ファイナルアンサー
滴る雫をタオルで拭い、咲月ははたと気づいた。
「しまった……着替え、荷物の中だ……」
そう言えば何も持たずにここまで来たことに今更ながらに気づき、咲月は思っていたよりも動揺していたらしい自分に気づく。
咲月は、バスタオルを求めて戸棚を開き――三段あるうち一番上の段から一枚、手に取った。
「――……?」
だが、手にした感触の違和感に、首を傾げながら綺麗に畳まれたそれを広げ――
「――!?」
思わず固まり、一瞬思考が停止した。
タオル地の生地で仕立てられたそれは、おそらくバスローブと呼ばれるもの。
咲月は言葉を失ったまま、手にしたそれをじっと眺める。浴衣のように襟を合わせ、腰に帯で留めて着るタイプの、極めて一般的な形のバスローブだ。
風呂上がりに着るためにある服なのだから、こうして風呂場の脱衣所の戸棚にしまわれていても何らおかしいことはない。――ないのだが。
悲しいことに、咲月の脳内に浮かぶイメージは、洋モノの映画やドラマに出てくる美人な女優や俳優がそういうシーンで身に着けている画ばかりで。
ここが異世界だという以前の問題を今更ながらに思い出した。
わざわざ敢えて確認するまでもなく、ここは朔海の家。――これまでずっと、彼が一人で暮らしていた家だ。そして、そこに今は彼と二人きり……。
当然理解していたはずの事実に、咲月は今更思い至る。
さて、どうするべきだろうか。
放っておけば、際限なく混乱し続けそうな頭を落ち着かせるため、咲月はあえて淡々と考えを巡らせる。
着替えを持ってくるのを忘れた今、これから取るべき行動は次の二つ。
脱いだ服を再び身につけるか、このバスローブを身に纏うか。
しかし、今日一日着ていた服を再び着るのはどうだろう? ――かと言って、バスローブ一枚でこの屋敷の中を歩き回るなど、想像するだけでも羞恥でどうにかなりそうだ。
イチ女子としてのプライドと羞恥とがせめぎ合う中、ふとそれに気づく。
戸棚の下部に、引き出しが二段。何が入っているのかと開けて見れば……。
「着替え……?」
上の段には朔海のものと思しき、そして下の段には咲月のものと思しき部屋着が数着、収まっている。
咲月は上段の引き出しを閉め、中身を改める。
スウェットの上下と、下着が数組。見覚えはないが、明らかに女性向けと分かるそれは、どう考えても咲月のために用意されたものだろう。
……これも、朔海が揃えたのだろうか? スウェットはともかく、下着まで?
ついつい怪訝な顔になるが、何にしろ助かった。
咲月はありがたくそれらに袖を通し、バスローブは綺麗に畳み直して元の位置に戻す。
濡れタオルと脱いだ衣服とを抱え、一階へ続く階段を上っていくと、ちょうど二階から降りてきた朔海と鉢合わせた。
「ああ、良かった。着替えのある場所を教えるのを忘れたから、どうしたかと思ってたんだ」
「……あれは、朔海が?」
咲月の装いに気づいいてほっとしたように微笑んだ朔海は、つい、胡乱な目を向けた咲月に気づいて慌てて首を勢いよく左右に振りながら、同時に挙げた両手を振った。
「あ、違うよ? 用意したのはファティマーだよ。この間、突然、ダンボール詰めの荷物が幾つも届いて。誰が何を送ってきたのか見てみれば、送り主はファティマーで……。荷物を片付けたのも僕じゃなくて、彼女の使い魔だから……!」
言い訳を口にした後で、朔海はがっくりと肩を落とした。
「その後で、しっかり代金の請求書も届いてさ……。これってもしかして押し売りなんじゃないかとも思ったけど、助かったのも事実で……」
結局返品も出来ずに受け取って、しっかり代金も支払わされたらしい。
頭を抱える朔海の背を、咲月はそっと叩く。――妙な勘ぐりをしてしまったことを恥じながら。
「支度は、整った。――部屋に、案内するよ」
朔海は、来た道を引き返して二階へ上がり、突き当りの正面と左の扉の前を過ぎて廊下を右に折れ、その途中にある最初の扉の前で立ち止まり、ドアノブに手をかけた。
開かれた扉の向こうには、これまた広々とした空間が広がっている。
