宣誓
「――その前に。少しだけ、時間をいただけますか?」
しかし、朔海は丁寧に頭を下げながら、それを押し留めた。
そして、咲月の方へと向き直り、懐から取り出した小箱を差し出した。
「……これを、咲月に」
綺麗にラッピングされたそれを解けば、中から出てきたのは――
「指輪……」
中央にムーンストーンを据え、その周りをぐるりと青いトパーズが取り囲む。金の輪の部分にはごく小さいダイヤモンドの欠片が並ぶ――とても可愛いデザインの指輪が、ひとつ。
「今日渡すそれは、婚約指輪。――結婚指輪は王族認証の儀を終えた後、きちんと式を挙げるその時に改めて送りたいと思う。だから、今は――」
小箱の中身に視線を落とした咲月の前で、朔海が突然、跪いた。片膝を床につき、胸に手を当てて――そう、まるで姫に傅く騎士のように。
「君に、改めて結婚を申込みたい。――この指輪を受け取り、僕と共にこの先ずっと一緒に生きて欲しい」
そう言って、小箱をに入れた指輪を差し出す。
その仕草は、あまりに自然で。けれどこの歳まで日本人として育ってきた女子として、憧れではあってもなかなか現実にそれを体験する機会などなかなかない。
その照れくささも手伝って、心臓がまた鼓動の速度を速めるけれど――彼のその真摯な眼差しに、咲月が逆らえるはずもない。
ゆっくり手を差し出し、小箱の中の指輪に触れる。
とても華奢な作りのそれは、少しでも乱暴に扱ったら壊れてしまいそうで、咲月は慎重に箱から取り上げる。すると朔海が小箱をしまい、その指輪を咲月の手から受け取って、するりと左手の薬指に嵌め、その手の甲に軽く口づけを落とした。
「――ありがとう」
「……いや、この場合お礼を言うべきは私の方だと思うんだけど。指輪、ありがとう」
指にぴたりとおさまったそれを眺めて、咲月の頬が思わず緩んだ。
朔海は改めて少年に頭を下げる。
「――お時間をいただきまして、申し訳ありませんでした」
「いや、構わぬよ。実に良いものを見せてもらった。そなたらは真実、愛し合い互いに望んで結ばれる。それは、とても幸せな事だ」
彼は、ほわりと微笑んで言った。
「たとえ心から望んだ事ではなくとも、ここで誓約の儀を行い、契約が成立すれば婚姻は成る。利益や柵、果ては力による強制により、望まぬ婚姻を交わす者は、いつの時代、どこの世界でも決して少なくはない」
しかし、彼はすぐにその微笑みを寂しそうな笑みに変え、呟いた。
「それでも、その誓いを見届けるのが我が勤め。例え不幸な婚姻でも、目を逸らす事は許されぬ」
だが、と、彼は再び手にしたゴブレットを朔海に差し出し、ふわりと微笑んだ。
「そなたたちのように望んで結ばれる二人の誓いを見届けられるのは久しぶりだ。私も、嬉しい」
「――ありがとうございます」
朔海は受け取ったゴブレットを掲げ、彼の方を向いて姿勢を正した。
「私、綺羅星の朔海は、双葉咲月を妻として娶り、生涯を共にすることを、ここに誓います」
そして、ゴブレットを一気に傾け、中身の液体をゴクリと飲み下した。
……その一瞬、僅かに彼の顔がしかめられた。その訳は、朔海から差し出されたそのゴブレットを受け取った際に咲月も悟った。
金属でできたそれは、外から中身の色味を見ることはかなわなかったのだが、いざ上から覗いてみれば、どんよりとした灰緑色をしたどろりとした液体から立ち上る湯気の匂いは青魚の生臭さと脂の嫌な臭みをおびている。
これを飲み干すには、ひとかたならぬ勇気が必要だった。
――もちろん、宣誓の言葉を声に乗せて口から出すにも、相応の勢いがいる。
咲月は、つとめてその匂いを嗅いでしまわないよう気をつけながら、深呼吸をする。
「私、双葉咲月は、綺羅星の朔海を夫とし、生涯を共にすることを、ここに誓います」
彼のセリフに倣い、こみ上げる羞恥を抑えながら誓いの言葉を述べる。
