四日目
血の足りなくなった身体は冷え切り、血の巡りの悪くなった末端などは痺れて使い物にならず、栄養不足の脳みそはまともに働かず――。
辛くてどうしようもないはずが、何故だろう、何だか暖かくて心地良い。
頭がぼうっとするのも、水気不足で喉や眼球が痛むのも、全身だるくて仕方がないのも確かなのだが――
ふと、意識が浮上し、眠りの中で閉じられていた感覚が外へ向けクリアになる。
まず、聴覚を刺激したのは、すぐ傍で聞こえる呼吸音と心音――咲月のものではない、他の誰かの――
そして、肌に感じる温もり。肌の内側は冷たく凍えているのに、外から熱を分けてくれる、柔らかい温もり。
息を吸い込めば、覚えのあるコロンの残り香が嗅覚を擽る。
その段になって、ようやく咲月の脳が現状を理解する。
「――っ!?」
声にならない悲鳴を喉の奥に押し込めて、咲月は痛むのも構わず慌てて目を開けた。
まず最初に飛び込んできたのは、すぐ間近ですよすよと寝息を立てる朔海の顔のドアップで――。
「っ、っ、っ、っ!?」
一体、何がどうしてこうなったのか。
ベッドの中で、しっかと抱きすくめられている――だけでなく、自分の腕もしっかり朔海を捕まえていて、お互いしっかと抱きしめ合っていて……
大いに混乱しながらも、彼が分けてくれる熱が暖かくて心地良いのは紛れもない事実で。
男のくせにつやつやと触り心地の良い綺麗な髪や、きめの細かい白く美しい肌、長いまつ毛に整った顔立ちと、彼が眠っているのをいいことに、じっと見入っていると、ふと瞼が持ち上がり、濃紺の瞳がぼんやりと咲月の顔を眺めた。
覚醒するまでの、ほんのわずかな間。ほんの数秒ほどの間があって、そして……
朔海の顔が一気に朱に染まった。見ていて感心するほど、顔色を一転させた朔海は先程までの咲月よりも慌てた様子でじりじり後退し、どすんと音を立てて寝台から転げ落ちた。
離れて行ってしまった温もりを寂しく思いながら、言い訳を探してパクパク口を開け閉めする朔海に呆れた眼差しを向けた。つい、笑いが漏れる。
落ちた拍子に打ち付けたらしい後頭部を撫で擦りながら、朔海が立ち上がる。
笑われているのが決まり悪いのだろう、そっぽを睨みながら、ため息をつく。
しかし直ぐに真面目な顔で向き直り、咲月を見下ろした。
「咲月、今日が四日目だ」
咲月も、笑いをおさめ、頷いた。
「今ならまだ、引き返すことは可能だ。でも、この先へ進めばもう、二度と戻れない。最後の最後、もう一度だけ聞く。本当に、良いんだね?」
尋ねる朔海を、咲月は軽く睨んで頷いた。
朔海は淡い微笑みを浮かべ、そして覚悟を決めるように目を閉じた。
少しの間。
そして、再び目を開いた朔海は言った。
「分かった。……少し、待ってて」
朔海はベッドの傍を離れ、簡易キッチンへと足を向けた。
動くことのできない咲月は、彼が何をしているのか見えず、しばらくカチャカチャと何か作業をしているらしい音を聴きながら待つこと、しばし。
朔海は、盆に二つのマグカップを乗せて戻ってきた。
そして、その片方を咲月の前に差し出した。
――嗅ぎ覚えのある鉄錆の匂いのする、どろりと濁った赤黒い液体。……血だ。朔海の、血。
朔海は咲月を抱き起こし、昨日スープを飲ませたのと同じ要領で、咲月の口元にそれをあてがった。
貧血からくる吐き気を抱える胃をつつくような、生暖かい鉄錆の匂い。
思わずウッと嘔吐きそうになるのを必死に堪える。
吸血鬼になろうというのだから、これは絶対に避けては通れない道なのだと言い聞かせ、咲月は息を止めてゴクリとまず一口、飲み下す。
味覚を遮っても、舌の上をどろりと通過していく生暖かい感触までは遮れない。
体力を消耗した今の肺活量では長く息を止めていられず、それが喉を通過した時点で耐え切れなくなり、大きく息を吐き出すと、血の匂いが鼻を抜けて出て行く。
うっかり胃液と共に今飲み込んだものが戻ってきそうになるのを必死に押しとどめながら、息を吸い込む。
鼻を通すとまた匂いに悶絶しそうで、行儀が悪いのを承知で口呼吸に切り替え、浅い呼吸を繰り返す。
まだ、たったの一口。マグカップの中にはまだたくさん残っている。
先行きに暗雲が垂れこめそうな予感を振り切るように、咲月は冷たく痺れて上手く動かない手を朔海の手の上から添えて、一気にカップを傾けた。
もう一度、しっかり息を止め、一気に流し込む。
猛烈な抗議活動を展開してくる胃に、涙目になりつつも、死に物狂いで飲み下す。
同じ失敗を繰り返さぬよう、鼻をつまんだまま口から荒い息を吐き出す咲月に、朔海はもう一つのマグカップを差し出した。
「飲んで。……口直しと、栄養補給」
すりおろした林檎に、蜂蜜と生姜、黒糖で味を整えた、甘酸っぱい飲み物が、血の匂いと味を上塗りしてくれる。
ようやくまともにほっと一息つけた咲月は、再び瞼が重くなってくるのを感じて目をしょぼつかせた。
「今は、もう少し眠って」
朔海は支えていた咲月の肩を枕に預け、布団を整える。
――ドクン、と。心臓が、悲鳴を上げる。
身体中を浸食しつくしたそれが、歓喜に沸いた。
喉を通過し、腹へと収まり、吸収されたそれは血管を伝って全身に運ばれていく。
これまで我が物顔をしていたそれすら容易く飲み込み蹂躙する勢いで、古の血はわずかに残った若き血を駆逐していく。
普段平穏な川の流れを濁流が押し流していくように、若い血は抗う術もなく流されていく流木のように、圧倒され、呑み込まれていく。
全身くまなく、手指の先から足のつま先まで巡り巡った血は、やがて心臓へと還ってくる。
――ドクン、と。心臓が、反乱の狼煙を上げた。




