次元の狭間の公共移動手段
街の中央に設置された、つやつやした正円の石版。その表面には魔法陣が描かれている。
――咲月は一度、これを使った移動を経験している。
けれど、あの時まだ人間だった咲月の目はこの世界の物をまともに見ることができず、ただ魔法陣が放つ青白い光を目にしただけだった。
彼に抱えられ、訳も分からないままでの経験を「経験」と言ってしまっていいのかどうか……実際その前に立たされて咲月は疑問に思った。
「来るときはこれを使わなかったのか」
「飛行訓練も兼ねていたからね。帰りはこのとおり荷物も多くなるだろうと思ったから、これの使い方はその時に教えようと思って」
「まあ、そう難しいことでも無いしな。これは、この世界における唯一の公共移動設備だ。この世界に来るだけの『力』を持つものなら誰でも使えるように組まれた術式だ。魔法陣に行きたい先の名を告げて『力』を与えれば、道は開く。力量がさほどなくとも、魔術の心得が一切なくとも、最低限の『力』があればいい」
朔海が同意するように頷いた。
「僕の屋敷に一番近い陣の場所は『アルム』だ。その名を告げて、血をひと雫落とせば、それで道は開く。―ー僕が先に行くよ。……ファティマー」
「分かっている。私が殿をつとめよう。まあ、そんな心配する事でもないと思うがな」
肩をすくめながらも、分かっているとばかりに頷いたファティマーはさっさと行け、とばかりに朔海へ向かってシッシッと手を振った。
朔海は、いつもの小刀を使うまでもなく、牙で小さな傷を拵え、血を落としながらはっきりとした発音で「アルムへ」と告げた。
すると、見覚えのある青白い光が魔法陣から放たれ、次の瞬間彼の姿がその場から掻き消えた。
「な、簡単だろう? さあ、次はお前がやってみろ」
ファティマーに背を押され、咲月もその陣の中央に立つ。
周囲には順番を待つもの達で溢れかえっている。
なにかうっかり間違って何処ともしれない所へ出てしまったらどうしよう、とか思わない訳ではないが、あまりぐずぐずはできない。
朔海に貰った小刀で指の腹に傷を付け、彼と同じように「アルムへ」とことさら発音に気をつけて言ったあとで滲んだ血を落とす。
一瞬、魔術を使ったときに見る特有の青白い光りが視界に広がり、その輪の中を潜り抜けたように見えた――瞬間、ぐにゃりと周囲の空間が歪んだ気がして、一瞬胃がひっくり返ったような気分の悪さを感じ――気づけば、咲月はそれまでとはまるで違う場所に立っていた。
その足元には、つやつやした正円の石版。その表面には魔法陣が描かれている。
だが、朔海に手を引かれて石版から降りて辺りを見回せば全方位に広がる草原の丘がどこまでも続く。
ふと、魔法陣からまた青白い光が放たれ、光の中からファティマーが現れた。
「な、簡単だっただろう?」
「まだ、あんまり慣れないけど……」
それでも、特に問題もなく移動することは出来た。これでまた一つ、出来ることが増えた。
「ここまで来たら、うちはもうすぐだ」
そう言って、特に目印があるわけでもないこの場所で、朔海は迷いなくある一方を指さした。
「さあ、行こう」
そう言って、朔海は翼を広げる。
「あの……でも、ファティマーさんは?」
咲月もそれに倣って翼を広げてから、ふと気づいて彼女を見た。
「問題はない」
彼女はパチンと指を鳴らして、どこからか箒を取り出した。――絵に書いたような魔女の箒だ。
颯爽とそれに跨って、彼女はふわりと宙に浮いた。
「わあ……、魔女が箒で飛ぶってアニメの世界の中だけの話じゃないんだ……!」
「うむ。己の魔力制御の修行としては実に有効だからな。初歩の訓練として我が一族の者なら当たり前に習得している技術ではある。――だが、実に忌々しき問題が一つあってな。一人前の魔女を名乗る者で好き好んでこいつに乗る女を、私は未だかつて一度も見たことがない」
そう言って顔をしかめた。
「乗り心地がな、大変宜しくないのだ。だから、大抵は騎乗可能な使い魔を手懐け、それに乗るのが主流なのだよ。私も、グリフィンを飼っている」
地上からの眺めでは限りなく続くように見えた草原の丘も、空からふかんで見ると、地平の際に森がうっすら見える。そして、その少し手前に見える建物には見覚えがあった。
