吸血鬼のマイホーム
相変わらず、小憎らしいほど美味な食事を終えた咲月は、前を行く朔海の背を追うように歩きながら、そろそろそうしていることすら一々気にしていられなくなるほど何度も息を飲んだ。
「案内するから」と言われ、一階の食堂を出発地点に据え、一通り屋敷の中を歩いた。
食堂を出てすぐの玄関ホール左手の扉の向こうは応接室。
「この屋敷に移って以来、本来の用途で使ったのはほんの数回だけどね」
そして、ホール右手の扉の奥は先ほどのキッチンになっている。
風呂場へ行くのに使った階段とは別にもうひとつ、キッチンスペースに設けられた地下への階段を下りていくと、いくつも並ぶ棚や冷蔵庫の中に詰め込まれた沢山の食材――缶詰、瓶詰め、酒類、野菜、保存食が豊富に取り揃えられていた。
「生鮮食品なんかは週一ペースで市場に行くけど……」
ここは、異世界だ。人間界の――それも平和ボケした日本の様な平穏は望めない。もしもの場合の備えは重要だ。
そして、一階に戻りさらに階段を上がって二階に上がってすぐ左手の扉を開ける。
「ここが、僕の部屋だ」
とてもシンプルに、ベッドとソファ、収納が配置された部屋。
部屋の奥に二つ扉が並ぶのは、どうやら手洗いとシャワールームらしい。
そして左に向けていた視線を戻し、階段を上がってすぐの突き当りの扉を開ける。
ここまで、どの部屋も明るく、暗いと感じることはなかったが、この部屋の明るさは他とは別格だった。
そこそこ広い部屋の中に、入れ子のようにもうひとつ、部屋がある。
四方がガラス張りになった部屋の中には、洗濯物を干す物干し台と、ガーデン用のテーブルセットが置かれ、その天井から燦々と光が降り注いでいた。
見上げてみれば、天井には天窓が取り付けられていた。――その天窓も、頑丈そうな格子でがっちり保護されているが、それでも、窓の極端に少ないこの屋敷の中でこの部屋の光量は格段に多い。
「……普段の生活に光は必要ないし、安全を考えるなら窓はない方がいい。けど、やっぱりたまには明るい場所で過ごしたい時もあるし、何より洗濯物を乾かそうと思ったら……やっぱり光は欠かせないから」
その為の、サンルームなのだと言う。
そして下にホールが覗ける吹き抜けの回廊を歩いて次の左手の部屋が、今咲月が使っている客間である。さらに進んだ突き当り、朔海の部屋の扉のちょうど真向かいに設けられたその向こうは――。
「ここを、咲月に使ってもらおうと思ってる……けど、家具を買いに外へ出られるようになるまでもうしばらくは、隣の客間を使ってもらう事になる」
回廊はさらに右に折れ、突き当りの壁まで続いている。
咲月の部屋になる予定の空き部屋の隣の部屋は、壁一面に取り付けられた棚いっぱいに本が並んでいた。壁面だけではない。人一人通るだけのスペースだけ開けて所狭しと詰め込まれた本棚いっぱいに並べられた本、本、本――。
その殆どが、咲月の見たことのない文字で綴られていたが、よく見てみれば見覚えのある背表紙がちらほら見受けられた。
「ここが、書庫。ここの本の大半が、魔術に関する資料だ」
そう、豊生神宮に居た頃、晃希に読むよう言われたあの本の山にあったのと同じ本が確かにある。
来た道を一度戻り、二階の回廊から一階に降り、さらに階段を下って地下へ降りる。
降りてすぐの扉はもちろん大浴場だと、もう咲月も知っている。
朔海もその前をスルーし、その左隣の扉を開けた。
少しだけ埃っぽいそこには、雑然と物が積み上げられていた。
「……まあ、見ての通りの物置なんだけど」
だが、何だろう? 奥でやけにうるさい音がする。
「発電機とか、ガスボンベとかもここに置いてあるから……、ここは火気厳禁ね」
「ガスボンベ、家の中に置いてるの!?」
普通、そういうものは、屋外に置くものではないのか?
