婚礼の儀
「1年の猶予をやる。それまでに、婚礼の儀を済ませた女を連れて来い」
朔海に下された命令の内容は、
「王族認証の儀を執り行うその期限までに相手を連れて来れなかった場合、王族の資格を剥奪した上、王家の名を汚した罪により処刑する」
というものだ。
その期限まで、あと三ヶ月と少し。
「――僕たちが真実認められるには、『王族認証の儀』を無事終えなくちゃならない。だから今は形式に則って、ただ誓約を交わすだけ。ちゃんとした式とかは、その後で……出来るなら、葉月も呼びたいし」
咲月の腕の石にそっと手を触れ、彼は緊張した声で言った。
「誓約の儀式の間でしなくちゃならない事、それ自体は難しい事じゃない。……僕は吸血鬼で、魔物だから、神様の前で『病めるときも健やかなる時も〜』とか誓うわけにもいかないから。だから、その代わりとなる契約を第三者の前で交わす。その第三者役を公式に引き受けてくれるのが、『誓約の儀式の間』なんだけど……」
どうにも、彼の台詞の歯切れが悪い。
こういう時は大抵、彼が何か言い辛いと思っている事がある。そのくらいの事はそろそろ察する事が出来るようになってきた咲月は、こっそり心の準備をした上で、朔海を促した。
「その、『婚礼の儀』以外にも何か問題があるの?」
「いや……その……問題、というか……。形式上、というか慣習上の理由で、しておかなくちゃいけないことがまだあって……」
彼は目を泳がせながらどんどん声を落とす。
――さて。「結婚」に於いて必要なこと。宣誓でも、式の事でも無くて、形式や慣習上の理由で必要な事とは何だろうか?
「……もしかして」
世間一般において、婚姻を交わしたその日の夜――。
それが単に『初めての夜』というだけの意味でない事くらい、咲月だって知っていた。
「……つまり、そういう事?」
すると、面白いくらいに朔海がビシリと固まった。
「………………」
――どうやら正解であるらしい。
そう思ったら、ふとあの時の出来事が脳裏に蘇った。
吸血鬼になるための儀式、その二日目の事――。あの時感じた熱が蘇ったように、カッと咲月の体が一気に火照りだす。心臓の鼓動が一気に早まり、思わず目を回したくなるけれど。
「その……僕としてはもっとちゃんと段階を踏んで、ちゃんとしてからって思うけど……。……実際、次元の狭間でならその誓約さえ交わせばきちんと夫婦と見なされるんだ。でも、魔界はとにかく実力主義、目に見えて分かりやすいものが絶対の場所だから。ちゃんとその“事実”がないと認められないんだ」
もの凄く申し訳なさそうに項垂れる朔海を見たら、ほんの少しだけ熱が落ち着いた。
「……ねえ、朔海。段階って言うけどさ、考えてみればもうとっくにひとつ屋根の下に住んでるって時点で色々すっ飛ばしてる気がするんだけど」
なんだか当たり前のように彼の家へ招かれ何にも考えずに居て、ふとその事実に気づいたあの瞬間の混乱を思い出し、咲月は自嘲の笑みを浮かべた。
もちろん、あれから今日まで、ひとつ屋根の下で一緒に暮らしながらも、同じベッドで寝たことも――あの時の“アレ”を除けば一度も無い。
でも、あの時の一件を改めて思い出しても、どうしようもない羞恥がこみ上げてくるけれど、嫌だとは一度も思わなかった。……だから、きっと大丈夫。
咲月は、朔海の手を握り返して、彼の手を引くように歩き出した。
「それで、その誓約の儀式の間って、どこにあるの?」
「咲月……」
「――何度も言うけど。異世界まで来て、吸血鬼にまでなって、それで今更嫌だとか言って逃げるなんてありえないから」
心臓がとんでもなくドキドキいっているのを隠すように、咲月は少し強い口調で言った。
「……いいの?」
けれど、さすがに彼を直視しながらの返答は出来なくて、少しだけ視線を逸らしたまま咲月は頷いた。
「……うん」
咲月としては精一杯の答えだったつもりだが、次の瞬間答えた咲月ではなく、それを聞いた朔海の方が顔を真っ赤に染めた。
もしも朔海と二人きりだったなら、その様子を可愛いと思ったかもしれない。けれどここは街の往来だ。
「ちょ……、朔海! ……それで、どこなの、誓約の儀式の間は?」
咲月は恥ずかしさで朔海の手を強く引いた。
「あ……う、うん。こっち……」
ようやく、朔海の足がまともに動き出す。
朔海は、中央広場まで戻り、その正面に堂々そびえるゴシック調の建物の――そのちょうど真向かいにある、まるで古代ギリシャの遺跡に似た古ぼけた建物に入った。
