異世界の朝
――寒い。
真っ暗な深淵からふっと浮き上がった意識上にまず浮かんだ言葉がそれだった。
肌に触れる感触はとても素晴らしい。頭を受け止める柔らかい枕にかかったカバーの布地からはほのかにラベンダーの香りが漂う。
全身の体重を預けたマットレスのスプリングの利きもまた素晴らしい。正面向いて寝ていても、寝返りを打って横を向いてみても、無理のない体勢のまま柔らかく支え、受け止めてくれる。シーツの肌触りも極上。
毛布はとても軽く、毛足の短いふわふわ柔らかい触り心地はくせになりそうだ。
その上にかかる羽毛ぶとんも、とにかく軽い。
気持ちよすぎて、離れがたく思うくらい、素晴らしい寝心地であるのに。
――寒い。
足元に置いた湯たんぽから得られる暖も、正直外から温めるだけでは根本的な解決にはならない。
触れている部分は確かに温くて快適なのだが、全身の冷えを癒すまでには至らない。
こぽこぽと、比較的近い場所で、火にかけた鍋がグツグツ煮える音がする。
そういえば、何か良い匂いがするような――?
朝……?
咲月は違和感を覚えながらも瞼を持ち上げた。
――暗い。
どんなに雲がちで天気の悪い日の朝でもこうまで暗いということはないだろう。
眩しい朝日どころか、辺りは夕べと変わらず薄暗いまま。……蝋燭の淡い橙の灯りがぼんやり辺りを照らしていなければ、おそらく真の闇に呑まれる。
咲月は、つい癖で時計を探し――ベッド脇のナイトテーブルに、見慣れない古めかしい置時計を見つけて時間を確かめる。
ローマ数字の刻まれた文字盤の『Ⅸ』の少し上を、短針は指していた。長針は『Ⅴ』と『Ⅵ』の間を指している。――九時半だ。
――まさかだ。昨日は確かに朝から最後の片付けと荷造りで忙しくしていたし、夜は夜で空を飛んだり異界の扉を潜ったり、異界の扉の番人やその指南役だというロキ神と言葉を交わし、小なりとはいえ異世界を旅して、朔海の家へやって来て、とにかく色々あって疲れていたのは確かだが、まさか丸々一日寝過ごしたなんてことは……
「おはよう、よく眠れた……?」
咲月はまだ少し痛む頭を庇うように額に手を当て、身体を起こした。
身体がだるい。
冷え切っている上、上手く力の入らない身体を枕に預ける。
「うん」
体調は最悪だが、そういえばあの後の記憶は一切ない。夢すら見ずにぐっすり熟睡していたのは確かだろう。
だが、やはり寒い。こういう時は、どんなに暖かい服を重ねて着ても、何枚毛布を掛けても、ちっとも暖かくならない。
「朝ごはん作ったけど、食べられそう?」
ほんの少し、吐き気が残っているが、それより何より熱源を取り入れたくて、咲月は頷いた。
「ああ、そのままでいいよ。動くの辛いだろうし。待って、すぐ用意するから」
ベッドから降りようとした咲月を止め、朔海はキャスターのついたワゴンの天板に料理の皿を並べる。
安っぽいパイプ素材のものではない。木目の美しい天板に、渋い色味の木材を使用した脚。ワゴンの取っ手やキャスターは落ち着いた金色がアクセントになっていて、洒落たデザインのそれに乗せられた食器もまた可愛い。
英国貴族のお茶会にでも使うような食器を彩る料理がまた、一流ホテル並みのメニューが揃えられているのだ。
ほかほかと湯気を立てるのは、野菜たっぷりのミルクスープ。平皿に盛り付けられているのはふわふわのオムレツと、付け合せの温野菜。海藻たっぷりのサラダに、白パントースト。デザートには各種フルーツとジャムがトッピングされたヨーグルト。さらにピッチャーには100%アップルジュース。
ワゴンの高さはベッドとぴったり合い、キャスター部分がベッドの下の隙間に収まると、ちょうど天板部分が程良い高さのテーブルに早変わりする仕様だ。
「これは……“朝”ごはん、なんだよね?」
「うん?」
並んだメニューは確かに朝仕様なのだが、ランチやディナーでも通用しそうな豪華な料理と、時計とを見比べる咲月に、一瞬首を傾げかけた朔海は、得心したように頷いた。
「……そうだよ。今は朝の九時半だ。時間的には朝ごはんというよりブランチと言うべきかもしれないけどね。今の咲月の目には、暗くて、朝らしくない気がするんだろうけど……」
朔海がふと、この広い部屋にたった一つしかない小さな窓を見て眩しそうに目を細めた。
朔海の目に映る景色は、咲月の目に映るものとは違うらしい。
「あと、今日を含めて5日だ。あと、5日したら、咲月も僕と同じ景色を見られるようになる」
朔海は窓の方を向いたまま、細めた目をそのまま伏せた。
そう、まだあと5日ある。――あと、少なくとも2回は、昨日と同様、朔海が咲月の血を吸わなくてはならないのだ。
つい、昨夜の記憶を脳内再生してしまいそうになった咲月は、慌てて手を合わせた。
「いただきます」
ゆでたブロッコリーをフォークで刺し、口に放り込む。――無味かと思えば程よい塩味が利いている。ほんのりバターとガーリックの香りが嫌味のない程度に漂い、食欲を刺激する。
ふんわりと見るからに柔らかそうなオムレツだが、フォークで割っても卵液が染み出てきたりはしない。なのに、口に入れるととろとろで、舌の上でバターとケチャップと卵の味のバランスが完璧な調和を奏でる。
ミルクスープに入った野菜は全て細かく刻んだ後でよく煮込まれ、口に入れると舌の上で形は溶けて消えるが、染み出した旨みがミルクやコンソメの味に負けていない。――文句なしに美味しい。
見た目だけではない。味も立派に一流ホテル並みだ。……一流ホテルの食事など一度も食べたことはないけれど。
でも、例えばこのサラダのドレッシングも。
「美味しい……」
油の重さを感じない、程よい酸味。さっぱりした味ながら、野菜の水気に負けることなく、野菜の甘みがよりしっかり感じられる気がする。
「それ、僕のオリジナルなんだ。……好みに合ったみたいで良かったよ」
目を伏せ、痛みをこらえるような表情をしていた朔海は、一転、嬉しそうに笑った。
……少し照れて目元がほんの少し赤くなっている。朔海のこういう顔に、咲月は弱いのだ。
おかげでほんの少し体温が上昇する。
食事を終え、ようやく身体の震えが治まる。
食後のハーブティーでさらなる暖を取り込みつつ、まったりな時間がゆっくりと過ぎていく。
ここは、本当に静かで、平穏で――。
「……それにしても……今更かもしれないけど……」
咲月は、この屋敷に足を踏み入れて以来、ずっと思っていたことをついポツリと漏らした。
「こうも蝋燭だらけで、この内装……まるで……」
薄暗い中世欧州風の屋敷に大量の蝋燭。そう、まるで――
「お化け屋敷みたいな……」
人の家をお化け屋敷呼ばわりなど失礼だと思ってずっと黙っていたけれど、気が緩んだ隙にぼろりと言葉がこぼれれ出た。
朔海は一瞬キョトンとして目を瞬かせた後で、頬を掻きながら口元を緩ませた。
「うーん、まあ、言い得て妙……というか、ある意味文字通りだからなあ」
朔海は困った顔で笑う。
「……だって、そうだろう? ここは僕の屋敷なんだから」




