とある屋敷のある日の風景
「……お、終わらない――!!」
モップの柄に額を押し付けるようにしてもたれ掛かり、すぐ真下の床を渋面で眺める。朔海は一瞬、そのまま現実逃避をしてしまいたい衝動に駆られた。
顔を上げたくない。周囲の状況を目に入れたくない。――はっきりと認識し、理解するのが恐ろしい。
朔海の趣味は、料理である。だから当然、料理は得意だ。――が、しかし。料理が得意だからと言って、他の家事も得意……という訳ではないのである。
決して出来ない、という訳ではない。少なくとも葉月よりはマシな仕事が出来ると自負している。
何しろ、一人暮らしが長い。三百年近い期間、この屋敷で暮らしているのだ。掃除や洗濯だって、自分でやらなければ他に誰もやってくれる者は居ないのだ。……だが、悲しいかな。葉月よりは器用だとはいえ、所詮朔海も男なのである。
ぴかぴかに磨き上げられ、完璧に整えられているのはキッチンと食堂だけ。
広すぎる屋敷中、まともに掃除してあるのは普段使っている場所――居間や自室、せいぜい玄関周りの階段と廊下の一部くらいのもので、滅多に使わない部屋など埃だらけで惨憺たる状態だ。
目を覆いたくなる惨状を改めて眺めてみた結果、朔海は目眩を覚え、思わずモップに懐いた――ワケなのだが。
――本当に、このまま一人で作業を続けて、残りひと月で片付くのだろうか? ……ただ汚れを落とすだけの掃除では足りないのに。
初めてここを――次元の狭間という名の彼女にとっては異世界であるこの場所へやって来る咲月の事を慮るなら、他にもやっておいた方が良いと思われる作業は山のように積み上がっているというのに。
この次元の狭間という世界は、魔界のように弱肉強食が唯一絶対の掟、という事はない。
魔界に棲まう面々のみならず、本来天界に坐す神々や、それに属する者、そして精霊たち。そしてファティマーのような特殊な力を持つ人間すらも行き来する世界だ。
そんな面々を相手に商売するのに、魔界の掟を振りかざすのは得策ではない。
ここは、狭間の世界。
天界、人界、魔界の三界全てが交わる特殊な場所。
全ての世界の通貨が行き交い、それぞれの世界の、様々な品が売買される大変希少な場所なのだ。
そして、その希少な市場を守るため、ここにはここの掟が存在する。――法で定められている訳ではない、暗黙の規則。
例えば、蛇とマングースの如く仲の悪い者同士がうっかり顔を合わせてしまったとしても、ここ次元の狭間に居る限り私闘は禁じられ、互いに手を出すことは許されない。
例えそれが、かの魔王ルシファーと、大天使ミカエルだったとしても、だ。
何しろ天界の者も人界の者も魔界の者も行き交う場所だ。
フェンリルとオーディンだとか、テスカトリポカとケツァルコアトルだとか、その他様々居る因縁の相手同士が行き合う度に戦いが起こるようでは、とてもではないが商売など成り立たない。
――だからこその規則である。
しかし、市場を脅かすような大っぴらな戦闘や犯罪は禁じられているものの、例えば大通りから一歩入った裏の小路や地下では小狡い詐欺紛いの商売や押し売り、小悪党によるスリだのカツアゲだのといったトラブルも多い。――が、そういった小さなトラブルにまで目くじらを立ててもキリがないため、その辺は自己責任、というのもまた暗黙の了解となっている。
故に、それに対抗する力を持たない弱者は格好の餌食となってしまう。
魔界ほど顕著ではないが、ある程度の力は必要不可欠なのだ。
だからこそ、最低限自分を守れるくらいの力を身につけるまでは、咲月を屋敷の外へ連れ出すことは出来ないし、この屋敷に彼女一人だけ残しておく事も出来ない。
儀式を済ませ、新たに得た力をある程度使いこなせるようになるまでの間、二人して屋敷に缶詰状態になる。
――当然、相応の準備が必要になってくるのである。
掃除だけではない。後で買い出しにも行かねばならないし、部屋も整えなければならない。
あまりの手の足りなさに、思わず頭を掻きむしりたくなる。
磨いても磨いても終わらない広すぎる床を前に、目を背けたくなって高い天井を見上げれば、埃だらけのシャンデリアが目に入る。
朔海にとっては装飾以上の意味など無い、無用の長物。――吸血鬼である朔海に照明器具など必要ない。
けれど、これから迎えに行く咲月は、人間だ。
吸血鬼が住むのに最適な屋敷は、人間にとっては決して住みよい場所とは言えない。
少しでも不安要素を取り除きたいと思うならば、勿論あれもしっかり磨き上げ、きちんと使用できるよう整えるべきだ。
再び目眩に襲われた朔海は思わずくらりとよろけ、その場でたたらを踏んだ。
「……掃除係に、使い魔でも雇おうかなあ」
家事妖精くらいなら朔海にも捕まえて使役することは可能なはずだ。
……が、残念ながら今から妖精を捕まえに出かけるような暇など、あるはずがなかった。
朔海は現実逃避を諦め、せっせと地道なモップがけを再開する。
「ほ、本当にひと月で終わるかなあ……」
静かすぎる屋敷の中、涙目になりながらのぼやきを聞く者は――
「まあ、頑張るんだね。――しかし……」
磨き上げられたカウンターに、いつもと同じように頬杖をつき、彼女は届いたばかりの封書と水晶玉を見比べ、渋い顔をした。
「全く、面倒な事になったもんだよ」
午後のお茶を楽しみながら、ファティマーはぼやく。
「祓魔師、か……。本当に、面倒だ」
ゲココ、と小さなアマガエルが喉を膨らませ、同意の意を示した。
ファティマーは便箋を取り出し羽ペンを滑らせる。
サラサラと流麗な文字で短い文章を書き付け、インクが乾くのを待ってから、封筒へ仕舞う。
蝋で封印を施し、呼び出した大鴉にそれを持たせ、
「まずは第一報、という程度の内容だが……。果たして、どう動くか。少なくとも楽観はできないだろうな」
ファティマーはティーカップを置き、立ち上がる。
「これはやはり、魔女長にも報告するべき案件だろうな。……仕方ない、面倒だが行くしかあるまい」
表の扉を開け、使い魔を放つ。
白い薄もやがかかる空の向こうへそれが飛び去るのを見送り、ファティマーは扉に掛けた札をOPENからCLAUSEへと掛け替え、カーテンを閉じて店仕舞いをした。
上着を羽織り、裏口の戸を開ける。
「行くぞ。我らが魔女長の住む、魔女の森へ」
扉の前で待機していたグリフィンに行き先を告げると、颯爽とその背に跨り手綱を握った。
グリフィンは、翼を大きく広げ、空へと翔け上がる。
眼下に広がる街は、今日も賑やかだ。
「人界へ戻るのは、そういえば久々だったな。……せっかくだ、ついでに何か美味い甘味でも仕入れてみるか」
片手に水晶玉を抱え、その向こうで四苦八苦する朔海を眺めながら微笑み――
魔女様は小さく呟いた。