魔女ファティマー・モーガン
カウンターの背後の壁いっぱいにつくりつけられた棚には、大小さまざまな瓶や缶が置かれ、朔海の家で見たそれよりも沢山の種類のハーブや、天然石、香木、その他見ているだけで楽しくなりそうな物が所狭しと並べられている。
カウンターの上には、ボウリングの球より一回り小さいくらいのサイズの水晶玉。
そして――
「ゲココ」と喉をふくふくせわしなく膨らましている、アマガエルが――
「とりあえず、初めまして、だな。私の名はファティマー。英国に古くからある魔女の一族、モーガン一族の末裔だ。ちなみにそいつは私の相棒だよ」
艶やかな長い黒髪の美女は、まるで日本の市松人形のようだが、その面立ちはアジア系のものではなく、欧州系の彫りの深い顔に微笑みを浮かべて立ち上がり、ぐるりとカウンターを回り込んで、咲月の前に立ち、握手を求めるように手を差し出してきた。
「は、はいっ、こちらこそ初めまして、あの、私、咲月と言います。色々と、お心遣いを頂いたようで、ありがとうございました」
黒い髪に、シンプルな黒いワンピース。決して派手な装いではなく、むしろ落ち着いた雰囲気であるはずなのに、何故か妙な迫力がある。
年の頃は、おそらく咲月よりかなり年上なのだろうに、とても若々しい。けれどそんな中にももしかしたら実年齢よりも遥かに落ち着きはらった佇まいをみせる彼女に、咲月は自分も手を差し出しながら頭を下げた。
「何、大したことじゃないさ。可愛い妹分のためならあのくらい、当然だ」
ファティマーは悠然と笑った。
「……ファティマー、そう言うならぜひこれは撤回してくれないか?」
咲月の後ろで、朔海が渋い顔をしながら、ピラリと懐から一枚の紙を取り出し、彼女の前に広げて見せた。
「おや、私としては必要最低限の物だけを選りすぐってやったはずだが? あれが無ければどちらにせよお前が揃えていただろう。それとも女一人迎えるのに万全の用意を整えてやる甲斐性も無いのか?」
「……まさか。まあ実際、確かに助かったしさ。でもファティマーあれは可愛い妹分へのプレゼントじゃないのか?」
「いやいや、こちらも商売なのでね」
ファティマーはにっこり笑って手のひらを上向け朔海に突きつける。――「さあ出せ」と言わんばかりに。
朔海は、ため息を吐きつつ、背負っていたショルダーバックから革製の巾着袋を取り出し、その手の上に乗せた。
飾り気の一切ない無骨な革袋を、ファティマーは顔をしかめて受け取り、すぐにカウンターに置いた。
それが天板に触れた時、ジャリジャリと金属の触れる音が中から聞こえ、同時にかなり重たい音がした。
ファティマーはその中身の一部をつまみ出し、目の前に掲げて眺めた。
日本の五百円玉と同じくらいのサイズの、紛う事なき金貨だが、その刻印に見覚えはない。
表の刻印は、一本の樹木。表には、アルファベットのKに似た文字が刻まれている。
「ふむ、クーナ金貨がひと袋。……だいたい五百枚ってとこかい? アレの代金としちゃあちょっと多すぎやしないか?」
「この間の払いもまだだったからな。ツケにした分の手数料と諸々の礼金も含めての額ならそのくらいが妥当だろう?」
「むしろ少々貰い過ぎのような気もするがな。よし、ならばこれをおまけにつけてやろう」
彼女は、一度カウンターの中へ引っ込み、棚の中程に並んだ引き出しの一つを開けて、艶やかな紫色の小箱を取り出し、朔海に手渡した。
「――例の、約束の品だよ」
そして、ニヤリと楽しそうに微笑む。
「それこそ、我が妹分への贈り物のつもりだったんだがね。やはりそういうものは旦那から直に手渡された方が嬉しいものだろう?」
「だ、旦那……って……」
慌てる朔海に、ファティマーは面白い玩具を見つけたような笑みを浮かべた。
「結婚前提で付き合って、すでに同棲までしてるんだ。そうなるのはもう文字通り時間の問題だろう?」
「ど、どうせ……」
「結婚前の男女が一つ屋根の下に暮らすことを、同棲と言う。まさに今のお前たちの事じゃないか」
「そ、そうだけど……!」
「ああ、実に楽しくデバガメらせて貰った礼にこれもやろう」
彼女はそう言って、朔海の手に一枚の紙切れを押し付けた。
「――この婚約指輪と、いずれ近いうちに仕立てる結婚指輪の、これがそのお代だ」
