長い夜の始まり
今居るこの屋敷。――朔海が、魔界の王城を出てからの後ずっと自宅としてきたここは、当たり前だが吸血鬼である朔海が住みやすい造りになっている。
このひと月で色々思いつくまま可能な限り対策を施したとはいえ、やはり人間である咲月には住み辛い環境なのに違いない。
そして、彼女が人間のままでいる限りはこの屋敷から外に出ることは危険すぎた。
――どうする、と問われれば。
それは勿論、可能な限り早急に儀式を済ませてしまうのが良いのに決まっている。
咲月が、この世界において黒い靄しか見えなかった理由は、彼女の持つ“鍵”の力が弱いからだ。
本来、何の力も持たない者は、この世界の不安定さに耐え切れない。あの扉の敷居を潜った時点で、呼吸困難や思考の混乱などを引き起こし、それでも留まり続ければ狂うか、悪くすれば死ぬ。
だが、幸い彼女にはその血に宿る“鍵”の素質があったお陰で、そうなる事は回避できた。
彼女が持つ血の片方、モーティマー一族の血を引くファティマーは、この世界で問題なく商売を営んでいる。彼女にそれが可能なのは、血の素質に加え、その力を引き出し制御する術を修行を積み重ねることで獲得しているからだ。
ただ、素養があるだけでは、この世界に留まることは出来ても、まともに活動することはできない。
異界の番人の発行する許可証は、“鍵”に直接刻まれる。世界の行き来を正式に認められたという証明は、“鍵”に確かな力を与える。
それで得る力は正直微々たるものだが、無いよりはあった方がいい。そう思ったから、あの道を使った。
だから、彼女が思いもかけず頷いてくれたのを素直に喜び、今晩からでも早速儀式に取り掛かるべきなのだ。
――と、朔海の冷静な部分はそう囁く。
しかしその一方で、躊躇う気持ちがある事もまた事実だった。
儀式は、並々ならぬ痛苦を伴う。当然、相応の体力も消耗する。
そうと分かっていたから、ゆっくり休んで落ち着いて、しっかり食事と睡眠をとって養生して――。
その間に、覚悟を決めてくれればいい、……朔海はそう考えていた。
残された時間は、あと半年。
儀式に要するのは約一週間。その後、力の制御を覚えてもらう為の練習期間を合わせて考えても、まだ幾分か余裕はある。
確かに彼女は吸血鬼になる、と朔海に告げた。その決意と覚悟を疑うつもりは毛頭ない。
けれど、それとこれとは別だ。
わざわざ辛い責め苦を負わなければならないと分かっている事をするには、また、それとは別の覚悟が必要だろう。
苦痛を喜ぶ者はまず居ない。本能がそれを忌避し、恐れる。それが当たり前の反応なのだ。
それでも本能を理性で抑え、耐えるのは、それによって得られるものがあり、それが苦痛に耐えるだけの価値のあるものでなければ、覚悟などできるはずがない。
なのに、彼女は言ってのけた。
「いいよ、今日でも明日でも。私、厄介事は先にさっさと済ませておく主義なの」
辛い儀式を厄介事と片付け、どうするのかと朔海に問いかけた。
本当に、彼女は逞しい。過去の境遇から遠慮しすぎるきらいはあるが、その芯は強い。
これ以上一人で勝手に迷っていたら、いつかのようにまた平手が飛んできそうな気もする。
「僕の方は、何の問題もない。本当に、今晩からでも始められる。でも、本当にいいのか? いや、君の覚悟を疑うわけじゃないけれど、今説明したとおり、儀式では体力を大幅に削られる。さすがに今日は疲れているだろう? だから……」
朔海は、咲月の問いかけに対しそう答えを返した。
だが、咲月は首を横へ振った。
「確かに、疲れてないって言ったら嘘になる。でも、大丈夫。元々体力はある方だし、特にここしばらくで大分鍛えたし」
咲月の瞳は揺らがない。
「……分かったよ。なら、今夜、これから始めよう」
朔海は、観念したように椅子の上で姿勢を正し、言った。
「でも、少し待って」
朔海は椅子から立ち上がる。
「部屋の支度をしてくる。……君を迎える支度は当然済んでいるし、儀式に必要な準備も整えてある。だけどさすがに今日の今日でとは思ってなかったから、まだいくつか細々した支度をしなくちゃならないんだ。だからその間、咲月は風呂でゆっくり身体を休めていてくれると助かるんだけど……」
咲月は、頷いた。
――冬も近い晩秋の空の旅は、楽しかったけれど、同時にかなり寒かった。
こうして落ち着いて、物を食べて、随分身体は温もってきたけれど、やはり暖かいお湯の中でまったりできるのは嬉しい。
「こっち。案内するからついて来て」
朔海は、玄関ホールへ続く扉を開けて、咲月を振り返った。
正面に、大きな両開きの玄関扉。左右の壁には扉がそれぞれ一枚ずつ。そして二階の回廊へ続く階段と、階下へ続く階段。
その、地下へと続く階段を、朔海のあとに続いて降りていく。
ところどころに、ぽつりぽつりと簡易な燭台が置かれ、橙色の淡い光でぼんやり辺りを照らしている。
元々窓も少ないこの屋敷では、地上も地下もあまり変わらない。
朔海は、階段を下りた先の突き当りの扉を押し開け――その向こうの光景に、咲月は思わずぽかんと口を開けた。