先程朔海が示した方角と寸分違わぬそこへ向けて飛べば、それはすぐに近づき――
咲月は、自らの翼を操り、その前へと降り立った。
朔海はすぐさま玄関扉に手を当て、封印の術式を解除する。
扉を開け、彼は二人の女性を促し、その後ろから自分も屋敷の中へと入り、もう一度封印の術式を発動させる。
「ただいま……」
この家で唯一の同居人である彼は、咲月と共にたった今帰ったばかりで、屋敷に他に人は居ないと分かっていたはずなのに、つい咲月はぽつりとそう呟いていた。
「――おかえり」
けれど朔海は、随分と嬉しそうな顔でそう返した。
「……それと。ようこそ我が家へ、ファティマー殿」
彼は、先に靴を脱いで上がり、彼女の分と咲月の分とスリッパを並べてくれる。
「ありがとう」
「うむ、すまないな」
「咲月、悪いけどファティマーをリビングに案内してくれるかい? 僕はこれを片付けて、お茶を淹れてくるから」
「――お構いなく、と言いたいところだが王子殿下の茶は捨てがたいな。では、遠慮なく一服させて貰って、それから仕事にかかるとするか」
咲月は、正面の扉を開け、食堂とひと続きの居間のソファへファティマーを案内する。
咲月がここへ来たばかりの頃に、朔海が咲月のためにと取り付けていた燭台は、今は全て片付けられている。
程なく、紅茶とお茶請けのティラミスを持って朔海がやって来た。
「やはり美味いな、王子殿下の菓子は。茶の淹れ方も絶妙だ」
「茶葉が一級品だからね」
もちろん、その茶葉の提供者はファティマーである。――当然有料で、だが。
「ティラミスも、このチーズは美味いな。酸味が程よくて……食感もいい」
咲月も、ご相伴に預かりつつ、同意して頷く。
チェーンのケーキ屋では味わえないレベルの味のケーキに自然と頬は緩む。
それを傍で眺める朔海の顔が緩む様を見たファティマーは、深くため息をついた。
「……だが、やはりあまり長居をしたくはないからな。さっさと仕事を済ませて私は帰るよ」
「場所は、地下室でいいのか?」
「――ああ。案内を頼むよ」
「……案内なんて、必要ないんじゃないの?」
常に水晶玉を覗いている彼女は、この屋敷の間取りも完璧に把握しているはずだ。
「しかし、一応他人の家だ。礼儀として私が勝手に歩き回るのはどうかと思ったから断ったまでさ」
家主であるお前が構わぬと言うのであれば、遠慮なく勝手に歩き回らせてもらうぞ? と言外に言うファティマーに、朔海が諦めたように肩を落とした。
「……案内サセテイタダキマス。コチラヘドウゾ」
ひどい棒読みでそう言うと、朔海が先に立って地下室の階段を下り、地下訓練室へ彼女を導いた。
広い地下室の、その入口にほど近い一角。
ファティマーは、パチン、パチンと指を弾くたびに、バケツやら杖やらをどこからともなく取り出した。
ファティマーの身長ほどもある杖の先を、何かの液体を入れたバケツにつけて、中の液体で湿すと、するりと床に線を描いた。
ぐるりと正円を描いた中に、見覚えのある――ついさっき目にしたばかりのそれと全く同じ魔法陣を描き、最後にその中央をとんと杖の先で突いた。
パシュッと一瞬、魔法陣が青白い光を放つ。
「――これで良いはずだ。試してみよう」
ファティマーは杖を置き、「ファティマーの魔女の店へ」と言いながら、何かの石を一粒落とした。
すると、魔法陣から青白い光が放たれ、彼女の姿が掻き消える。
――数秒の後、再び魔法陣が光を放ち、彼女の姿が戻ってきた。
「うむ、問題ない。咲月、明日から我が家へ修行に来る際にはこの道を使うといい。――ただし、よそでこの名を使うんじゃないぞ。先にも言ったとおり、この術式自体は基本誰でも使える。場所の名前を明かせば、誰でも我がテリトリーに侵入が可能となってしまう。『ファティマーの魔女の店』――もちろん、この場所……『アルムの屋敷』の名も、決して外で声に出して言ってはならんぞ」
「分かりました」
指を弾いてどこからか取り出した道具の数々を、パチンと指を鳴らしてまたどこかへ消し去り、彼女は自ら作った魔法陣の中へ再び立つ。
「では、今日はもう帰るとしよう。では咲月、また明日」




