二日目
朔海は吸血鬼。――もちろん、それは今更言われるまでもなく先刻承知の事実……、なのだが。
気の抜けた脱力系の表情をした朔海をどんなに眺めて見てみても、どんなに背景に溶け込んで見えても――
「ホラーな気分にはなれないかも……」
何かの映画のワンシーンの様に整った画面ではある。けれどそれがホラー映画のワンシーンにはなり得ない。
彼こそが吸血鬼、人形や役者が扮した偽物ではなく、紛れもない本物だというのに、だ。
「ええ? 昨夜、あれだけ血を吸ったのに!?」
咲月の呟きに、今度はぽかんと大口をあけて驚き、朔海は咲月に疑いの眼差しを向ける。
それはそうだろう、その為に今こうしてこんな時間からベッドに入り浸ってる訳なのだから。
昨夜、初めて首筋に牙を立てられ、血を吸われた。――これ以上ないくらいストレートに吸血鬼らしい行為を我が身で体験したばかりにもかかわらず、映画で見るような象徴的シーンとあの時の自分が重ならない。
咲月が朔海に抱いたのは恐怖でも拒絶でも陶酔でも背徳感でもなく――
ただ、純粋な喜びと、信頼と、安心。そして少しの羞恥、それだけだった。
それが何故か――。咲月はなんとなく分かる気がする。確かにたくさんの血を吸われはしたけれど、あれは決して襲われての事ではない。咲月が望んだ上での事だったから。
人を脅かすような性格ではないのを知っているから――。
「ふぅん? ところで咲月、ハロウィン、て知ってる?」
――と。何故だろう、彼には珍しく半眼を咲月に向けてジトリと睨みながら尋ねた。
「え……、と。あれだよね? 子供が、“TRICKorTREAT?”って言って各家を回ってお菓子貰って歩く、キリスト教の行事……」
「そうそう。正確には万聖節の前日、ハロウズ・イヴ。キリストの祝日前の厄払いのお祭りなんだけど。“TRICKorTREAT”の意味を、知っている?」
朔海は半眼のままベッドの端に腰掛け、ずずいっと顔を寄せ、咲月の目をじっと覗き込んだ。
今も彼の装いはあちらの世界で着ていたのとさして変わらず、趣味や質はかなり良い方に入るだろうが、咲月の感覚として極めて一般的な中高生男子の服装を見事に着こなしている。
日本のごく一般的な市街地が背景にあると、少し浮いて見えていた彼の容姿も、今の背景にはぴたりとはまっていて、うっかりすると目が離せなくなる。
その彼の、咲月が特に綺麗だと思っている濃紺の瞳に間近に迫られ、瞬きすら忘れる。
「た、たしか……“お菓子をくれなきゃ悪戯するぞ”、って……」
その答えを聞いた朔海は満足気ににっこりと満面の笑みを浮かべた。
「そうそう。たしか、ちょうど今くらいの時期だったよね、ハロウィンて。ねえ、咲月? “TRICKorTREAT?”」
ハロウィンは、10月31日。少し日にちは過ぎたけれど……。
「ええ?」
突然そんな事を言われても、当然だがこの状況で菓子など持っている訳がない。
朔海はテーブルを向こうへ押しやり、したり顔で笑う。
正直、綺麗すぎる彼の顔が間近にあるというだけで咲月の心臓は過敏に反応してしまうというのに。こんな、いつもの彼らしくない悪戯な笑みを浮かべて迫られたら……トコトコと早速早まる脈の音を耳の奥に聴きながら焦る咲月を、朔海は何やら悩ましげな色気をたたえた瞳で捕らえ、、心の奥底まで見通してしまいそうな視線で射抜く。
そっと手を咲月の頬に伸ばして優しく触れながら、かっちりとホールドし、その視線から逃れる事を許さない――決して乱暴ではないが、いつになく強引かつ強硬に迫られたら……。
ただでさえ、既にベッドの中で枕や毛布に身体を預けて弛緩させていた心身から根こそぎ力が奪われていく。
両手両足は自由になるのだから、やろうと思えば彼の胸を押し返して抵抗の意を示す事くらいは可能なはずだが、奇妙な熱に当てられた心と身体ではそんな事すら思いつけない。
なおも近づいてくる彼の顔を前に、咲月は瞼を閉ざし、視界を塞いだ。
すると今度は、鼓膜を刺激する彼の吐息や、頬に触れる彼の手の体温をより鋭敏に感じて、それがまた心臓の鼓動に拍車をかける。
