五日目
髑髏、王冠、剣、竜、薔薇――。それらのモチーフが配された紋章。
「これは、王家の紋章。人の貴族の真似事だけどね、力ある一族はそれぞれ家紋を持っている。けど、人間のようにそれを印の代わりに使ったりはしない。単に自らの出自と力を誇示する為のものだから、例えば衣服や持ち物の意匠として使う事が殆どなんだけど……」
一つ、ため息を漏らし、朔海は痛みを堪えるような苦しげな表情を浮かべて言った。
「これも、ある意味その為に刻まれるものだ。王家に生まれた者は、この世に生を受けた年から百年の間に、その儀式を受けることを義務付けられている。……僕は、50歳でその儀式を受けた」
50、と聞くと、人間界の常識に慣れた頭は即座に中年男のイメージを浮かべそうになるが、彼は現在御年300歳の吸血鬼、人間の1年分成長するのに20年かかる彼らの50歳は人間で言えばほんの2〜3歳、まだ幼児の域である。
「とにかく、魔界は力が全ての場所だ。ただ、王の子として生まれただけでは王族として認められない。だから、王族と名乗るに足る器を示さなければならない。その為の儀式が、『王族認証の儀』。」
この紋章を肌に刻むのが『王族認証の儀』で、それは王族と名乗るに足る器だと示す為のもの。
「でも、逆を言えば王族を名乗るに相応しくない、力の足りない者をふるい落とすための儀式でもある。――実際、この儀式で僕の腹違いの弟や妹が幾人も亡くなってる」
朔海は、力むことなく疲れたように悔しげな表情を浮かべて苦く微笑んだ。
「儀式そのものは、簡単に済むんだ。それこそ、あっという間にね」
苦笑を深め、朔海は言った。
「真っ赤に焼けた銀の塊を肌に押し当てる、ただ、それだけ」
「――っ」
咲月は咄嗟に口にすべき言葉に迷い、息を飲んだ。
朔海は随分と軽く言ってくれたけれど、熱した金属になど触れれば当然火傷を負う。
熱した金属の判で、文字や模様を焼き付ける――本来は木材や食べ物に使用するものだが、一部家畜等にも施されるそれは、焼き印と呼ばれる。
わざと肌を焼いて、その痕を残すのだから、当然激痛を伴う。それはもう拷問以外の何ものでもない。
……しかし。人間であれば大きな火傷を負えば痕が残るのが当然で、治療を施さない限りそれは一生残る。――が、朔海は吸血鬼である。吸血鬼の治癒能力は凄まじく、その程度の火傷なら痕も残さず治癒出来るのではないだろうか?
「僕たち吸血鬼の最大の弱点はね、銀なんだ」
その咲月の疑問に答えるように、朔海は続けた。
「吸血鬼の、というよりは悪魔の弱点って言うべきかもしれないけれどね。――銀は、僕たちが持つ悪魔由来の魔力を完全に無効化してしまうんだ」
吸血鬼が驚異的な身体能力を持つのも、優れた治癒能力を持つのも、全ては悪魔から借り受けた魔力の恩恵があるからこそ。――それを失うという事は。
「例えば銀に素手で触れても、それだけで火傷を負ったりどうにかなることはない。でも、銀の効力で触れたところから魔力が絶たれ、普通の人間程度の力しか使えなくなる。――そして、銀によって負った傷も、いつものようには回復できなくなる。……指先を少し切ったとかそのくらいなら、人間同様、数日で治るけれど――」
もしも大怪我を負ってしまえば、人間同様、命を落とす可能性が出てくる。
「何より、何かの拍子に銀が体内に入って血に混じると、銀と魔力が互いに有害物として反発し合って、酷い拒絶反応が起こる。――症状の出方はだいぶ個人差があるんだけど、例えば発狂したり、場合によっては死に至ることもある」
儀式用のの印章に使われているのは銀。
吸血鬼の治癒能力を無効化するそれで刻んだ印は、常のように治癒せず、一生残る傷となる――だけでなく、火傷の傷口から銀の成分が体内へ入り込み、その拒絶反応に苦しむ事になる。
――まさにそれが、この儀式の狙いなのだ。
「苦痛に耐え、無事生還した者のみが、王族を名乗る事を許される」
そして、辛そうな顔で咲月を見下ろす。
「そして、この儀式は王族と縁を結ぶ者にも義務付けられている。……王子である僕と婚姻を結べば、咲月も王族の一員と見なされる。つまり――」
言いよどんだ朔海の台詞の続きは、容易に想像がついた。
そう遠くない未来、咲月もまたその苦痛を受け入れなければならないのだと。
だが、それだけで済まないだろうと、以前朔海から聞かされている。
望んだ彼との幸せな未来の手前に立ちはだかる、厳しい現実の壁。
見上げればどこまでも高く、左右にどこまでも伸び、見るからに頑丈そうなそれに、つい怯みそうになるけれど。
――でも。
咲月は手にしたカップを見下ろしてみる。
――もう、咲月は選んだのだ。
咲月はカップを傾け、一口、それを飲み下す。
――もう、決して引き返せない道を選び、既に歩き始めた以上は進むしかない。
さらに、もう一口。
「大丈夫だよ」
咲月はそうはっきりと口にした。
「大丈夫。痛いのも、苦しいのも、辛いのも、慣れてるもの」
そう、だから大丈夫。朔海と居る未来を得るために必要だというのなら、いくらだって耐えてみせよう。
咲月カップを一気に傾け、中身を干した。
そういえば、昨日のように吐き気を覚える嫌な感覚がない。
――鉄錆の匂いは確かに感じるのに、胃は至って大人しく、それを不快に感じないのだ。
もしかして、味覚も吸血鬼仕様に変わりつつあるのだろうか?
だが、血が胃に落ちると、カッと熱を持ち、同時に今まであった身体の痛みが一気に増した。
「――っ」
また、熱が上がる。
それでも。
どんなに辛くとも、あの彼の安否の分からなかった不安な日々や、彼を失う恐怖を思えば耐えられる。
「だから……そんな顔、しなくていいの。だって、朔海が居てくれなかったら私、今こうしてここに居ることさえできなかった。でも、朔海が居てくれたから、私はこの道を選んだの。その事に、後悔は一切ない。だから……そんな顔、しないで」
痛みに顔を枕に埋めながら、咲月はそれだけ口にする。
――彼の命が、その儀式によって潰えてしまわなかったことに心から感謝しながら。
咲月は、痛みの中、ふっと意識を手放した。




