魔女様特製シャンプー、一本350円なり
この、次元の狭間という異世界に、太陽はない。だが昼と夜は存在する。
朔海の家の時計は、人間界の日本の標準時間に合わせたものだというが、その時計がだいたい五時を指した頃からだんだんと薄明るくなり、七時までには完全に明るくなる。そして、時計が一回りして再び五時を指した頃からだんだんと薄暗くなり、七時になる頃には闇に飲まれる。
ファティマーの店の窓から差し込む光量から察するに、そろそろ午後六時を回る頃だろうか――。
朔海が“お使い”から帰ってくる気配はない。
「……、まあ一時間や二時間で済むような用事じゃないからね。けど、まあ明日中には戻ってくるだろうから、今日はウチに泊まるといい」
ファティマーは、この結果を予想していたようで、すっかり用意の整えられた客室へ咲月を案内した。
この建物の、他の部屋と同様温かみのある木の香りのする8畳程の部屋に、ベッドとチェスト、書き物机と化粧台が置かれたシンプルなものだが、ベッドにかけられたシーツや、窓にかかるカーテン、そもそものベッドや机などの全てが、咲月の乙女心をくすぐる装いになっていた。
こういうのを確か、カントリー調、と言うのだっただろうか。
机とセットになった椅子の背もたれにかかったクロス、ベッドの上のクッションのカバーも可愛い。
「――うん。気に入って貰えたようで何よりだ。これからも度々こういう機会があるだろうから」
そう言って、ファティマーは何かを面白がるような笑みを浮かべた。
「さあ、では風呂場を案内しよう。着替えや何かは全てそのチェストの中に用意してあるはずだが、何か足りない物があったら遠慮なく言うといい」
案内された風呂場には、期待を裏切らない猫足バスタブが置かれ、ハーブの甘い香りがほかほか立ち上る湯気に混じって咲月の嗅覚を刺激する。
「シャンプーやらは、そこの棚にあるのを使ってくれ。タオルはそっちの棚。どっちも、好きに使ってくれて構わないから」
脱衣所に置かれた洗面台も、タオルやらをしまう棚も、ここにある家具はどれもとても趣味が良い。
朔海の屋敷のそれも、どれも一級品と分かる物ばかりではあったのだが、それに比べれば少し庶民的ながら、何だかほっとできるような感じがする。
朔海に頼んだ“お使い”が一体何なのか、いくら聞いてもファティマーははぐらかして教えてくれない。
「すまないが、私は明日の朝までに片付けねばならない仕事がある。君は、夕食を済ませたら部屋で好きにくつろいでくれ」
外が、完全に闇に飲まれてしばらく。
フィッシュアンドチップスに肉のパイ、スープとパンという、素朴な夕食を済ませた咲月は、ベッドに腰をかけたまま、ぼんやりとカーテンのかかった窓に視線を向けながら、濡れた髪をタオルで拭っていた。
今日は、少し街を歩いて買い物をして、すぐ帰るのだと思っていたのに、まさかこんな事になるとは思わなかった咲月は、ベッドに体を投げ出して天井を仰いだ。
もちろん、朔海もそのつもりだったはずだが、一体今どこで何をしているのだろう?
