新たな生の始まり
部屋は再び明るさを取り戻し、景色に色が戻ってきていた。
――身体を起こす。……骨も筋肉も、関節も痛まない。
ぐん、と、大きく伸びをする。
頭痛も消えた。吐き気もないし、他の内蔵にも不調はなさそうだ。
咲月はいそいそとベッドの端から足を床へ下ろし、腰掛けてみる。
熱っぽさももう感じないし、冷えも感じない。だるさや疲労感もない。
下ろした足にゆっくり体重を預け、立ち上がる。
めまいや立ちくらみもない――どころか、嘘のように身体が軽い。
足に体重を感じない。……いや、勿論全く感じないわけではない。だが、まるでこれまでは身体の各所に重りでもつけていたんじゃないかと思いたくなるくらい、身体が軽く感じるのだ。
そして――口内に感じる、違和感。
舌先に触れる、覚えのない感触。上あごの犬歯が鋭い牙へとその形状を変えていた。
朔海は――ソファに横になり、よく眠っている。
さすがに連日の看病で疲れているのだろう、こうして見ていても起きる気配はない。
(でも……)
体調はすこぶる良いが、昨日今日でかいた汗をたっぷり吸った服が湿って重く、気持ち悪い。
そういえば、ここ3日ばかりは用を足しに起きるのが精一杯で、シャワーも浴びていない。
(お風呂……入りたい……)
シャワーを浴びてさっぱりして、存分に手足を伸ばしてゆっくり湯船に浸かり、新しい服に着替えたい。
思い立ったら、その誘惑に抗えず、咲月は申し訳なく思いながら、朔海をゆすり、声をかけて起こす。
朔海は、眠そうな目をしょぼしょぼさせながら薄目を開けて咲月の顔を仰ぎ見た。
「ん……、咲月……?」
名を呼ばれ、少しの間が空いた。
しばしの間を置いて、朔海が慌てて起き上がった。
「咲月……、体の具合はどう? どこか痛いとか、だるいとか、おかしなところはない?」
「うん、もうどこも痛まないし、体調はすごく良い」
ソファに腰掛けたままこちらを見上げながら、朔海はホッとしたように微笑んだ。
「具合が悪いどころか身体が嘘みたいに軽い。それに――」
ぐるりともう一度部屋を見回してみる。
「この間朔海が言っていたこと、確かに納得できた」
そして、改めて朔海と視線を合わせて尋ねた。
「朔海、私はもう、吸血鬼になったんだよね? 本当に、朔海と同じ物を見られるようになったんだよね……?」
朔海は座ったまま手を伸ばし、咲月の手を取った。眩しい物を見るように目を細めながら、朔海は嬉しそうに笑う。
「ああ、咲月はもう、僕たちの同胞、正真正銘、吸血鬼だ」
「――うん」
咲月はもう、人間ではない。朔海と同じ、吸血鬼になったのだ。
「それで……ね、あの……お風呂、入りたいんだけど……」
この部屋にも、シャワールームはあるけれど。やっぱり、広い湯船で手足を伸ばしたかった。
「ああ、うん。いいよ。でも、屋敷の外には絶対に出ないようにね。僕は……ごめん、もう少し休んだら、ご飯の支度するから……」
そういう朔海の顔は、やはり眠そうで。
「……疲れてるんでしょう? こんな場所じゃなくて、一度ちゃんと寝たほうが良いよ」
昨日、一昨日と、喉の渇きに耐え切れず、昼となく夜となく、何度も目を覚ましては水を求め、朔海に世話を焼かせたし、その前だって……。
いくら人間より体力があるとはいえ、無限ではない。疲れるのも当然だ。
「まだ朝も早いし、今日は朝昼一緒にしてブランチにしちゃえばいいじゃない。私も、ゆっくりお風呂楽しみたいし、お風呂上がりは少し休みたいし、急ぐことはないでしょう?」
「……まあ、そうだけど。……うん、そうだね。じゃあ、お言葉に甘えようかな」
朔海はようやくソファから立ち上がる。
「じゃあちょっと、昼前まで部屋で寝てくる。……でも、くれぐれも屋敷の外には出ないで」
もう一度、念押しする朔海の言葉に、咲月は彼の言葉を思いだす。
――決して診療所へ来てはいけませんよ?