神殿を模したような建物のその中は、随分とがらんとした印象だ。特に華美な装飾があるわけでもなく、ひとで賑わっているわけでもない。
ただ、広い空間がある、その中央で、轟々と炊かれたかまどの火と、その上でぼこぼこ音を立てて湯気を吹く大きな寸胴鍋がでんと居座り、場所をとっている。
入口を入ってすぐのところに簡素な受付カウンターがあり、その後ろにやけに立派な枝ぶりの木が一本だけ生えているその前に、ぼんやりと光っているように見える少年がちょこんと座っていた。
こちらの気配に気づいたのか、こっくりこっくりと船を漕いでいた顔を上げ、ほわりと微笑んだ。
「おや、お客さんか。さて、そなたの望みは何かな……?」
邪気のない純粋な笑みは、まさに天使の微笑みと称するに相応しく、可愛らしい。
それなのに、何故だか気安く触れることをつい躊躇ってしまうような雰囲気を纏い、彼はまだ高い少年らしい――けれど妙に重さを感じる声音で問いを口にした。
朔海も、少年と見える彼に丁寧に礼をとり、答える。
「――『婚姻の儀』を。その誓約を、見届けていただきたいのです」
「そうか。――うむ、承知した。少し、待て」
そう言って、ぴょいっと腰掛けていた椅子から降りて立つと――咲月の腰ほどまであるかないかという身長の彼の姿が、カウンターに隠れて一瞬見えなくなる。
彼がとととっ、と木に駆け寄ると、ぐにゃりとその木の枝が生き物の腕のように動いて、まるで彼を迎えるように枝を地面につけた。
彼がぴょいっとその枝に飛び乗ると、枝が機械仕掛けのアームのように彼の体ごとぐいーんと動いて、背後の壁に作り付けられた大量の引き出しが並ぶ巨大な棚の一角へと彼を運び、彼はその中から一つの引き出しを開け、一枚の羊皮紙を取り出す。
すると、再び枝のアームが彼を地面に下ろした。
彼はそこからぴょいっと身軽に飛び降り、ぴょんと跳ねて椅子に飛び乗り、カウンターの天板に取ってきた羊皮紙を置いて、二人に差し出した。
「では、ここに署名を」
A4サイズくらいの用紙の上半分には、ファティマーから次元の狭間の文字だと教わったそれで何か書き連ねられているが、まだ殆ど覚えられていない咲月にはなんと書いてあるのかさっぱりだった。
そして、下半分には下線の引かれた空欄が、二つ。
その一つに、朔海は自らの血で文字を記した。
――これもまた咲月には読めない文字……魔界の文字だ。だが、署名というのだから、これが魔界の文字で書いた、朔海の名前なのだろう。
咲月は、自分の小刀を取り出しつつ、朔海にこそりと尋ねる。
「……朔海」
ファティマーに求められた書類にはローマ字で表記した。今回もそれで大丈夫だろうか?
「いや、これは日本語で――というか、此処に記すべきは己の真名。きちんと、名付けに使われた言語の文字での表記でなくてはならない。だから、ちゃんと漢字も使って書いて」
「……苗字は、双葉でいいの?」
朔海に貰ったのは名のみで、姓はとにかくコロコロ変わった。だが、この場合書くべきは、現在の「双葉」か、もしくはあの児童養護施設でつけられていた初期のものか。
「――咲月が、それを自分の名前だと思うなら。それが、君の真名だ。……吸血鬼に、ファミリーネームは存在しない。あるのは個人名と、ほんの一部の者のみ名乗ることを許された二つ名だけ。僕の場合は、“綺羅星”が二つ名で、“朔海”が名。“綺羅星の朔海”、これが僕の真名だ。姓は無いから、婚姻によって名前が変わる事もない」
署名を終えた書類を検め、少年はそれを持って再びぴょいっと椅子を飛び降り、中央の釜へと歩いていく。朔海はそれを追ってに咲月の手を引いて歩き出した。
背丈の違いからくるコンパスの差があるはずが、少年の歩みは驚く程に軽く早く、後を追う咲月立ち寄りも一足どころか三足か四足程も早くそこへ到達した彼は、あろうことか手にした書類をひょいっと釜へ放り込んでしまった。
「――っ、えっ!?」
びっくりして目を見開く咲月のの前で、彼は釜に立てかけられたはしごをひょいひょい上り、釜のすぐ脇に作り付けられた台に置かれた柄杓で釜の中身を掬い、同じく台の上に並ぶゴブレットに注いだ。
それを片手に上から降りてきた少年が、朔海に突きつけるように差し出した。
「さあ、では我が前で宣誓し、その中身を二人で半分ずつ空けるがよい。さすれば二人の間で契約が成立し、後にいずれかが誓いを破ればその報いを受け、苦しみと共にその命を失う事となろう」




