変化の兆し
熱い。ついさっきまで凍りつきそうに冷えていたのが嘘のように熱い。
顔は火照り、全身汗でぐっしょり湿って気持ち悪い。
そして何より――
「いっ、たっ……」
自然と目に涙が浮かんでくるほど、全身が痛む。
先程までのような、冷えによる痺れからくる痛みとは全く質の違う、内側から焼き溶かされるような激痛が襲う。
我慢しようにも、無意識に悲鳴が口から漏れ出る。
――そういえば、貧血による水分不足からくる喉の痛みや眼球の痛みはなくなったようだ。が、やはりそれも熱を持った痛みとすり変わり、声は出るようになったが、耐えようもない痛みに苛まれる。
ひたり、と、額に冷たい湿り気が落ちる。
朔海が濡れたタオルを額に載せてくれたらしい。
次いで、頭の下に氷枕が差し入れられる。
とにかく汗をたくさんかくので、度々水分を与えられ、顔を柔らかい布で拭われる。
あの時瑠羽は、こんな苦痛に耐えていたのだろうか?
(これが、吸血鬼の毒に侵される痛み……)
彼女が持つそれより数段強いと朔海が言った、彼の魔力が、咲月の体内を巡る。
激痛と闘う中で、時間感覚はどんどん鈍っていく。
――どのくらい時間が経っただろう。
喉の渇きに耐え切れず、咲月はふと目を開け――眩しさに、目を細めた。
途端に感じた違和感に、咲月は一度目を閉じ、もう一度瞼を持ち上げ、よく辺りを見回してみる。
未だじりじりと蝋燭の炎が燃える音はそこかしこから聞こえてくる。
実際、記憶と全く同じ場所で同じように火を灯す蝋燭が目に入るのに、暗闇を照らし、周囲を橙に染めていたそれは今、明るい光の中で所在無さげに揺れていた。
そう、明るいのだ。
真っ暗闇だった窓は、頑丈そうな格子に覆われた曇りガラスの向こうが白く淡い色へ変わっている。
蝋燭の明かりで赤みを帯びていた室内の内装の色味も、明るい光の中でその印象を一変させていた。
(――これは……)
咲月は思わず半身を起こし、まじまじと部屋を見回した。――そして気づく。
全身、耐え難い痛みに苛まれ、どこもかしこも動かすたびに激痛を伴い、身体を動かす事を躊躇わせるけれども、貧血によって失われていた体力が幾分か戻ってきている。
痛いけれど、痛みを我慢すれば身を起こすことくらいは自分で出来る。
痛みに体力を持って行かれている気はするが……。
そう、体力が戻った、というより体力の総量が増えたために少し余裕が生まれたような……。
つまり早速、体内を巡る朔海の魔力が少しずつ咲月の身体を人間のそれから吸血鬼へと変化させつつあるのだろう。
(じゃあ、これが朔海が見ているのと同じ光景――?)
時計を確認すると、短針は「Ⅸ」を指している。
九時――、朝の、九時?
「咲月……?」
キッチンに立ち、桶に新しい冷水を溜めていた朔海がこちらを振り返る。
「どうかした……?」
「うん、ちょっと喉が渇いて」
咲月が告げると、朔海はすぐに冷蔵庫を開け、ミルクを注いだコップを手渡してくれる。
「ありがとう」
「具合はどう?」
「熱っぽいし、体中痛いけど、……そういえば吐き気は治まったし、血が足りない感じはあんまりしなくなったような……」
朔海は額のタオルを新しいものに変えてくれながら、申し訳なさそうな顔をする。
「今日の分、今いけそう?」
昨日のあれを思い出し、つい渋面を浮かべそうになった咲月は寸前でそれを押しとどめ、頷いた。
どうしたって、今日中に飲まなければならないのだ。……面倒事は先に片付けるに限る。
朔海は再びキッチンへ向かい、冷蔵庫を開けた。
中から、銀色のパックを取り出す。
何かと思って眺めていると、パックのファスナーを開け、中身を取り出し、再びパックを冷蔵庫に戻した。
朔海の手にはフィルム包装が施された何か――筒のようなものが握られている。
ペリっと包装を破って中身を取り出し、筒の先端に針を取り付ける。
――針。何かと思えばどうやら注射器のようだ。
しかし遠目に見ても、針は妙に太く長く、ピストンのついた筒の方もやたらに大きく、随分凶悪な代物に見える。
「……朔海?」
何をするつもりかと声をかければ、朔海は困った顔をする。
「あー、と。その、見てて面白いことは無いよ?」
怪訝な顔をする咲月に、朔海は苦い笑みを浮かべる。
「儀式に必要なのは、僕の心臓の血。だからこうして――」
朔海はおもむろにシャツのボタンを外して、胸元を曝け出す。
そして、注射器を逆手に持ち、ひと呼吸の間を置いて、その無駄な肉の一切ない綺麗な胸板の中央――心臓の真上に針を突き立て、深々とその太くて長い針の大半を体内へと埋めた。
痛みに、わずかに顔を顰めながらも、朔海は落ち着いた様子でピストンを引き、筒の中を鮮血で満たしていく。マグカップ一杯分の血が注射器を満たしたのを確認し、ゆっくり針を引き抜いていく。
傷口を親指で抑えて止血しながら、朔海はたった今採ったばかりの血をカップに注いだ。
――当たり前だが心臓に針など突き刺したりすれば、人間ならば場合によっては即死も有りうる重傷を負う。朔海に血を与えた葉月も相当に消耗していた。
ハラハラ見守る咲月に、朔海は肩を竦めてみせた。
「大丈夫だよ。こんな程度の事じゃ僕は死なない、――死ねない」
カップを手渡しながら、傷のあったはずの場所を指し示す。
確かに傷は、跡形もなく消えている。
「朔海……、それは……?」
なんとなく気恥ずかしくて目を泳がせようとした時、ふとそれに気づいた咲月はついそれを凝視した。
――白く、きめ細やかな肌の中央に刻まれたそれ。何かの紋章のような……
「ああ、これは……吸血鬼の王族なら誰しもが持つ、証」
朔海はそっとその上をなぞりながら答えてくれる。
「これを得る儀式こそが、『王族認証の義』だ」