――さすがに階下の食堂や居間程の広さはないけれど、葉月の家で与えられていた咲月の部屋が4つは入ってしまいそうな広さがある。
その広い空間に、ベッドが一台。そのすぐ小脇に置かれたナイトテーブル。ベッドの足元には、咲月の荷物を入れたトランクが置かれている。
ゆったり3、4人は掛けられそうなソファーが一つと、コーヒーテーブルが一つ。
さらに簡易キッチンまでが備え付けられている。
もう、この屋敷に足を踏み入れて以来、一体何度目だっただろうと思いながらも、驚かずにはいられない。
朔海に続いて部屋の中へと進めば、部屋の中に3つ、扉が並んでいる。
何だろうと覗いてみれば、一つはウォークインクローゼット、一つは小さいながらも湯船を備えた簡易のバスルーム、そして最後の一つはトイレ――。
まるで豪華なホテルの一室のような部屋の床は、暗めのベージュ色のカーペット敷きになっていて、そしてこの部屋にもやはり、蝋燭があちらこちらに備え付けられていた。
「本当を言うと、ここは客間なんだ。咲月の部屋は、ここの隣の部屋を空けたんだけど、内装とか家具とか、後で改めてゆっくり相談しながら揃えようと思って、今は完全に空き部屋になってて……」
葉月の家に朔海の部屋があったのと同じように、ここは葉月がこちらの世界を訪れ、この屋敷に滞在する際に使っていた部屋なのだという。
「とは言え、割と頻繁にあっちへ出かけていた僕と違って、葉月がこちらの世界に来る事は滅多になかったし、来ても買い物だけして帰る事が多くて、彼が実際にこの部屋を使ったのは数える程しかないんだけど」
けれど、ベッドやソファー、窓にかかるカーテンの装いは、葉月のような男性が泊まることを想定したにしてはどうにもそぐわない。明るい色味に、花柄などの可愛らしい模様や柄は、どう見ても女性用だ。
「ベッドシーツなんかは、全部取り替えるつもりでいたんだけど。カーテンやクッションカバーまで揃えたのはファティマーだよ。他にも、細々したものとか、色々ね」
朔海は、咲月に座るよう促した。――示された先にあるのは……綺麗に整えられたベッドだった。
彼は、キッチンに備え付けられた小さな冷蔵庫から缶ジュースを2本取り出し、そのうちの一本を咲月に手渡した。
プルタブを開け、一口、口に含みながら、自分はカーペットの上に座り込んだ。
咲月は、言い様のない焦りのような気持ちを必死に抑えながら、おずおずとベッドの端に腰掛けた。
ベッドは、スプリングがよくきいていて、マットレスは驚く程柔らかい。シーツや布団の肌触りも極上で、思わずそのままダイブして、その心地よさを思う存分堪能したくなる程だが……。
咲月はあれこれ全部ぐっと堪え、200ml入りの小さな缶を握り締め、ぐっと一息に煽った。
程よく甘酸っぱい、100%のグレープジュース。
「念のため、最後にもう一度だけ聞く。……本当に、いいんだね?」
朔海は、咲月に真摯な眼差しを向ける。
「儀式を終えれば、咲月は吸血鬼になる。……もう、人間に戻ることは出来ない。それでも――?」
最後の覚悟を問う、朔海の眼差し。頷けば、もう本当に後戻りはできない。
頑丈に封を施したはずの心の中で、閉じ込めた不安と恐怖が暴れる。
それでも、こうして咲月を見つめる濃紺の瞳を眺めていると、不思議と心が凪いでいく気がする。
「――うん。だって、私はその為にここまで来たんだから。当然、そのくらいの覚悟はできてる。だから、大丈夫。だって、人間じゃなくなったとして、私が、私じゃなくなるわけじゃないんだし」
自分で言ってから、咲月は本当にそうだと改めて思う。
咲月が人間であることなど、所詮咲月のステータスの一部に過ぎないのだ。
人間として生まれてきて、人間として育ってきた中で、まさか自分が人間ではない生き物に変わるだなんて、普通はありえないし、だから誰もそんな事は考えないけれど。
身体がどう変わったところで、咲月が咲月のままであるなら、きっと、そう大した問題ではない。
「――じゃあ、始めようか」




