吸血鬼のブランチ
咲月は、目の前の光景に思わず目を見張った。
――この屋敷に来て、果たして何度目だろう、こうして思わず息を呑んだのは。
(……さすが、って言うべき?)
彼の趣味が料理である、という事はとうに知っていた。そして、彼の料理の腕前も、嫌というほど思い知っていた。ここは、彼の自宅だ。そんな彼の“城”たるそこは、相応に整えられているのだろう、くらいには思っていた。
だが、残念ながらその“相応”のレベルが、咲月の想像をはるかに超えていた。
学校の、家庭科室で一班ずつ使うことを想定して造られた調理台三つ分の広さはあろうかという調理台。そこに据えられた、業務用のガスコンロにフライヤー、オーブン。
大型の冷蔵庫、冷凍庫も完全に業務用のものが揃えられている。
最新の食器洗浄機、乾燥機も完備されている。
その一方で、IHクッキングヒーターや電子レンジ、炊飯ジャーや湯沸かしポットもある。
調理台の中央に据えられた棚には大から小まで様々なサイズのボウルやザル、計量の道具、他ありとあらゆる調理器具が揃えられている。
壁一面に造られた棚には凄まじい数のハーブやスパイスや調味料が詰まった小瓶が並んでいる。
他にも、乾物を詰めたタッパーや、漬物などの食材を詰めた樽、とにかくどう考えても一般家庭の台所とは思えない超本格的な調理場を前に、咲月は思わず立ち竦んだ。
ブランチなんて、パンと卵があれば充分――。と、そう思っていたけれど。
こんな立派な台所で、食パンをトーストして、目玉焼きを作るだけだなんて、咲月の感覚からすると、わざわざ黒塗りベンツで近所のコンビニへ出かけるような気まずさを感じてしまう。
一眠りしてスッキリしたらしい朔海は、当然の如く慣れた様子でボウルで小麦、砂糖、牛乳と卵を混ぜ合わせたタネをフライパンに落とし、手際よくパンケーキを焼いていく。
その隣の鍋でソーセージとベーコンをボイルしながら、フライヤーにハッシュドポテトのタネを放り込む。
その手際の良さは、咲月が下手に手出しする隙もない。
咲月は、大人しくカウンターの椅子に腰をかけ、彼の作業を眺めながら待つことにして、ふんわり漂ってくる食欲をそそる香りを楽しみながら、改めて食堂を見回した。
燭台は、他の場所同様まだ片付けられず残っているが、火のついた蝋燭はひとつもない。
それでも、部屋は明るい。
――と、そこでふと思い至る。
「あれ、ここって……電気、通ってるの?」
ふとすると、ここが異界だとつい忘れてしまいそうになる中、うっかりスルーしてしまっていたけれど。
キッチンに据えられた業務用の冷蔵庫、メーカーは違えど、ああいうものを咲月はほんの一月足らず勤務していたパン屋やアイスクリーム屋で見たことがあった。
それに、炊飯器やら電子レンジやら、湯沸かしポットやら、一般家庭にあって当たり前も同然の家電だったから、つい同じように当たり前に見逃してしまったけれど。
「いや、この世界には水道も、ガスも、当然電気も通ってない。全部自前だよ」
朔海は、皿に盛った料理をカウンターに並べながら、咲月の問いに答えた。
「電気は、ちょっと改造して術式を組み込んで、魔力で動くようにした発電機で作ってる。水は地下水を汲み上げて、ガスは市場でプロパンガスを買ってる」
調理に使った道具を片付け、朔海は食卓へとカウンターに並べた皿を運ぶ。
慌ててそれを手伝う咲月の前で、朔海は食堂に置かれた食器棚の脇の小さな冷蔵庫を開けた。
こちらは調理場で見たような業務用のそれではなく、普通の家庭用の、小型の冷蔵庫だ。
その中から取り出したものを、朔海は食卓の上に置いた。
見覚えのある、赤黒い液体の詰まったパックだ。
「……これを。まずは食事の前に飲んでおいた方が良いと思うから」
輸血用の血液パックに、大きくAと書かれたそれを、朔海は咲月の方へとそろそろ差し出す。
「今はまだ、自覚はないかもしれないけど、この数日でかなりの体力を消耗しているはずだから。補給はしておいた方がいい」
そう言って、自らもパックを手に取る。朔海は、ナイフで口を切り、口に咥えると、一度咲月の方へ押しやったそれの口も切って再び咲月に差し出した。
「……美味しいものじゃないけど」
いつかのように、眉間にしわを寄せつつ中身を吸い出し、飲み込み、少し苦い笑みを浮かべる。
彼からそれを受け取り、咲月はじっと眺めた後、こくりと口の中の唾液を飲み下した。
儀式のため、朔海の血は既に口にしたけれど、彼以外のーー人間の血を口にするのはこれが初めてだ。
そろそろと開封されたそこに口をつけ、一息に中身を吸い出す。
焼きたてのパンや、炊きたてのご飯のようにも感じた朔海の血に比べ数段劣る――一晩置いて固まったパンや冷や飯のような味。
嘔吐きそうな程ではないが、あまり美味ではない――そう一瞬思いかけたところで、びりりと舌に強烈な苦味を感じた。
例えばニガウリのような自然な苦味ではなく、薬っぽい苦味。
反射的に吐き出したくなるのを寸前で堪え、咲月は思わず目に生理的な涙を浮かべた。
それは、幼い子どもなら吐き出してしまって当然だろうと思えるほど不味かった。
よくぞあの子――瑠羽はこれを全部飲みきったものだと、改めて感心してしまう。
何とか全て飲みきると、朔海が水の入ったコップを咲月に差し出した。
有り難くそれを受け取り、口の中に残った嫌な味を濯ぐべく、一口含み、飲み込んだ。
「これは……、本当に美味しくない……っていうかすっごい不味い……」
朔海は苦笑いを浮かべながら、湯気の立つ紅茶のカップをソーサーごと咲月の前に差し出す。
彼の手にも、空になったパックが握られている。
「あ……」
人間の血を必要とする朔海に、咲月はこの間まで血を提供していたけれど――。
「そっか、私が吸血鬼になったから、もう私の血は……」
もう、意味をなさないのだろうか……?
「いや、一時的な補給や緊急時の応急処置としてなら、こんな物より遥かに有効だよ、今でも」
しかし朔海はゆるく首を左右に振った。
「だけど、吸血鬼として人間の血を欠かす事はできない」
だから、咲月が吸血鬼になってしまった今、どうしても定期的にこれで血を補給する必要がある。
「平常時なら週に一度で充分足りる。でも、極端に魔力を消費したり、酷い傷を負ったりした時には必ず補給しないと、大変なことになる」
そのどちらの場合も、咲月は実際に見て知っていたから、黙って頷く。
――味はともかく、血液を摂取した事で、明らかに身体に力が満ちていく感覚を覚えていたから。
「さあ、冷めないうちに食べよう。……食事を終えたら、改めて家の中を案内するよ」
朔海はふうふうとしっかり息を吹きかけてから、ティーカップにそろそろと口をつけた。




