、カツ……
止むことのないその音は、朔海の部屋の入り口の扉の外から聞こえてくる。
――ここは、朔海の屋敷で、ここに住むのは朔海と咲月だけで、当然他に誰もいないはずの場所で、一体誰が……?
朔海は訝しげな顔をしつつも、シャツを羽織ってベッドを降りた。
ドアノブに手をかけ、一瞬息を詰めてから勢いよく扉を引き開けた。
しかし――そこには当然ながら誰の姿も無く……いや、居た。朔海の足元に、黒い塊が――……
「ファティマー……?」
見覚えのあるその大きさとフォルムは……ほぼ間違いなく彼女の使い魔の大鴉だ。
彼は、嘴にくわえていた一枚の封書を朔海の足元に落とした。
朔海はそれを拾い上げ、封を破って中身に目を落とし……すぐにぐしゃりと握りつぶした。
「……朔海?」
ふるふると小刻みに震える彼に、咲月は控えめに声をかけてみる。
だが、彼がそれに反応するより早く、大鴉がその横をすり抜け、咲月の前にもう一枚封書を差し出した。
「何……?」
羊皮紙の封筒に、見覚えのある刻印が刻まれた封蝋。間違いなく師匠からのものだ。
丁寧に封印を壊し、開いてみれば――
『我が弟子へ、まずは祝いの言葉を贈ろう。そうそう、お前が育った国ではこういう時セキハンという物を食べる習慣があると聞いた。私からの祝いの品としてこれを贈る』
と、間違いなくファティマーの筆跡でそう流暢に書き連ねられていた。
「……朔海」
「あ、ああ……ごめん、何でもないんだ。その……」
気まずそうに逸した目が泳ぐ様を見ると、きっと彼が握りつぶしたそれにも、きっと彼をからかうような内容が書き連ねられてたに違いない。
「……あのね、これが一緒に送られてきたんだけど」
ちょうどふたり分にちょうど良さそうな量のもち米と、小豆。
その二つの食材だけ見て、朔海はすぐにピンと来たらしく、笑みを引きつらせた。
「ファティマー……。くそ、きっと今も水晶玉を覗いてにやにやしてるんだ。知らないふりすれば後で延々と追求されるし、かと言って乗っかれば延々とからかわれ続けるんだ……」
彼は頭を抱えてうずくまりながらも、片手を咲月の方へ突き出した。
「まあ、赤飯なんて……そういえば、あれ以来か……」
手のひらを上にした彼の手の上に、ファティマーの“贈り物”を乗せながら、彼の言うその時の事を咲月も思い出す。
「そっか……、そういえば朔海はあの時以来なんだ……」
咲月は、葉月を失って以来豊生神宮に預けられ、そこで何度かお祭り行事に参加した。めでたい行事ごとのため、赤飯を食べる機会は結構あったのだけれど、朔海は――。
初めて、彼に好きだと告げられた日。
あの時半分以上は朔海をからかう目的で用意された赤飯。……葉月といい、ファティマーといい、よくよく朔海をからかいたがる。
……まあ、その気持ちは……正直分からないでもないのだけれど。
「ところで……大丈夫?」
米と小豆の袋ごと咲月の手を捕まえて、朔海が尋ねる。
「え?」
「どこか、痛かったりとかしない?」
そう尋ねる彼の眼差しは真剣そのものだ。からかいの色は微塵もなく、ただただ純粋に咲月の心配だけしている瞳。
「……大丈夫だよ。……それはまあ、初めてだったし? 正直に言えばまだ少し痛みは残ってるし、違和感もあるけど」
咲月だって、本来なら高校に通っているはずの年齢だ。その手の知識もそれなりにある。
「でも、もっと痛いもんだと思ってた」
そう思っていたからある程度覚悟していたのだけれど。流石に皆無とまでは言わないまでも、それはとてもささやかなものでしかなくて――。
「だから、大丈夫」
咲月がきっぱり言い切って、ようやく朔海の顔に安堵が広がる。
「……それより、早くしないと。今何時? 外がもう随分明るいのが怖いんだけど」
普段は朝に弱いなんて事はない咲月だが、流石に今朝ばかりはいつもと勝手が違った。
「遅刻したら……師匠が怖い……」
「ああ、それなら……。今日は休講でいいってさ」
と、朔海が一度握りつぶした書面をひらひら振って見せながら言った。
「……彼女が言い出さなかったら、僕からそう願い出るつもりでいたからなぁ。本当に、彼女は何から何までお見通しだ」
苦笑しながら肩を竦める。
「着替えて、朝食にしよう。……もちろん、メニューは赤飯で」
お互い、シャツを一枚羽織っただけの格好だ。
改めて言われると何だか突然気恥ずかしくなり、咲月はそろそろと朔海から目を逸らした。
「……うん」
朔海は、翼を広げ、地下へと降りていくファティマーの使い魔を見送り――おそらく地下の魔法陣を使ってやって来たのだろう――、扉のそばを離れ、クローゼットを開けた。
つい最近まで男の一人暮らしだったとは思えない、整理の行き届いた様子のその中身をちらりと視界の端におさめながらも、咲月は急いで自分の脱ぎ散らかした服を回収して彼の部屋を脱出する。
回廊の端から端まで、向かいの部屋の扉へ突進するように急いで駆け抜ける。
朔海は部屋に居る。他に見る者は――出歯亀大好きな師匠様を除き居ないだろうというのに。
咲月は自室に飛び込み、急いで扉を閉めた。
その瞬間、へろへろと膝から力が抜け、その場に崩折れるようにしゃがみこむ。
両手で顔を覆い、項垂れた。
痛みは気にするほど残っていないけれど。……昨日、彼に触れられた感触は全身いたるところに鮮明に残っている。
「朔海……あれで初めてとか、嘘でしょ……?」
つい、そう思いたくなるくらいに彼は自然で――でも、これまで見たことのない表情をする彼を、咲月は見た。……思わずゾクリとするくらいに色っぽい、男の顔をした朔海――。
思い出すだけで、体が熱くなる。
もし、ファティマーの邪魔が入らなければ、まだしばらく彼の腕の中で微睡んでいられた。
そう思ったら、とても惜しい事をしたような気すらして、咲月は堪らない羞恥に身悶えたくなる。
「……着替えよう」
まずは、落ち着かなくては。
そうでなくては、この後の朝食の席は乗り切れない。
咲月はのろのろと立ち上がり、クローゼットを開けた。
朔海とファティマーが競うように選んでくれた服がぎゅうぎゅうに詰まったその中から、ハンガーを一本取り出す。
既にコーディネート済みの服をワンセット、ハンガーから外して身に着け――部屋を出る。
「――行こう」
朔海はもう下へ降りたのだろうか? 咲月は、食堂へ向かうため回廊を歩き始めた。




