竦む心を奮い立たせて
ここまで、見るからに洋風の――中世ヨーロッパの貴族の屋敷を思わせる内装だったのに、そこだけはある種の異空間のようだった。
ある意味、咲月には馴染み深い光景と言えるその内装に、朔海のあとに続いて部屋へと足を踏み入れると同時にまじまじと室内を見回した。
足元の床一面に敷き詰められているのは、すのこ。壁一面に作り付けられた格子の棚に収められた脱衣かご。温泉旅館や、銭湯で見かけるような、和風情緒漂う、由緒正しき脱衣所だ。
「タオルやなんかはそこの棚に入っているから、好きに使って」
格子の棚の一番左端一列分だけが戸棚になっている。そこを指し、朔海は言った。
「風呂場にあるものは全部好きに使ってくれて良いから」
と、それだけ説明して、朔海はあっさり部屋を出て行ってしまった。
脱衣所の扉がカチャリと音を立てて閉まり、その向こうで朔海が階段を上っていく足音がとんとんと規則正しく、そしてだんだん遠ざかっていくのが聞こえる。
そして廊下へ続く扉の反対側――すりガラスの引き戸の向こうからは、こぽこぽと絶え間無い水音が聞こえてくる。
咲月は、そろそろと中を覗いてみる。
「……う、わあ……」
思わずため息混じりの声が漏れる。
本当に、温泉旅館のパンフレットの写真に載っていそうな大浴場が、咲月の目の前に広がっている。洗い場こそ一人分、用意された椅子や洗面器の類も一人分だが、湯船の広さは明らかに一人で使うには広すぎる。
大人が4、5人手足を存分に伸ばしてくつろいでもまだ余裕がありそうな湯船に、絶え間なく湯を注ぐ給湯口。埋め込み型で、湯船の淵は洗い場の床とほぼ同じ高さのそこから、湯は絶え間なく溢れ出る。
そう、確かこういうのをかけ流し、というのではなかっただろうか。
そして、ご丁寧にその湯船の隣には小さな小部屋が鎮座している。
風呂場の中に、小部屋。――とくれば……
「まさか……サウナ……」
大きさこそ一人か二人入れば一杯になってしまう程度の広さしかないようだが……。
ここが朔海の個人宅である事を考えれば十分すぎる広さであろう。
あまりに本格的な大浴場に、咲月は言葉もなく立ち尽くした。
しかし、いち日本人として、この光景を前に心惹かれない訳が無い。
咲月は、一度、からからと引き戸を閉じ、いそいそと着替え始めた。棚に収められたかごの一つに脱いだ衣服を入れ、朔海に言われた通り戸棚を開けてみれば、白くふんわりとした上等そうなタオルが何枚も詰め込まれている。
咲月は一枚拝借し、そそくさと浴場へ足を踏み入れた。
ほわん、と柔らかく湿った空気が、肌を包む。湯船の湯は、入浴剤でも入っているのか淡く黄味の強い緑色に染まり、湯船や洗い場の床に敷き詰められた木材の香りと相まって、森の中に居るかのような匂いがする。
早く、冷えた体を湯船に浸し、存分に手足を伸ばして寛ぎたい。
そうは思うが、そこはマナーというものが存在する。咲月はタオルを手に、まずは洗い場へ向かい、シャワーノズルを手に取った。
ほかほかと湯気が充満する中、曇りのない鏡に、自分の姿が映り込む。
なんとなく、葉月宅を初めて訪れたあの日の夜を思い出しながら、咲月は鏡の中の自分を眺める。
あの時は、即座に目を逸らしたくなった傷だらけの肌。
――消えない傷跡は、未だ多く残る。
だが、あれから目立った傷が増えることは殆どなくなった。
稲穂たちとの特訓の最中、小さなすり傷や切り傷青あざを作る機会は幾らでもあり、怪我は絶えなかったが、あの程度の軽傷なら数日あれば癒えてしまう。拵えた傷は、後で必ず適正な治療が施され、跡など残さず綺麗に消えた。
あの日まではずっと疎かにしていた肌や髪の手入れも、半年続けた成果が徐々に表れ始めている。
暖かいシャワーを浴びながら、洗い場の脇に取り付けられた棚を見上げた。
ひとまとめに置かれたシャンプー類は、しっかり二人分が用意されていた。
