ままならぬもの
身体が酷く熱かった。
朔海は乱れた布団を綺麗に直し、新しい湯を注いだ湯たんぽを追加で中へ押し込んでから、逃げるように部屋を出た。
階段を下りて地下の風呂場の扉を少々乱暴に押し開ける。
ぽいぽいと汗で湿った服を雑に脱ぎ捨てると、畳みもせずにかごへ投げ込み、急いで浴室へ駆け込むと、シャワーノズルを頭の上へ掲げ、蛇口をいっぱいにひねれば、シャワーから勢いよく水が吹き出し、全身から水滴を滴らせた。
――給湯の温度調節のつまみは青色、冷水を指している。
冷たい水を頭からかぶり、滝業よろしくしばらく立ち尽くす。
そうでもしなければ、全身を駆け巡る熱と欲望に収拾がつかなくなり、うっかり咲月に手を出してしまいそうだった。
絶対に、途中で拒まれると思っていた。
……あまりに無防備に信頼してくれるものだから、もしかしたら男として見られていないのでは、と少しばかりカチンと来て、ちょっかいをかけてみたのがいけなかった。
ちょっと大胆に迫って脅かせば、たちまち慌てて拒むだろうと思っていたのに。
咲月は戸惑いながらも朔海を受け入れてしまった。警戒や抵抗など一切ないまま、正直朔海の方がやめられなくなりそうで怖くなったくらいだ。
本当に、あそこで止めてくれて助かったと思う。
だが、うっかり火のついた身体を鎮めるには遅すぎた。
欲のままに血を吸い過ぎないよう、どれだけ苦労したことか。
熱くなりすぎた身体を冷まさないことには、あの部屋には戻れない。
まだ、正式に認められていないどころか、結婚指輪も、婚約指輪さえ贈っていない今の段階で、あれ以上の行為に及ぶ事は絶対にあってはならない。
朔海は自分に強く言い聞かせる。
――鏡に映った顔は、明らかに赤く染まっている。
少なくとも、咲月を葉月に引き取らせたあの日までは、彼女にこんな思いを抱いたことはなかったのに。
ただひたすら大切に守りたかっただけだったのに。
……彼女の血の味を覚えたあとだって、強い血の衝動を覚えるようにはなったけれど、こんな風に強く彼女が欲しいと思った事はなかったのに。
あの時、あそこで止められていなかったら。もしかしたらあのまま咲月を抱いていたかもしれない。
それを、朔海は自分で否定しきれなかった。
ドクン、と。――心臓が跳ねる。
混じりあった血が、全身を巡り、やがてそこへ還ってくる。
魔力の源、古の力の海から新たに魔力を受け取り、血は再び全身を巡る旅に出る。
――冷たく静かな海に若く熱を持った血が融けていく。
ドクン、と。――心臓が、踊った。
――そして。ドクン、と。心臓が、震える。
全身めぐるそれは、どんどん量を増していた。逆に量を減らした血液細胞に変わり、縦横無尽に全身を我が物顔で巡っては、全身のあらゆる細胞をゆっくり侵食していく。
細胞を破壊するのではない。元の形はそのままに、自らの存在を半ば無理やり割り込ませ、居座る。
ゆっくり、ゆっくりと。少しずつ、少しずつ。細胞が一つ、また一つ、侵されていく。
オセロのコマが、白から黒へとひっくり返されるように、いつの間にか塗り替えられていく。
白かった盤面が、徐々に徐々に黒へと染まっていく。
――そして。ドクン、と。心臓が萎縮した。
血圧がどんどん下がる。――と、同時に体温もどんどん下がっていく。
血の巡りが悪くなり、脳や内蔵の働きが徐々に悪化し始める。
頭痛、吐き気、悪寒に加え、酸素不足からくる目眩、水分不足からくる眼球や喉の痛み、口腔内が張り付いて痛い。
「……咲月」
ふと、揺り起こされる。
「お粥、作ったから」
――7時。時計を見ると、いつの間にかほぼ半日が過ぎていた。
出汁の良く利いた卵がゆ。とても美味しいのだが、流石に体が辛い。意識も半ば朦朧としている。
手が冷えて痺れ、レンゲをしっかり持って粥を口に運ぶだけの行為に疲労を感じる。
これが、致死量近くまで血を失うという事。……いや、まだこれでも2日目なのだ。明日は一体どうなってしまうのか。
……ありえないと分かっているが、もしもこのまま致死量を越えれば――咲月は咲月でなくなってしまう。
今、咲月の体内には失われた血液の代わりに朔海の魔力が巡っている。それが、咲月を咲月ではなくしてしまう。
それは、怖い事のはずなのに。今、死の一歩手前まで来ているというのに。いよいよその時が近づいているのだという不安と期待が、その恐怖を押しのけ、前に出てきて騒ぎ出す。
吸われた血が致死量を越えていない今はまだ、咲月は人間だ。致死量を越えなければ咲月が狂った吸血鬼になることはない。
そして、朔海の血を口にしない限り、吸血鬼にはならない。
しかし逆を言えば――正式に吸血鬼となれるのは4日後でも、朔海の血を口にした時点で、咲月の身体は人間から吸血鬼への変化を始める。もう、人間とは言えなくなる。
――明日が、咲月が人間として過ごす最後の日になる。
後悔も、躊躇いもない。けれど、さすがに複雑な気分にはなる。
明日が待ち遠しいような、怖いような……
しかし、どんな時も、主観的な感じ方の違いはあれ、時間は本来平等に過ぎていく。やがて、時計の針が「Ⅻ」を長短揃って指し示す。
咲月がこの世界に来てから2日目の一日が終わりを告げ――3日目の訪れを告げるのを、朔海は静かに眺めていた。




