朔海の苦悩
やはり疲れていたのだろう。ベッドに潜って目を閉じたその次の瞬間にはもう、すうすうと規則正しい寝息が朔海の耳に届いた。
いつもより明らかに青白い顔色を見下ろしながら、朔海は、彼女に触れたい衝動を必死に抑えていた。
疲れているであろう彼女の眠りを妨げるような事はしたくない。
朔海は大きく息を吐きだし、彼女の顔から視線を逸らした。
うっかりするとその場に根を張りそうな足を、キッチンへと強制的に動かし、なるべく音を立てないように細く出した水でカップと空き缶を洗う。
空き缶はゴミ箱へ、マグカップは棚へ。――この程度の洗い物にそう何分もかかるものではない。あっという間に手持ち無沙汰になった朔海は、ソファーにどかりと腰を下ろし、背もたれにだらしなく寄りかかって天井を仰いだ。
――正直、とても眠れそうにない。
このひと月、最低限の休養しか取らずにさんざん肉体労働を重ね、疲れていた身体は今、力が満ち溢れてありあまっている。
こうしてソファに落ち着いていることが苦痛に思えるほど、何か発散したくて堪らない。
こんなにも一度に沢山人の血を――それも処女の生き血を吸ったのは幼いあの日以来初めての事だ。
暖かくて甘い、力に満ち溢れた極上の血。
彼女の血を口にする度に、朔海は強く自らを自制してきた。血の誘惑に負けて吸いすぎればどうなるか。自分に言い聞かせ、最小限の吸血に留めてきた。
けれど、今回のように致死量ぎりぎりまで、という制約はなかなかに難儀な条件であるのだと、今朔海は痛感していた。
そもそも、人間が死に至るほどの失血量というのが致死量な訳だが。
年齢、性別、体重などによって個人差が出てくる。
平均的な数字を言えば、全体の血液量の約2分の1を失うと、人は死に至るという。
ではその全体の血液量は、といえば体重の約8%だと言われる。
おおよその平均として、咲月くらいの年齢と体格の女性ならば約2000ccの血液を失うと、死に至る。
牛乳パック二本分に値する量だが、それを計量カップにあけて計る訳にはいかないのだ。
腹に溜まった分の血がどれほどか、感覚だけで計らねばならない。
非常に冷静な計算が必要とされる訳だが……。
吸血鬼の本能は、血を前にすればどうしても興奮する。いくら理性で抑えても、完全に抑えきれるものではない。ましてや処女の生き血などという極上品を前に、喉を鳴らさずに居られる吸血鬼など存在しない。
うっかり理性を飛ばして吸い過ぎないよう必死にセーブする。
そして。……咲月はさっき、男の家に上がるのが初めてだの何だのと言っていたが、それは朔海も同じこと。女性を家に招くなど初めてのことだし、もちろん彼女を持つのだって初めて――どころか、ファティマー以外の女性とまともな会話を交わしたことなど全くないのだ。
男としての本能を、朔海は彼女の告白で先程ようやく自覚した。
これまで、ただ大事にしたい、守りたいと思っていた彼女に、もっと触れたいという衝動を覚えた。
――その衝動は、吸血鬼の本能をも刺激し、吸血衝動を引き起こし、酷く喉を渇かせた。
それらを全て制し、自らを抑制するのは精神に激しい消耗を強いた。
当然、もう、くたくたのはずが、大量に摂取した咲月の血のおかげで不調どころか身体は絶好調の極みにある。
少し、苦しそうな咲月の寝息を聴きながら、朔海は申し訳ない気分になる。
――頼まれていた調べ物だが、一族の者に問い合わせてみたところ、それらしい一族が見つかった。私の見立てでは、ほぼ間違いないだろうと思う。……だが、思った以上に面倒な一族らしい。
大量の荷物と共に届いた、ファティマーからの一報。
――詳しいことは、魔女長と相談の後、可能な限りは調べてみるつもりだが、……思った以上に厄介な事になりそうだ。……心しておけ。
その簡略な文面は、非常に彼女らしくて、聞こえないはずの彼女の声が耳奥で響いた気がした。
何しろ、魔を狩る事を生業とする者たちだ。初めから一筋縄ではいかないことは承知の上。
……ファティマーもそこは承知のはずで、それをあえて『面倒』と伝えてきたからには、何かある。
不安は尽きないが……。
それでも、今はまず目の前にあるものを一つずつ片付けていくしかない。
朔海は、無理矢理目を閉じ、ソファに横になった。
背もたれに顔を押し付け、固く目を閉じる。明日のためにも、少しでも気持ちを落ち着けなければならなかった。
腹に溜まった熱はやがて、血管を伝って全身を巡っていく。
若く生気に満ち溢れた血が、古から連綿と受け継がれてきた濃く力に溢れた血と混じり合う。
混じり合い、そして――
ドクン、と。――心臓が、跳ねた。
血管を巡る血液の絶対量が減り、心臓から送り出される血流の勢いが削がれ、血圧が下がる。
熱を生み出す力が低下し、体温が下がる。
熱を得られず冷えた筋肉は強張り、血管は縮こまり、さらに血の巡りが悪くなる。
見事なまでの悪循環だ。
そんな中、血液細胞に混じって全身を巡り、じわりじわりと静かに浸食していきながら、その時を待つものがあった。
血液は巡り、各所に栄養を届け、老廃物を受け取り、また巡る。それに従うように全身を巡り、栄養とともに各所に取り込まれ、自らを取り込んだ細胞を浸食した後、再び血流に乗って全身を巡る。
――そして。ドクン、と。心臓が、震えた。




