主従の契り
朔海は、部屋の中程まで歩を進める。
そこでふと、足を止める。そして、何の前触れもなく、朔海は手にしていた小刀で手のひらを派手に切り裂いた。
手のひらに深々と刻まれた赤い筋をギュッと握り締め、そして再び開いた手のひらの中から、ざわざわと数十匹の血色のコウモリが飛び立った。
「――わっ!?」
鳥の羽音より軽い音を立てながら、沢山のコウモリが部屋の中を飛び回る。
朔海が、己の血を用いて作った使い魔――。
この術を彼が使うのを、咲月も幾度か目にした事があった。
「それじゃあまずは基本の基、血の魔力を意志の力でコントロールするところから始めようか――?」
そう言った朔海の声。それを――
「ちょぉぉっと待ったぁぁ!!」
甲高い声が遮った。
「その前に、姫様、俺と……!」
しゅるりと、朔海の腕輪のムーンストーンから一頭身がテニスボール大の3等身の人影がむくむくと姿を現した。
以前見た時より随分と大きくなった彼は、まるで古代ローマの武官の様な衣装を身に纏っている。
「主従の契の儀式を……!」
下半身は二本足ではなく、まるで絵に書いたお化けのような尾っぽを、ムーンストーンから伸ばして、彼は咲月の腕に縋り付いた。
そして、キッと相変わらず真ん丸な目をつり上げ、朔海を潤んだ瞳で睨みつけた。
「……お前、ここへ姫様を連れ込んでからこっち、俺の事、綺麗さっぱり忘れていただろう!」
ぴしりと人差し指を突きつけ、彼――ムーンストーンに宿る精霊、潮は小さな牙を剥いた。
「え……っ、と……、そ、そんな事は……」
うろうろと視線をさ迷わせながら、朔海はそろそろと彼から目をそらした。
「――ない、と言うならまず、俺の目を見て言え!」
びしびしと、遠慮なく人差し指を突きつけてくる彼に、朔海はゆっくり視線を戻し……
「……すみません、忘れてました」
がくりと項垂れた。
「いやっ、でも、完全に忘れてたわけじゃないよ? ちょっと色々立て込んでたから、ちょっとすっぽり抜け落ちてただけで……!」
その後で必死に釈明する。
「ほう、立て込んでいたから、とな? ……本当にそうか? 姫様と二人っきりだと思って浮かれて調子に乗っていたんじゃないのか?」
「うっ……」
しかし、ぴしりと指摘され、朔海はあえなく言葉を詰まらせた。
「ふん。とにかく、まずは主従の契の儀式が先だ。……言っただろう、俺が手伝う、と」
彼は、腕を組んで胸をそらすお得意のポーズで言う。
「さあ、手を出せ。非常に不本意だが、お前も俺の主だ。今ここで、主従の契を俺と交わせ」
彼は、下半身の尾を朔海の手首にある腕輪のムーンストーンにくっつけたまま、朔海の目の前にぷかぷか浮かびながら、うやうやしく左手を差し出した。
上手に差し出された手に、朔海は反射的に自らの手を重ねた。
まだ、大人と子どもの手くらい大きさに差があるため、指の先をちょこんと彼の手のひらに預けたような格好だが――
「さあ、誓え。俺の主として、一つ。何でもいい、一つ誓いを立てろ。……その誓いを守り続ける限り、お前は俺の主だ」
キッと、潮はまっすぐ朔海の瞳を射抜いた。
「誓い――」
「そうだ。何か一つ、一生の誓いを、俺に捧げろ」
「なら――」
朔海は、ほんの一瞬逡巡しただけで、すぐに頷いた。
「君の“姫様”は、僕にとっても失えない存在だからね。この命ある限り、全力で彼女を守ると誓うよ」
胸に握った拳を当て、朔海は事も無げに言った。
「一生の誓いだなんて言われたら、僕にはこれしか思いつかない」
その誓いに、潮は砂でも吐きそうな顔をする。
「……くそ、俺は、お前のそういうところが――」
小さく呟き、潮は大きなため息を一つこぼしてから、じろりと半眼で朔海を見上げた。
「まあ、いい。誓約は、なされた。……受け取れ、契約の証を」
潮は、片眉をつり上げ、眉間にしわを寄せつつも目を閉じ、重ねられた朔海の手の甲にちゅっと軽い口づけを落とした。
ふわりと、暖かいものがそこを中心に広がり、淡い光が手の甲から手首へ広がり、ぐるりと一周取り巻く。
間違って不味い物でも食べたような渋面を浮かべながら、潮はぺいっと朔海の手を放り捨てた。
解放された手を見下ろせば、ぐるりと左手首を一周取り巻く月桂樹の枝葉模様が、タトゥーの様に刻まれている。さらにそこから手の甲へと伸びた枝の先には花と、月が――
「これは……」
しかし、それについて尋ねようと朔海が口を開こうとした時、ふっとその黒っぽい線が肌に染み込んでいくように薄くなり、やがて消える。
「これは――」
「それが、契約の印だ。それを通して、俺はお前から力を得る。そして、それを通してお前は俺の力を使える。俺と、お前の絆の証だ」
そして朔海に背を向け、咲月に向き直る。
「――姫様」
そして、咲月の前で殊勝に頭を下げた。
「姫様、どうか、俺に、誓いをお捧げ下さい。そして、俺との契約の証を、お受け取り下さい。俺は、その契約の印を通じて、姫様のお力のコントロールをお助けすることができます」
朔海は、そんな小さな小姑に苦笑を浮かべる。
「……もちろん、お前の魔力のコントロールを助けてやることもできる」
それを、ほんの少しだけ不満そうな顔をしながら、見返す。
「俺を通して、お前と姫様の力は、繋がる。いざとなったら、姫様のお力を、お前に渡すことも可能になる」
もちろん、その逆も可能だが、今のところそれはあまり現実的ではない。
「お前は、俺に姫様を守ると誓った。その誓い通り、お前はいつでもその覚悟をしておけよ」
いざという時、咲月の分を含め二人分の魔力を負ってもそれを制御し、耐えきる、その覚悟を――。
朔海は、改めて姿勢を正して肯いた。
「だったら、私は……」
咲月は、潮の小さな手を取り、彼の前に膝をついた。
「今の私にはまだ、朔海みたいに“守る”ってはっきり言えるだけの力はないから……。だけど、これだけは約束できるから」
今朝、目覚めた時から手にれた新しい自分。
ちらりと、朔海に視線を流して、咲月は彼の小さな手に自分の手を預ける。
「この先、どんな事があっても。私は朔海と居る。何があっても、私は朔海を信じる」
潮は、再び悔しげな顔を浮かべる。それでも潮は、ほんの少しだけ、薄く笑う。
「――承知いたしました、姫様。……では、俺の印を、受け取ってくださいますか?」
「うん、もちろん。……これから、よろしくね」
「はい……っ」
彼は嬉しそうに尻尾を振りながら、咲月の手の甲に口づけを落とした。朔海の時と同じように、淡い光と共にタトゥーの様な、朔海のそれと同じ模様が浮かび、そして消える。
「姫様、これで俺は正式に、姫様の守護精霊となれました。この先、姫様がこの世にある限り、俺は姫様の守護精霊でございます。姫さまのお力が、俺の力。そして、俺の力は姫さまのお力――」
潮は咲月の手を取ったまま、きらきら輝く瞳で咲月を見上げる。
「姫様、どうか恐れずに、力をお使いください。俺を信じて、思いっきり力を使ってください」
潮が、朔海に目配せする。
「じゃあ、改めて始めようか。力のコントロールの、練習を――」