その書面を見下ろした朔海の表情が、からかわれて情けなさを晒したそれから、一気に真剣なものへと変わる。
「これは――」
「……それじゃあ、早速調査に出向いてもらおうかね。サポート役に私の大鴉を貸そう。ああ、心配するな、お前が出かけている間、彼女は私が丁重に預かりもてなそう。――さあ、行け」
魔女が、パチンと指を鳴らす。
すると、店の裏から放たれた矢のような勢いで飛んできた、大きな黒いものが、朔海の襟首を捕まえて、表の扉を破らんばかりの勢いで体当たりして開けた。
襟首を捕まえられたままの朔海もまたその勢いのまま店の外へ引きずり出される。
「朔海!?」
慌てて後を追いかけるように扉へ駆け寄れば、巨大な猛禽のような真っ黒い鳥が、朔海の襟首を捕まえたまま羽ばたき、空へと連れて行く。
「ごめん、咲月! すぐ戻るから……!」
そう叫ぶ朔海の声が、見る見る間に遠ざかる。
つい呆気にとられたままそれを見送ってしまった咲月がハッと我に返った時にはもう、朔海は空の彼方の点となっており、次の瞬間にはもやの向こうへと消えていた。
「ふぁ、ファティマーさん……!?」
どういう事かと彼女を振り返れば、ふわりと不思議な香りが咲月の鼻をくすぐり、次いで暖かく柔らかいものがそっと触れた。
「――お帰り、我らが一族の娘。我らモリガンの、女神の娘よ」
咲月より、ほんの少しだけ高い背丈の彼女が、その全身を使って、ぎゅっと咲月の体を抱きしめる。
「すまないね。……でも、一度君と二人きりでゆっくり話す時間が欲しくてね。その間、彼には少々お使いに出てもらったんだよ」
そして、咲月の手を引き、店の中に導き入れいると、扉にカーテンを引き、OPENのプレートを裏返し、CLAUSEとしてしまうと、そのまま店の奥へと咲月を招いた。
店の扉をくぐるとすぐにカウンターがあり、その向こうには壁いっぱいの棚と、狭い空間にぎゅっと詰まっている感じがするが、棚で仕切られた店の奥はちょっとした工房のようになっていて、結構な広さがある。
広い作業テーブル。壁に作り付けられた本棚には古めかしい本がずらりと並んでいて、そのさらに奥には階段が、上階へ続くものと、下階――地下へと続くものとが一つずつあった。
ファティマーは先に立って上階へ続く階段を登る。
壁も、階段も、温かみの感じられる木目がそのままの木材で作られており、部屋にはアロマの、しつこすぎない程よく甘い香りが漂う。
階段を登った先には、リビングとダイニングキッチンがあり、パチパチと火の爆ぜる暖炉と、可愛いレースのテーブルクロスのかかった食卓、ソファーと揃いのコーヒーテーブル、使い勝手の良さそうなキッチンが十畳程のスペースに収められていた。
ファティマーは食卓の椅子を一脚引いて、咲月に勧めてくれる。
そして彼女は、コンロにヤカンをかけてお茶を淹れ、お茶請けのケーキと一緒に咲月の前に出した。
「我が一族に代々伝わる秘伝のレシピでもって拵えたフルーツケーキだ。この味だけはあのお坊ちゃんにも真似できないんだよ」
と、得意気に微笑み、ホールケーキをピースに切り分けその内の一つを咲月によこす。
洋酒の香りの漂うケーキは、ドライフルーツやナッツを混ぜたパウンドケーキに似ていた。
勧められるまま、フォークにひとすくい、口に入れると、甘酸っぱいドライフルーツの味と、香ばしいナッツの歯ごたえと、しっとりした生地の程よい甘さ、そして洋酒のほのかな苦味が絶妙で、美味しい。
都心のデパートで売っているようなお洒落なケーキではないが、素朴な味のするケーキだ。
「君の中に、我が一族の血が流れている。それは、もうあのお坊ちゃんに聞いただろう?」
彼女もまた、咲月の向かいに座り、ケーキをつつきながらそう切り出した。
「……はい」
「けど、うちの一族がどんな一族なのか……詳しいことは殆ど聞いていないだろう?」
「古くから続く、魔女の一族だと……」
「――その通り。我らは、まだ英国と名がつく前から続く、魔女の一族。悪魔を召喚し、その知恵と力を借りて大掛かりな魔術を使うような連中とは違う、自然に根付いたものの力を借り、その知恵と恩恵を皆に分け与え、かつては薬師や占者として重宝されていた……女神の末裔だ」




