一日目
ナイトテーブルに空き缶を置く。
カツン、と軽く高い音が静かな部屋に小さく控えめに響いて――
立ち上がった朔海が、咲月の前に立つ。ベッドに腰掛けている咲月は自然、彼の顔を見上げながら、その音に心臓の鼓動がシンクロするように、一際高い音を立てた気がした。
とん、と軽く肩を押され、咲月の背中が柔らかいマットレスに沈み込んだ。
思ったとおり、寝心地は最上だが――残念ながら咲月にそれを味わい楽しむような余裕はどこにもなかった。ドキドキと、心臓が鼓動を一気に早める。
ぽすりと、咲月の頭のすぐ左脇に、朔海の手が沈む。ぎしりときしんだ音を立てて、朔海がマットレスに左膝を乗せた。
自由になる左手が、咲月の頬から首筋、肩にかけての肌をなぞっていく。
間近に迫る彼の顔。肌に直接感じる彼の体温と、肌の感触。
心臓は胸を破らんばかりに猛烈な勢いで高々と鼓動を打ち上げ、羞恥と緊張で目が回りそうになる。
今までも朔海に血を吸われたことは何度かある。その度に少なからず緊張はしたけれど、それでも毎度手首からの吸血で……。
けれど、この体勢はもしかして……?
咲月の予想を裏付けるように、朔海の顔がどんどん近づいてくる。
心臓が破裂しそうなくらい滅茶苦茶な鼓動を叩き、咲月は緊張のあまり思わず息を詰めた。
――と。朔海が動きを止め、苦笑を浮かべた。
「……やっぱり。……咲月、無理してない?」
「――え?」
返す声がかすれる。息を詰めていたせいで、呼吸が乱れる。顔が異様に熱い。
「だって、ほら……。掌に爪の痕がついてる」
朔海の手が、そっと固く握り締められていた咲月の手を開いた。朔海の言うとおり、そこにはくっきりと爪の痕が残っている。あと少し力が入っていれば皮膚が破れて血が滲んでいただろう。
「それに、すごい汗だよ……? これ、風呂上がりだから、ってだけじゃないよね?」
言われてみれば、背中に湿っぽい感触がある。正直、それどころではなかった咲月は朔海に指摘されて初めてその事に気づいた。
「ねえ、咲月。本当に、そんなに急ぐ必要はないんだ。早く済ませる方が良いのは確かだけど、この儀式はどうしたって咲月に大きな負担を強いることになる。だから、無理はしないで欲しいんだ」
咲月を見下ろす朔海の瞳は、優しく柔らかい光を湛えている。
「……君の覚悟を疑うつもりはないよ。でも、現に咲月はこうして怯えている。僕は、君の正直な気持ちが聞きたい。それとも僕は……君の不安を受け止めることもできない情けない男だと思われているのかな?」
僅かに自嘲の色を帯びた瞳を揺らめかせ、朔海は眉尻を下げた。
「僕はこれまで何度も君を守ると言いながら、いつも肝心なところで守りきれずに君に辛い思いや、悲しい思いをさせてきた。……信用してもらえないのも、仕方ないのかもしれない。でも――」
朔海は身を起こし、咲月の上から退くと、咲月の隣に腰掛ける。
こちらに背を向けて、朔海は言った。
「咲月の心を大事にしたい。正直な気持ちを知って、きちんと受け止めたい。僕だって、咲月と生きると決めたんだから。……だからもう、遠慮なんかして欲しくない」
向こうを向いているせいで顔は見えないが、その分必死さが滲んだ声が、咲月の耳朶に響き、そのまま心の奥底まで浸透していく。
「……あのね、朔海。私、男の子の家に上がるの、初めてなの」
咲月は、押し倒された格好のまま、両手で顔を覆った。
「それも、こんな広い家で完全に二人きりで、しかも真夜中にベッドのある部屋で……その、お、押し倒されて……。ど、どうしたらいいのか分からなくなって……!」
そういう方面での緊張に頭も心もいっぱいいっぱいで、そういえばいつしか儀式への不安や恐怖は何処かへ行方不明になっていた。
「これまで彼氏なんか居た事なかったから……! 色々不慣れなの! こんな状態で動揺するななんて無理……!」
半分涙目になりながら、どうしようもなく恥ずかしいのを堪えて咲月は告白する。
「……え」
意外な告白に、朔海が首を捻ってこちらを振り返る。
「確かに話を聞いた直後は怖いと思ったし不安もあったよ。さっきまでは結構緊張もしてたし」
だが、朔海にベッドへ押し倒された瞬間、それらを些事だと思えてしまうくらい、緊張し、混乱した。
「怖かったわけじゃ、ないけど。何て言っていいのか分からないけど、とにかく色々いっぱいいっぱいで……!」
「あー……、と、つまり。こういう……」
朔海の頬が、ほんのり色付き、伏せた瞳に不意に色気が漂った。その瞳が、咲月の瞳を捕らえる。
再び、朔海の顔が近づき――唇に、柔らかいものが触れた。
瞬間、どかんと頭と心臓が暴発を起こす。顔の温度が急上昇し、耳から湯気が出そうな勢いで熱を放つ。
「……ああ、なるほど」
と、一人で何か納得したように頷いた朔海は、にっこり微笑んだ。何か、随分と楽しそうな笑みだ。
「僕も男だし、そういう反応されるとつい可愛くて遊びたくなる」
朔海は、咲月の唇を啄むように、幾度も口づけを落とした。
咲月は最初こそ焦り、慌てて目を白黒させつつ頬を真っ赤に染めていたけれど、少しずつ、身体の緊張が解れ、無駄な力が抜けていく。
身体の熱はどんどん上昇し、心臓の鼓動も早いまま。
けれど、怖いとは思わない。嫌な気は全くしない。
不意に、唇を啄んでいた朔海の唇が、標的を変えた。暖かな吐息が、首筋に触れ、次いで僅かに湿りを帯びた柔らかな感触が、肌を強く啄み、そして――牙が、埋め込まれた。