「うん。……ここではこういうものは屋外に置く方が危ないんだ」
誰でも手を触れられる場所に、こういう危険物を置くのは、良くない。
そして最後に、朔海は風呂場の右隣、階段を下りて右側、廊下の突き当りにもう一つある扉を開く。
その、扉の向こうに広がるのは。
「これ、ここは……」
ただただ、広いだけの、何もない空間。
床や、壁面に使われている建材は、あの葉月の家の地下室のそれと酷似していた。
しかし、その広さはあそこより遥かに広いと思われた。
「……ここが、訓練室だ」
朔海は一言、簡潔にそう説明した。
「――訓練室」
「そう。主に魔術の研究と、訓練をするための部屋さ」
地下室だから、当然窓は一つもない。
床も、四方の壁も、天井も、濃い黒色の石材で造られている。
少し広めの家のワンフロアが丸々収まりそうな広さのある空間には、どんな家具もなく、装飾も皆無で、ただ無骨なばかりの石壁があるだけだ。
「この部屋の石材は特注品でね。――全部、魔石を砕いて混ぜて固めた石を使っているんだ」
床に膝をつき、石造りの古風なモザイクをそっと手でなぞりながら、朔海は言う。
「だから、ちょっとやそっとじゃ壊れないし、例え汚れや傷がついても、自己修復してくれるんだ」
そして、朔海は改めて咲月に向き直った。
「今、まだ暫くは外へ出なくてもいいように、ある程度備えてあるから、問題はないけれど。いずれは食料や細々した物を買い足しに行かなきゃならない」
咲月は、朔海の言いたいことを察し、頷いた。
「……でも、今のままじゃ私が外に出るのは危ないんだよね。力の使い方を知らないから」
「そう、だからまずは基本的な事だけでいい。吸血鬼の力の使い方を知って、覚えて欲しい」
朔海は、ズボンのポケットを探り、いつもの小刀を――二本、取り出した。
そのうちの一方、明らかに片方より新品だと分かる方を咲月に差し出した。
「――これを」
よく見ると、かつて手にしたことのある朔海のそれより若干細身で、施された装飾もより繊細で華やかで、持った感じも随分と軽く感じる。
そろりと鞘から刀身を抜いてみれば、鈍色に輝くの鋭い刃の背の部分にも細かな装飾が彫り込まれている。
「咲月用に用意したものだ。……受け取ってもらえるかな?」
ほんの少し、不安と緊張を孕んだ目で、朔海は咲月の瞳を覗き込んだ。
吸血鬼の力の使い方に関して、咲月は確かに自らの経験としてはまだ知らない。
しかし、朔海が力を使う様子を何度も見てきた咲月は、その方法なら既に知っている。
それは、吸血鬼の力を振るうためには欠かせない小道具だ。
――自らを傷つけるための刃。
正常な人間の本能は、自傷行為を厭う。
けれど咲月は、吸血鬼である朔海と付き合う覚悟を決めた時、彼のその行為をも受け入れる覚悟も決めた。
そして自らも吸血鬼となった今、今度は自分自身のその行為を受け入れる覚悟をしなければならないのだ。
咲月は試すように、刃に指の腹を押し当てた。
――研ぎ澄まされた切れ味の良い刃は、それだけで咲月の肌を易々と切り裂いた。
だが、その痛みを咲月の脳が認識するより早く、ささやかな傷は次の瞬間には跡形もなく消失する。
これは、吸血鬼としての驚異的な治癒能力が活躍したのだろう。
咲月は、刀身を汚した血を指で拭い、パチンと鞘に刃を納めて頷いた。
「――うん。ありがとう、朔海」
そして、咲月は改めて朔海に頭を下げた。
「教えて。力の、使い方を――」