この異世界に来て以来、昼も夜も彼と同じ屋根の下で過ごし、寝部屋こそ別だが、それ以外の時間は殆どの時間を彼と共に過ごしていた咲月にとって、朔海の居ない夜はあの満月の夜以来だった。
あの日は、日付が変わる前には迎えに来てくれた朔海だが、今日は時計の針が天辺を過ぎても一向に戻ってくる様子はなく――
いつの間にかうとうととしていた咲月が、朝の光に目を覚まし、時計を見ると――時間は……六時半。
ファティマーが用意してくれていた服に着替えて部屋を出ると、すでに彼女は台所に立って朝食の支度を始めていた。
「やあ、おはよう。良く眠れたかい?」
そして、食卓にはもう一人――少しくたびれた様子で椅子に腰掛け、お茶を啜っていた。
「朔海!」
「つい今しがた戻ったばかりだがね。きちんと頼んだお使いを済ましてきてくれたようで、何よりだ」
「……まあ、ね。――ところで咲月、何だかいい匂いがするけど……」
「え? ああ、もしかして昨日のシャンプーの匂いじゃないかな? ハーブのすごくいい香りがしてね、凄いの、肌も髪も手触りが全然違って……」
「ああ、あれな。私のオリジナルブレンドなんだ。シャンプー一本3Qと50R。シャンプー・コンディショナーとボディソープの三本セットなら1Kで売るよ?」
商魂逞しい魔女様は、オートミールを皿によそいながら営業スマイルを浮かべる。
「……ところで、一つ聞いていいかな? 多分、ここは感謝しておくべきなんだろうとは思うけど、もしかしてまた僕のところに請求書が届くのかな、これ?」
食卓に並ぶ朝食を見下ろした視線をちらりと咲月に向けてから、朔海が頬を引きつらせた。
「用意してあるから好きに使え」と言われたから、つい深く考えず使ってしまったけれど、そういえば朔海の屋敷に揃えられた女物のあれこれひと揃い、頼みもしないのに届いて代金を請求されたと彼が肩を落としていたのを思い出して咲月は青くなる。
当たり前だが、咲月に手持ちのお金は無い。
この世界に来てからこっち、食べるもの、着るもの、他生活に必要な物の費用は全て朔海の財布から出ている。
「ご、ごめんなさい……!」
彼のあずかり知らぬうちに余計な出費を増やしてしまったかもしれないと、咲月は慌てて謝った。
「いやいいんだ、いいんだけどね。だって街へは本来買い物に来たんだ。服とか、家具とか、生活雑貨とか、必要なもの見繕うために来たんだし、お金が無い訳じゃないんだから。ただ……ね、そういうやり方はどうかな……と、僕は思うわけで……」
つられてあわあわとしどろもどろになる朔海に、ファティマーはプッと吹き出した。
「心配せずとも、今回の分の請求額は既に昨日頂いたよ。――あの時点で、既に私が彼女を弟子に迎える事になるだろうことはほぼ確定していたから、お前の屋敷に送った荷物分と合わせた額を請求させてもらった」
ああ、でも、とファティマーは手のひらを上向け、朔海に突き出した。
「月謝はいただこうかな。――我が一族の娘の面倒を見るのは一族の魔女の義務でも、間接的とはいえお前にも知識と技術を教授するんだ。そうだな……ひと月10Kでどうだ? 話を受けるなら、初回に限りサービスでシャンプーセットをタダでつけてやる」
それはそれは晴れやかな笑みを浮かべる魔女様を前に、朔海は深くため息をつきながら渋々懐に手を入れた。
「あの……、すみません、KとかQというのは……? いえ、この世界の通貨だって事は何となく分かるんですけど……」
だが、その通貨の種類と価値がいまいちよく分からない。
「うむ。金の価値を知らんというのは良くないな。ちょうど今なら SlやCrの持ち合わせがある。良い機会だ、覚えておくと良い」
そう言って、ファティマーは「待っていろ」と一人で階下へ降りて行き、何かを持ってすぐに戻ってきた。
「普段、人間界にしか居ないとつい『異世界』と一括りにしがちだが、実際は『天界』、『魔界』、『次元の狭間』はそれぞれ別世界でな、だからそれぞれ通貨も別なのだよ」
そう言いながら、食卓の上に三枚の金貨と銀貨、一枚の銅貨と二種類の紙幣を並べた。
