Lesson - 2
その日から、朝起きて、朝食を終えた後の午前中は朔海から力の使い方について手解きを受け、昼食を挟んだ午後は、午前中の授業の復習と、これまでに得た知識と技術を組み合わせての応用訓練、夕食をいただいた後のアフターファイブは、お茶をしながらのんびり過ごす――という流れで毎日が過ぎていくようになった。
「この間は、使い魔の作り方と、基本の使い方を教えたけど――」
毎日、朔海が新しく教えてくれる、吸血鬼の力の使い方。
「今日は、少し特殊な使い方を教えよう」
毎日、少しずつながら、出来る事が確実に増えていく。確かな力が自分のものになっていくその感覚は、咲月の新たな日々に充実感を与えてくれた。
「うん」
勿論、こうして朔海が教えてくれるものばかりではなく、書庫の蔵書に知識を求め、どんどん試してみたいことが増えていくのもまた、楽しくて。わくわくする、という言葉をこんなに実感できたのは初めてかも知れないとも思う。
朔海が、簡易使い魔のコウモリを四匹、宙に放った。
それを見ていた咲月は首を傾げた。先日彼自身が言った通り、ここまでは基本中の基、すでに咲月も二本足で立って歩くのと同じくらい当たり前に出来るようになっている。
そんな咲月に、朔海はニヤリと少々意地の悪い笑みを浮かべてみせた。
しゅるりと、ポケットから細長いはちまきのような物を取り出し、朔海はそれで目を覆い隠して頭の後ろで布の端を結ぶ。
「さあ、咲月。これまでのおさらいだ。魔術を使って僕を攻撃してみて」
両腕を広げてみせる朔海。
「え……?」
「使い魔を使うのでも、術を組み立てるのでもいい。さあ」
「でも……」
模擬戦――、その意図は分からないではない。一つ一つの知識や技術を身につけても、実践に生かせないのでは意味がない。
しかし、なぜそれで朔海が目隠しをする必要があるのか。
けれど彼はにやにやとやけに余裕たっぷりの笑顔を浮かべて、「さあさあ」と挑発するように両腕を広げて待つ。
「もしかして、自信がない?」
その挑発に咲月は、小刀を手にした。
「――まさか」
言ったな、とばかりに咲月もまた意地の悪い笑みを浮かべた。
「後から文句を言ったって、受け付けないからね」
刃を手のひらに滑らせる。
傷から滴る血が、ひと雫、ほたりと手のひらから離れると同時に、ふわりと羽ばたく。
薄く頼りない羽をひらめかせ、ひらひら舞い上がるのは――蝶。
一匹や二匹ではない。大きな虫取り網を振るっても捕らえきれない数の蝶が、朔海の頭上を群舞する。
そして、それらが羽ばたく事に、キラキラと光るごく細かな粒がふわりふわりと降り注ぐ。
それを、彼は警戒するように、ひょいひょいと避け、ステップを踏む。
――まだ、目隠しをしたまま、視界は塞がれているはずなのに、まるで蝶の姿も、降り注ぐ粉の様子も全て見えているかのよう。
ひょいひょい身軽に逃げ惑う彼に、咲月は痺れを切らし、群舞する蝶の群れの一部を直接彼に向けた。
しかし彼はそれも、危なげなく躱した。
第二陣、第三陣と次々に蝶をけしかけるが、彼はその全てを正確無比なステップで軽快に避けていく。
本当に見えていないのか、疑わしい程に――。
そこで咲月はハッとしたように、先程彼が宙に放ったコウモリを見上げた。
「まさか――」
ふと思いついた可能性を確かめるため、蝶の群れにそのうちの一匹を襲わせる。
「……おっと」
コウモリは慌てて逃れようとするが、多勢に無勢、わさわさと蝶に群がられ、あえなく床へ落とされる。
そして、同時に彼の背後から別の群れをけしかけると、彼はやはりそれも避けたが、若干これまでと比べて足さばきに迷いが出た。
――まるで、塞がれた視界の死角をとられたかのような……。
咲月は、思いつきの可能性に確信を持ち、全てのコウモリの視界を蝶で塞ぐ。
そうして、彼の頭上に再び蝶を舞わせれば、彼は見当違いの方向へ避け、粉の一部を吸い込んだ。
「――!?」
とたん、ふらりと足を折り、朔海は床に膝をついた。
「うわ、体がぴりぴりする……」
朔海は小刻みに震える手で目隠しを解いた。
「いてて、これは……?」
「軽い麻痺毒だよ。前に朔海が、私にしたあれの応用。――うん、これなら……もっと、広範囲に撒けるように練習すれば、遠距離からでも相手の行動を制限できそうだよね」
パチンと指を鳴らして蝶を消すと、朔海もひとつ息を吐き出し、そろそろと立ち上がった。
「タネもバレたみたいだし……」
「うん、あのコウモリだよね?」
「そう、簡易使い魔の使い方としてはかなり難易度の高い技でね。使い魔を己の分身として、感覚を共有する。……さっきのあれは視覚のみ繋げたけれど、他にも聴覚や嗅覚、触覚も共有することができる」
