満月の夜の誘い
結局、まとめた荷物はカバン一つに収まる量になった。
がらんとした部屋の中に夕日が差し込み、部屋が橙に染まる中、咲月はその部屋の真ん中にしゃがみ込み、少しの肌寒さに足を抱え体育座りの姿勢で、その時を待っていた。
これまで、家を移る際に咲月が持ち出す荷物は決まって、着替えが数組と、自分用の歯ブラシや箸、コップの類と目覚まし時計だけ。
自分の物と堂々と主張出来るものが、その程度の物しかなく、だからせいぜい通学用の学生鞄程度の大きさの鞄が一つあれば充分足りた。
けれど今回は、葉月に買って貰った洋服が上下とも上着や下着含めて数十着、朔海に揃えてもらった生活用品や細々した雑貨のあれこれ、社のお祭りの夜店のために揃えた手芸道具一式や、社の面々に貰った品々など、とにかく色々と持って行きたい物が沢山あって、結局海外旅行に使用するような大きな鞄を新たに購入してしまった。
――鞄というよりもうトランクと言ったほうが正しいと思われる、キャスターと引き手のついた大きなそれを脇に置き、咲月は段々と暗くなる部屋の中で、カーテン越しにじっと窓を見つめた。
今日のために、大きな荷物は全て片付け、掃除を済ませ、部屋はここへ入居した当初の状態と変わりなく、残った調度は前の住人が残していった、窓にかかる色あせたカーテンだけ。
部屋の鍵は、既に昼間のうちに大家に返しに行った。
今夜は、約束の満月の晩。――もうじき、彼がやって来るはず。
多分、おそらく、きっと。日付が変わる前には、迎えに来てくれるはずだ。
そして、明日の朝日が昇る前に、咲月はこの世界を離れる。
その不安と、緊張。そして期待と、興奮と。
さっきから、心臓の鼓動は早まったまま、一向に治まってくれない。
ドキドキしっぱなしで、正直こうして落ち着いて座っているのが辛く感じられる。
「早く、来ないかな……」
なかなか現れない待ち人を、咲月はじりじりしながら待ち続ける。
やがて、部屋に差し込んでいた陽の光もやがて弱くなり、どんどんと失われていく。
入れ替わるように部屋を闇が浸食し始めると、やがて空に満月が昇り、柔らかな月光が部屋の中にぼんやりとした光を投げかける。
咲月は立ち上がり、窓のカーテンを開け放つと、東の空に昇ったばかりの月をぼおっと眺めた。
(まだ……かな……?)
今の季節は、暗くなるのも早い。日の入りを過ぎたからと言って特に遅い時間にはならない。真夏の同じ時間なら、ようやく日が陰ってきて少し涼しくなってくる時間帯だ。
けれど、待ち時間というのは得てして、長く感じてしまうもの。
咲月の心も、期待と不安の入り混じる心の針が、だんだんと不安へと傾いていく。
握り締めたカーテンの布地が皺になるほど強い力を無意識にこめながら、咲月は夜の闇を見透かすように、一心に空を見上げ続けていたが――。
心の逸りは、無駄に体力を消耗していくものらしい。
やがて疲れを強く感じ始めた咲月は再び部屋の真ん中でしゃがみこんだ。
それでも、再び閉じたカーテン越しに空を眺めていたはずが、いつしかうとうとと浅い眠りに誘われ、夢と現実の狭間を漂い始める。
――お願い、私の可愛い娘。どうか、無事に生き延びて、幸せになって……。
不意に、聞き覚えのないはずの声が耳奥で響いた。
覚えのない声のはずなのに、何故だか懐かしい気持ちになるような、そんな女性の声。
――私と同じ運命を、あなたに背負わせたくないの。だから……ごめんね……。
果たして、いったいどれ程の時間が過ぎたのだろう。
コンコン、と控えめなノックの音で咲月は目を覚ました。
「……今のは――?」
しかし、夢から現実に引き戻された瞬間、ただでさえ朧だった声は霧散し、記憶の奥底へ沈み込んでしまう。
顔を上げれば、そっと窓の外から部屋の中を窺う人影が、カーテン越しに見えた。
咲月は急いで立ち上がり、カーテンを開けた。
「――遅い!」
続けて窓を開け、咲月はつい強い口調で朔海に迫った。
「ご、ごめん! 掃除とか片付けとか色々手間取って……! 本当にごめん!」
朔海は即座に両手を上げて降参の意を示しつつ、謝罪の言葉を口にした。
「……私こそ、ごめん。つい、怒鳴っちゃって」
「謝らないで。……不安にさせちゃったんだよね。あああ、相変わらずダメだなあ、僕」
悔しそうに頭を掻きつつ、朔海は咲月の背後のトランクに目をやった。
「持っていく荷物って、これだけ?」
咲月からして見れば多すぎるくらいの荷物量なのだが、朔海から見ると相当少なく思えるらしい。
「この間、持っていった方が良い物とか、聞こうと思ってたのについ聞きそびれちゃったから……。取り敢えず、必要だと思った物と捨てられない物だけ詰めたんだけど」
正直、これだけの荷物を持って歩くにはかなりの労力を要しそうだ。
だがふと、以前葉月宅を初めて訪れた際の咲月の荷物には、必要最低限以下の物しか入っておらず、随分と彼を嘆かせ、翌日出かけた買い物先では咲月以上に張り切っていた事を思い出す。
「取り敢えず、普通に必要だと思う物は全部詰めたよ? でも、私も異世界で必要になる物なんて思いもつかないから……。入っているのは本当に、普通に必要なものだけではあるんだけど……」
だから、咲月はそう彼に伝えた。
「いや、君が充分だと思うなら、それで良いんだけど。取り敢えず僕の方でも必要そうな物は揃えたし、足りなければ後で買い足せばいいんだし」
朔海は、手荷物サイズに収まらない、大きく確実に重たいはずの荷物を、片手でひょいと持ち上げる。
「――忘れ物とか、やり残した事とか、ない? 大丈夫?」
「大丈夫。昼間のうちに、何度も確認したから」
咲月が大きく頷くと、朔海は開け放した窓から外に出てからこちらを振り返り、咲月に手を差し伸べた。
「じゃあ、行こうか」
咲月がその手を取ると、朔海は重い荷物を持ったまま、それでも当然のように軽々と咲月を横抱きに抱え、あの日の晩と同じように、ふわりと夜空へ舞い上がった。