これだけ距離が近いと、その音が全て彼に筒抜けになっていそうでどうしようもなく恥ずかしい。ふとそう思いつけば、また鼓動が早まる。
結局耐え切れなくなって咲月は再び瞼を開け――思わず息を飲んだ。
頬に触れた手の親指が咲月の唇をなぞっていく。その様を眺める朔海の瞳は緋色に染まり、焦がれるような目で一心に見つめている。
「朔……ッ」
その視線に心臓を鷲掴みにされる心地を味わいながら、咲月は思わず彼の名を呼ぼうとして開けた口を、すかさず彼に奪われ、声にならなかった音が喉に詰まる。
昨日の、啄むような軽い口づけではない、深く濃厚なキス。
脳の奥まで痺れ、まともな思考能力が溶かされていく。
息を継ぐため、ようやく互いの唇が離れた頃には、いつの間にか頬だけでなくベッドの上で身体全体がホールドされているのをようやくぼんやり認識するような有様だった。
明らかに貞操の危機のはずが、危機感が全くない。その代わり、妙な緊張感が高まり、おかしな高揚感に心臓が踊る。
その、困惑に満ちた咲月の表情を見下ろしていた朔海は、困ったように眉尻を下げながら、口元には苦い笑みを浮かべ、熱にうかされた瞳を伏せて眉間にしわを寄せた。
「これは……喜ぶべきなのか、それとも嘆くべきなのかな……?」
今度は右の首筋に点々と口づけを落としてく。
以前、朔海に血を吸われた際に感じた妙な気分に似た、けれどあれより淡く穏やかで、それでいてじりじりするような、もどかしいような感覚に支配されていく。先程までの冷えが嘘のように身体が熱くなって……。
ちくりと、牙の先が肌を僅かに傷つける。ぷつりと血の玉が溢れたところを、すかさず舐め取る。
ぺろりと舌が肌の上をなぞる感覚は、何故だか叫び出したくなるほど甘い刺激となって全身に痺れをもたらす。
ささやかな傷から滲む僅かな血を、奥から絞り出すように強く吸い付き、吸い出した血を丹念に舐め取っていく。唾液ですっかり湿った肌と、朔海の舌とが触れるたびに聞こえる音が、鼓膜までくすぐる。
「や、やめ……っ、朔、海……」
身の内で高まる感覚に混乱極まった咲月が、とうとう白旗を上げて呻いた。
朔海は苦しげに顔をしかめながらも満足気な笑みを浮かべ――
「悪いけど、今やめるわけにはいかないな」
傷口を牙で抉った。
傷が広がり、滲む程度だった血がじわじわ溢れてくる。ぢゅう、とわざと派手に音を立てて傷口に吸いつき、血を啜る。ゴクリと喉を鳴らして、血を飲み込んで。
「……僕を信頼してくれるのは嬉しいけど。でも、ねえ咲月、僕が吸血鬼だって事、そして男なんだって事、本当にちゃんと理解ってる?」
血の赤に染まった唇を、やはり血色に染まった舌先で舐め取りながら、朔海は意地の悪い笑みを浮かべ、今度は左の首筋に咬み付いた。
深く牙が埋め込まれ、覚えのある鋭い痛みが、溶けかけていた思考を現実へ引き戻す。
記憶に新しい痛みと鼓膜を刺激する音。――だが、昨日とは決定的に違う、覚えのない感覚が、穿たれた傷口から全身を巡っていく。
……いや、覚えならある。以前、朔海に血を吸われた時に感じたあれだ。だけどあの時より数段強い、奇妙な熱と痺れが全身を駆け巡っていく。
恍惚、陶酔――。
そして咲月はようやくそれが何かを理解する。全身をめぐる朔海の魔力が血を吸われることを心地良いと感じさせているのだと。
蚊や蛭が血を吸うとき相手の痛覚を麻痺させるように、獲物を逃さないための吸血鬼の能力なのに違いない。
――でも、じゃあその前のあれは何? 牙を立てられる前に感じた、あの熱の正体は……?
しかし、その正体に咲月が気づく前に、咲月の意識は暗転した。
どんどん冷たくなる咲月の身体を抱きながら、傷から強く血を吸い出す。
血圧の下がった血管から血を吸い出すのは中々骨の折れる仕事なのだと、朔海は久しぶりに思い出しながら、必死に自らの欲を抑えて止め時を見極める。
しばらくして、傷から牙を引き抜いた朔海が吐きだした吐息は、ひどく、悩ましげであった。