そして、息を止めてゴブレット残った中身を一気に飲み干す。
どろりとした嫌な感触が舌の上をゆっくり滑っていくのを必死に飲み込み、胃へと送り込む。
「うむ。確かに聞き遂げた。そなたらの誓約は、私が保証しよう」
悶絶したいのを必死に堪える咲月の前で、少年がほわほわと微笑みながら言った。
「――はい。ありがとうございました」
朔海が改めて彼に礼を述べ、頭を下げる。
「良い。末永くお幸せにな」
ひらひらと手を振って見送ってくれる彼にもう一度一礼して建物を出た咲月に、朔海は苦笑を向けた。
「とりあえず、まずは何か飲もうか?」
うっすら目に生理的な涙を浮かべた咲月は即座に頷いた。
「ぜひ、そうしていただけるとありがたいんだけど」
匂い以上にひどかったその味。よくぞ朔海はあれをほんの少し顔をしかめるだけでとどめられたものだと感心する。
朔海は、いつかと同じ場所に屋台を出していた、『ヘブンズ・カクテル』と看板を掲げた店に立つ店員に声をかけた。
「すみません」
「はい、いらっしゃいませ。ご注文は何になさいますか?」
店員は、あの日とおそらく同じ天使。彼はニコニコ愛想よく微笑んでいる。
白く清潔そうなカウンターに並ぶ、十近いジューサーが、中身をゆっくり撹拌しているその前に掲げられたメニューを眺めながら、朔海は咲月に尋ねた。
「どれにする?」
「朔海は何にするの?」
「うーん……僕は、『フレッシュ・ガブリエル』にしようかなあ」
「じゃあ、私も同じのにする」
朔海が店員に銀貨を四枚支払っている横で、紙コップに注がれた飲み物を二人分受け取り、その片方に口をつけ、味見をしてみると、『フレッシュ・ガブリエル』は、ストロベリーとピーチとヨーグルトのカクテル・ジュースだった。
咲月からコップを受け取り、彼もまた一口それを味わい、「あ、これ結構美味しい」と感想を漏らす。
「今度、うちでも試してみよう」
空になったコップをテント脇に設置されたゴミ箱に捨て、朔海は広場の中央へ向かう。
例の石版の上の魔法陣に血をひと雫落とし、「アルム」へ飛ぶ。
咲月もすぐその後を追って飛んだ。
この魔法陣による移動にも随分慣れ、初めのように胃がぐるりと反転するような感覚ももうあまり感じなくなった。
アルムの出口から、朔海の家まで飛ぶのだって、もう呼吸をするのと同じくらい当たり前にできる。
「――咲月」
いつもの通りに夕食を済ませ、食後のお茶を楽しみながら。朔海が、改めて咲月の名を呼んだ。
「僕は、ここの片付けを済ませたら、部屋で待ってる」
彼は冷めた紅茶を一口啜る。
「だから、咲月。準備が出来たら、僕の部屋に来て欲しい」
「……ん、分かった」
ドキドキしながら紅茶を口に含み、咲月は小声で呟いた。
空になったカップを置き、咲月は立ち上がる。
「――ごちそうさま」
食事を作るのは朔海の仕事となっているが、片付けはいつもは一緒にやるのがそろそろ習慣として根付きつつあるのだが、今日は彼の申し出を受け、片付けをも彼に任せ、咲月は地下へと降りた。
不安と恐れ、緊張と期待――。
まるで、初めてここを訪れた日の夜のように、咲月の心は揺れる。
うっかり転ばないようゆっくり階段を下り、正面の戸を開け、中へ入る。
こぽこぽと脱衣所にまで聞こえてくる水の音に耳を傾け必死に暴れる心を落ち着かせる。
「……なんだか、情けないなあ」
あの日、吸血鬼になると最後の覚悟を決め、そして今、吸血鬼になって、色々出来ることも随分と増えたというのに。
暖かな湯船に体を沈め、咲月は自嘲する。
今回のこれだって、遅かれ早かれそうなるはずだった事だととうに分かっていたはずなんだから、今更慌てるなんて、本当に馬鹿みたいだと思う。
「……大丈夫」
咲月は一度大きく深呼吸をして、勢いよく扉を開けた。




