苦痛と、温もり
肌を破り、肉に食い込んだ牙の感触。これまで幾度か手首に受けた時より数段鋭い痛み。
牙により穿たれた傷から滲む血を、朔海はすかさず吸い上げる。
傷口を強く吸われ、舌で嬲られる鈍い痛みが、断続的に続く。
時折かかる暖かな吐息。唇の熱。傷口を吸う、唇が立てる音。吸い上げた血を啜る音。啜った血を飲み込む音。それら全てが耳のすぐそばで、リアルな音を奏でる。
――首筋を咬まれ、血を吸われている。
牙が埋め込まれた痛み、傷口を弄られ続ける苦痛。けれどそれ以上に、彼の体温を触れるほど近くに感じ、心臓が高鳴る。
しかし、先程のような無茶苦茶なそれとは違う。
身体からは力が抜けたまま、為されるがままなのに、心の中を満たしているのは不安ではなく、彼から口づけされた時と同じ、ほんの少しの羞恥と、喜びと、そして信頼と、安心。
さっきあれだけ不安に思い、恐怖していたのが嘘のように、心地良い漣に、心臓の鼓動も体温も、徐々に落ち着き始める。――流石に、全く普段の平穏を取り戻すまでには至らないが。
ゆっくり、時間をかけて、血が吸い出されていく。始めは何ともなかったのに、いつからだっただろう――少しずつ、少しずつ、まずは手や足の先の末端から体温が失われ、冷たくなり始める。別に冷え性というわけでもないのに――?
だが、冷えは末端から徐々に徐々に範囲を広げ、やがて風邪で熱が出た時のような悪寒が全身に広がり、がたがたと身体が勝手に震えだす。
「……寒い?」
それに気づいた朔海が、一度傷口から牙を抜き、尋ねた。だが、歯の根の合わない程震える様を見れば問うまでもないだろう。
朔海は、一度ベッドから降りると、ベッドに背中だけ預けていた咲月の体を抱え、きちんとベッドに寝かせた。
「ごめん、……辛いだろうけど、もう少し、我慢して欲しい」
自らの体温を分け与えるようにしっかりと咲月の体を抱いて、朔海は再び傷口に牙を埋めた。
鈍い痛みがぶり返す。
だんだんと、末端は冷えが限界に達し、痺れ始めた。血が足りなくて、だんだん視界が揺らぎ、頭痛がしてくる。頭がくらくらして、軽い吐き気まで感じる。
咲月の身体は今まさに、重度の貧血の症状が表れ、それがどんどん悪化していっている状態だ。
そして――気のせいだろうか、手足のしびれとは別に、ピリピリと静電気に触れたような痛みが、時折体中のいたるところをちくちく刺していくような……。
軽度の貧血くらいなら何度か経験もある。けれど、ここまで重度の貧血というのは余程の事がなければそう経験するものではない。
こうなるだろうことは事前に聞いていたはずなのに、実感としてここまで辛いとは思っていなかった。
ベッドに横になっているのに、まるで海に浮かぶ船中の寝台の上にでもいるような揺らぎを感じる。
ようやく朔海が傷口から牙を抜き、咲月の上から退いたときにはもう、自力では半身を起こすことすら難しいほど、身体が鉛のように重く感じるようになっていた。
「……大丈夫?」
朔海は、剥いでいたシーツと毛布をかけ直してくれながら尋ねる。
「なんて……そんな訳ないよね。分かってる。かなり辛いだろう?」
冷え切った頬に触れる朔海の手が暖かくて、それを逃したくなくて、咲月はその手の上に自分の、頬よりさらに冷たく凍りついた手を重ねた。
「ん……。さすがに、平気って強がれる状態じゃないね。……頭痛と、吐き気くらいまでならまだ我慢できるんだけど……、でも……やっぱり寒い……!」
さっきはあんなに暑かったのが嘘みたいに、体の芯から冷えきっている。
全身に熱を巡らせる血が極端に減ったせいだ。
「分かった、少し待って。今、暖かい飲み物を用意するから」
朔海は簡易キッチンの前に立ち、鍋をコンロにかけた。
程なく、甘い香りがふんわりと漂ってくる。
「――どうぞ」
身を起こすのが辛い咲月の背に、ソファにあったクッションを幾つも重ねてくれながら、朔海は大きなマグカップを差し出した。
「ホットミルク……」
湯気の立つ白い液体はミルクにしか見えないが、それにしては随分甘い香りがする。
何だろうと思いながら、一口啜ると――
「ハチミツ……?」
「うん。それと、しょうがをほんのちょっと。身体が暖まるから」
言われてみれば、甘さのあとにほんのわずかな刺激を感じる。
熱源を失った体に、この暖かさは身にしみる。
はちみつの甘さと、ミルクの甘さをくどく感じさせない生姜の後味が絶妙なのがまた、小憎らしいけれど。
「おいしい……」
「それと……これ。布団の中に入れて、足乗っけて使って」
さらに差し出されてのは――
「……湯たんぽ」
昔懐かし、銀色ボディのそれは、文字通り、その筐体の中に湯を入れて使う昔ながらの温熱器具。
今時の家では見なくなったが、確か養父の両親の家で見たことがある。
「貧血の時は、足を頭より高く上げる。これが基本なんだけど……足、冷えるだろ?」
どんなに毛布や布団を重ねても、熱の元がなければなんの意味もない。
自らが熱源になれない現状で、熱を発する物があるのはとてもありがたい。
「あ、ありがとう……」
勿論、これだけで症状が楽になるわけではない。
でも、朔海の心遣いに気持ちだけは少し楽になる。
「それを飲んだら、今夜はもう寝たほうがいい。今日はこれでもまだ初日……あと、5日あるんだ。無理は禁物だよ」
……言われるまでもなく、瞼は重く、油断するとそのまま夢の中へ引きずり込まれそうなくらい眠い。
「僕はそこのソファで休んでるから。もし何かあればいつでも遠慮なく叩き起してくれてかまわないから」
空になったマグカップを受け取り、朔海は言った。
「――おやすみ」