「やり方は……つまり、そう念じればいいんだよね?」
「まあそうなんだけど。一つ、気をつけなきゃいけないのは、どのレベルまで使い魔と感覚をシンクロさせるのか、っていう所をきちんと考えなきゃいけない」
朔海は真面目な顔で言った。
「例えば、触覚を完全にシンクロさせると、痛覚なんかも共有されるから――」
朔海はちらりと先程、彼の使い魔コウモリが落とされて消えたあたりを眺めて言う。
「……シンクロしている時に使い魔が攻撃を受けたら、その痛みも共有されちゃう、って事?」
「他にも、吸血鬼は人間より遥かに優れた聴覚を持っているから、無駄に共有の精度を上げちゃうと、突然大きな音がしたりすると……」
「不都合があるかもしれないから、その時々でスペックを調整しろって言うのね」
「……話が早くて助かるよ」
降参、とばかりに朔海は両手を挙げた。
「それに当然だけど、機能とスペックを積めば積むほど扱いは難しくなる。――使い魔を作るのはもちろん、その後の制御も」
咲月は一度頷いて、小刀を取り出した。
ただ使い魔を作るだけならもう、お手の物だ。慣れた手つきで小刀を操る。
その一方で、慎重に脳裏にイメージを浮かべ、形にしていく。
手を開き、ツバメを一羽、宙に放つ。
――その瞬間、ぐらりと視界が揺らぎ、目眩を覚え、咲月はその場にしゃがみこんで目を閉じた。
しかし、そうして広がるのは、いつもの瞼の裏の暗闇ではなく、何か目の粗い布――ごく薄いガーゼのようなものを通して眺めているような、この部屋の風景だった。
ひどくぼやけて、はっきりしない像――。
ゆっくり目を開けると、視界が上下に二分割されている。
――はっきり線引きされているわけではないが、上は当たり前の、いま咲月が自分の目でとらえている画が像を結び、下にはあの、ぼんやりした像……多分これが、咲月が放った使い魔から送られてきている情報なのだろう画が像を結んでいる。
例えばテレビ画面が二分割されている、というだけでも慣れないと何となく視線が彷徨うのに、そもそもの視界自体が二分割されている、というこれまででは有り得ない視界に加え、あまりに質の悪い画像に、脳の情報処理が追いつかず、頭がくらくらする。
咲月は慌てて放ったツバメを消した。
――すると、視界は元の当たり前のものに戻る。
「分かった。……確かにこれはしっかり練習を重ねてちゃんと慣れないと、とてもじゃないけど使えない」
使い魔を放ってその感覚を共有する、というのは使い魔から送られてくる情報だけではない、本来自分自身で得る情報も合わせて全てを処理しなければならないのだ。
しかし、朔海は先程四匹ものコウモリを放ちながら、危なげなく使いこなしていた。
「――待って、使い魔一匹で視界が二分割……って、四匹も同時に使ったらどうなるの?」
単純に考えれば当然視界は五分割されるのだろう。キャリアがまるで違うとはいえ、やはり流石だと思う。
さっき、咲月の攻撃を食らったのだって、きっと彼が本気を出せば軽くかわせたのだろう事くらい、察している。
何しろ、吸血鬼の身体能力は人間よりはるかに高い。
――この数日で、咲月はそれを自らの身で思い知っている。腕力も脚力も、瞬発力も格段に上がっている。まだ実際に実感できる程に試してはいないが、おそらく持久力も同様に上がっているだろう。
この広い部屋の端から端まで、全力で駆ければ一秒かからない。
彼は咲月の練習相手として合わせてくれているのだ。
それが、ほんの少しだけ、悔しい。
別に彼と本気で戦いたいというのではないのだが、真剣に、いつか本気の手合わせをしてみたいと思う。 戦場で刃を交わし命のやり取りをするようなそれではなく、真剣勝負の試合のように――。
「オーケー、今日の午後はこれに集中することにする」
色んな術の組み合わせや、各種応用の練習もしたいけれど、これは他と同時にやれるようなものではないと判断した咲月は宣言した。
「じゃあ、お昼にしようか?」
そんな咲月に朔海は楽しそうに笑いながら提案した。
「今日のランチは炒飯とワンタンスープだよ」
――この家へ来て以来、日に三度の食事と、日に数回のお茶の支度をするのは完全に彼の仕事になっていた。……いや、ここは元々彼の家だし、彼の趣味を思えばある意味当然の流れと言えよう。
しかし……「男の心を掴むならまずは胃袋から」という至言をどこかで聞いた覚えのある咲月は、むしろ自分の方が舌も胃も心も彼にがっちり掴まれてしまっている気がしてならなかった。