と、彼の家へ引き取られてすぐの頃、毎日のように言われていた台詞。
その理由は、彼自身の正体にあった。彼――葉月は半分吸血鬼の血を引く半吸血鬼で、彼の診る患者の殆どが人外の存在だったから。
でも、当時まだ彼らの秘密を知らなかった咲月には、その本当の理由は知らされなかった。
「ここは、次元の狭間。魔界と違って派手な争いは禁じられているけれど、特殊な力を持った人間や人外の存在が多く行き交う場所でもある。咲月も吸血鬼になって力は得たけれど、まだ力の使い方を知らない。きちんと力の使い方を覚えるまでは危ないから――」
彼らの同族となった今、朔海は全てきちんと説明してくれる。
「この屋敷には、僕の許可を得た者以外は入れない結界を張ってある。屋敷の中に居る限りは安全だから」
納得のいく説明を聞いて、咲月は素直に頷いた。
「分かった。絶対に外には出ない」
口に出して誓い、咲月は一週間ぶりに部屋を出た。
既に部屋の中でも感じていたことだが、やはり吹き抜けになった玄関ホールを見下ろせる広々とした回廊の風景の違いに、咲月は驚く。
付け焼刃の燭台はまだ残っているけれど、そのどれも火は灯っていない。
なのに、見渡す限り明るく、色に満ちた景色が広がる。燦々と降り注ぐ陽光の光の明るさではない。どちらかといえば蛍光灯で照らしたような明るさ。
朔海は、階段のある方へ足を向け、歩き出す。咲月も、用があるのは階下の風呂場だ。そのすぐ後ろについて歩く。
その廊下の突き当りで、朔海は足を止めた。
「じゃあ、悪いけど……」
階段横の扉を押し開けながら、朔海はこちらを振り返った。
「しばらく休ませてもらうね」
どうやらここが朔海の自室らしい。
「気にしないでいいって。じゃあ、お休み」
咲月は一人、階段を降り、風呂場の扉を開けた。
ここは、地下だ。当然だが小窓の一つもないというのに……
「なのに……明るいんだ」
上の階に比べれば、若干薄暗いような気もするが、せいぜい蛍光灯から電球に変わったくらいの差だ。風呂に入るのに困らない十分な明るさがある。
あの日と同じように服を脱ぎ、あの日と同じようにタオル一枚持って、咲月は浴場へ足を踏み入れた。
あの日と同じように温泉旅館のパンフレットの写真に載っていそうな大浴場が咲月の目の前に広がり、大人が4、5人手足を存分に伸ばしてくつろいでもまだ余裕がありそうな湯船に、絶え間なく湯を注ぐ給湯口。湯船の淵からは湯は絶え間なく溢れ出ている。
だが、あの日と大きく違う事が一つだけ。ここもまた、明るいのだ。脱衣所と同じく、ここも地下であるのに。
そして、あの日と同じようにまず洗い場でシャワーを浴びようとした咲月は、もう一つの大きな変化に気づき、目を見開いた。
「傷が……無い!?」
一週間前までは確かにあった、……いや、確か3日前にシャワーを浴びた時にも確かあったと思われる幾つもの傷跡が、綺麗さっぱり消えている。
たった3日の間に、数年分の傷跡が一つ残らず跡形もなく消え、鏡の中に映るのは、何もないただ綺麗なだけの肌だけ。
腹、胸、背中、腕、脚――。慌てて全身くまなく見ても、確かにあった傷跡の全てが消え失せている。
これまで、咲月は人前で肌を顕にする事をずっと躊躇ってきた。
肌に残る醜い傷痕を見られたくないのと、それを見た人々の反応を見たくなくて、温泉や銭湯はもちろん、プールや海で水着姿になるのすら嫌だったのに。
その躊躇いの理由がすべて消え去った。
(これも、吸血鬼になったから――?)
だとするならば。
咲月を縛める忌まわしい過去から今、解き放たれたという事で。
過去を捨て、まっさらな状態から新しい一歩を踏み出せる。
咲月は、改めて喜びを噛み締め、歓喜に身体を震わせた。
吸血鬼になった今、咲月はもう、人間に戻ることは出来なくなった。
『王族認証の儀』だとか、未来の不安はたくさんある。
でも、人間に戻れない、という事実に対してはなんの感慨も沸かない。
この選択が正しかったと、疑いもなく信じられる。
この新しい未来を与えてくれたのも、全ては朔海が居てくれたから。
「頑張ろう、朔海のためにも――」
どんなに辛く困難な事だろうと、彼の為だと言うなら耐えられる。
今なら、疑いもなくそう確信できる。
「絶対に、認めさせてみせる……!」