置かれたボトルに貼られたラベルは、どれも見覚えのあるものばかり。そして、明らかに使用済みなのが分かる男物のそれらに比べ、咲月用と思しき女性用のそれはどれもパッケージを開けたばかりの新品だ。
そして、ここにも――
「やっぱり、蝋燭……」
見事に和式に整えられた浴室の中で、明らかに浮いている。
上の階でも、趣味よく整えられた中に不自然に取り付けられ、浮いていたそれだが、ここではさらに異質な存在に見える。
だが、橙の淡い光に照らし出される光景は、なんとなく幻想的な雰囲気が漂う。
せっかく異世界に来たのだ、もしもあれが味気のない蛍光灯だったら――? ……落胆まではしなくとも、少々味気ない気分にはなったかもしれない。
「異世界、なんだよね……」
これまで漫画や小説の中にしかないのだと思っていた世界に、今、自分は居る。
異界の扉、そしてその番人。あの扉をくぐった後、目にした光景――。
まともに目に映ったものは殆ど無いに等しいが、だからこそ異世界に来たのだと強く感じた。
――のに。
この屋敷へ足を踏み入れてからこっち、個人宅にしては広すぎるとか、何かと凝った造りの上等な設えだとか、不自然な蝋燭だとか、思うところはあるけれど、静かで平穏な空気にふと、ここが異世界だという事実を忘れてしまいそうになる。
髪と、身体とを洗い終え、咲月は広い湯船に体を沈めた。肩までしっかり湯に浸かり、手足を伸ばしてぐんと伸びをした。
日本人として育った者として、やはりこの瞬間は至福のひと時と言えよう。
温すぎず、熱すぎず。程良い湯加減に、全身の筋肉がほぐれていく。
(気持ちいい……)
これだけ広い湯船を独り占め出来るとは、随分な贅沢をしている気分になる。
(――でも、……そうなんだよね。だって、王子様……なんだよね、朔海は……)
それは、知っているつもりでも。ついさっきも、彼の“らしい”仕草を見て、つい目を奪われたばかりだったのに。
(彼氏が、王子様って……)
本当に、小説の中の話のようだ。それも、王道のシンデレラ・ストーリー。俗な言い方をすれば、玉の輿というやつだ。
……分かっている。その王子という肩書きで、今まで、そして今も苦しみ、悩んでいる事。
だから――
咲月は、湯船に頭のてっぺんまで浸かり、湯の中へ沈んだ。
全身を暖かな湯が包み、溜まった疲れを癒してくれているのに、心の奥で凝り固まった不安と恐怖が、咲月の心を冷やしていく。
もう、とっくに覚悟は決めたはずなのに。だからこそ、渋る朔海を急かして話を聞いたのに。
予想以上に過酷な内容に、咲月の心は竦み上がった。
それでも、渋る朔海を急かしたのは、間を置いたら余計に恐怖が倍増していってしまいそうな予感がしたからだ。嫌なことを後に回しても良い事はないと、これまでの経験で嫌というほど思い知っている咲月は、精一杯の強がりを口にした。
やがて、息が続かなくなり、水面から顔を上げ、思い切り息を吐きだし、そして新しい空気を肺に一気に送り込む。
冷静になろうと、必死に自分の心と向き合う。
……少なくとも、吸血鬼になることが怖いとか、嫌になったとかいうわけではない。ここへ来る前にした覚悟が挫けたわけでもない。
単純に、儀式の内容――主にそれに伴う苦痛とやらに怯えているだけだ。
例えば、注射を怖がる子供のように。
それが必要なことだと分かっている。それを得るためにはやむを得ない事なのだと分かっていても。怖いものは怖いのだ。
(でも、それが何……?)
咲月はそんな弱い心を叱咤する。
嫌なこと、辛いこと、怖いこと、痛いこと。そんなものは、これまで散々味わってきた。それも、何の見返りもない理不尽な苦痛を、過去に何度も味あわされてきたではないか。
けれど、今回その苦痛を乗り越えた先にあるのは希望だ。それを掴むために、咲月はここへ来たのだから。
不安を全て心の奥底へ押し込み、固く扉を閉ざして鍵をかける。
全てを飲み込み、咲月は熱く火照った体を湯船から引き上げた。