「これが、リアル銅貨。この次元の狭間で使われている通貨の、一番基本となる硬貨だ」
樹木の絵と、R文字の刻印がある銅貨を指してファティマーが言う。
「1リアルを日本円にすると、だいたい10円くらいになる」
それを受けて朔海が説明を付け加える。
「そしてこれが、ケツァル銀貨。リアル銅貨十枚と同じ価値がある」
同じく樹木の絵の刻印と、Qの刻印のある銀貨、そして最後にやはり樹木とKの刻印のある金貨を指す。
「そして、これがクーナ金貨。ケツァル銀貨十枚と同じ価値がある」
次に、三日月の絵とCrの刻印のある金貨を指し、ファティマーが続ける。
「こっちは、クラウン金貨。魔界で使われている一番高額な効果で、これ一枚でクーナ金貨十枚と同じ価値がある」
「つまり……これ一枚で一万円……?」
1リアルが10円なら、1クーナは1000円。それを十枚分、というならそういう事になる。
朔海はそれに頷いて肯定する。
「そしてこっちの銀貨がドン。1クラウンは、10ドンだ」
やはり三日月の絵と、Dnの刻印の銀貨。そして最後に紙幣を指で弾いた。
「そしてこいつがロティ。1ドンは、100ロティだ」
三日月を漆黒の翼が包み込む絵が描かれた裏面と、Rtの文字が書かれた表面。
「後の三つは……僕たちが使う事はまずないとは思うけど……」
「うむ。こっちの金貨はソル。天界で使われている最高額の貨幣で、ソル金貨二枚で1クラウンと同じ価値になる」
「つまり、一枚500円……」
「まあ、そうだけど。僕たちが暮らすのはここ、次元の狭間だし、まあ……魔界にもいずれ顔を出さなきゃいけないわけだけど。でも、天界に行く用事はまず無いしなあ……」
「しかし、使わないからといって知らなくていい情報ではないだろう?」
ファティマーは太陽の絵と、Slの文字が刻まれた金貨から、同じく太陽の絵とKpの文字が刻まれた銀貨へ人差し指を移動させる。
「そしてこれがキープ銀貨。1ソルは100キープと同じ価値がある」
そして、最後に残った紙幣は、ロティ紙幣と対をなすような、太陽を白い翼が包む絵と、Lwの文字が印刷されている。
「そしてこれがレウ。1キープは1000レウだ。うちは魔界のお客さんも、天界のお客さんも相手にするからね。この三種の通貨全て扱っているけれど、この次元の狭間でクーナ以外の、クラウンやソルをどっちも扱う店は少ない。――ましてや、人間界の通貨はとにかく面倒だからね。直接支払い対応してくれる店はまずない」
「だから、そういう時は両替所へ行って両替してもらうんだ。……残念ながらそれなりに手数料がかかる上、手続きも煩雑なんだけど」
そういえば以前にも朔海はそんな事を言っていた。
「いや、それは人界の通貨と、他の通貨とでのやりとりの場合だけだ。クーナ、クラウン、ソルの両替は早いし安いぞ。何しろここは商業の街だ。金が回らなくなったらおしまいだからな」
広げたお金を回収したファティマーが言う。
「まあ、今はその為替レートだけだいたい頭に刻んでおけばいい。あとは実際に買い物して、金を使えば感覚で覚えられるさ」
「そうだ、買い物済まさなきゃ。行こう、咲月」
慌てて立ち上がる朔海に、しかしファティマーが待ったをかけた。
「待て、私も連れていけ」
とたんに朔海は怪訝な顔で「は?」と聞き返した。
「ファティマーも、街に何か用事?」
「いや、街ではなくお前の屋敷に用がある。だから、お前についてお前の屋敷に行くその前に買い物を済ませるなら、共に付き合おうと言っている」
「……ええ!?」
今度こそ、寝耳に水だとばかりに朔海が声を上げる。
しかし魔女様は、有無を言わせぬ笑みを浮かべて言った。
「言っただろう、咲月を我が弟子に取ると。本当なら住み込みで修行させたいところだが、取り敢えずは通いで良い。だが、彼女を一人で表に出すのはまだ不安だろう? しかしだからといってお前が毎度送り迎えに来るのも、色々障りがある。だから有り難くもこの私が、お前の屋敷とこの家を直接繋ぐ通路を開いてやろうと言うのだ、感謝しろ」




