SNOWLAND スノウランド
『何か』を失い、『何か』を忘れた冬の国――
さあいらっしゃい、あなたも。
そこから、逃げ出したいのなら。
――おいで。歓迎してあげる。ここは、スノウランド。
陽の当たらない、雪の国……
猛吹雪の夜のさなか、少年カケルは、道に迷っていた。
それなりの身支度をし、防護に気を遣いながらも、それでも凍えてしまって自分の準備の浅はかさを呪っていた。もっと着込んできたらよかった、視界がこんなにも悪いなんて知らなかった、頭がガンガンと痛くなってくる――違う、痛いのは顔だ、雪の粒が風で当たってくるんだ、だから痛い。
髪が硬い、黒くない、白い、凍っているんだ、吐く息で見えないよ。リュックには何を詰めてきたんだっけ、お菓子? 飲み物? チョコはまだ半分以上残してあったなあ……。
カケルは、必死に前に向かって歩いていた。視界は、かなり悪い。子どもの足で膝まですっぽり、積雪は、まだこれから重なっていきそうだった。
どさり。――ついにカケルは前倒しで、雪に埋もれてしまった。
始めはうつ伏せに、だが暫くしてから何とか、ひっくり返ってみて仰向けに寝転んでいたのである。
空は白以外に変化はなく、豪風で、痛さを感じない冷え切った耳に、唸る獣のような音が入り込み、それが辺りにも遠く森まで……響き渡っていた。
(エリの喜ぶ顔が見たかったな……)
カケルの意識は朦朧と。閉じかける視界には、幼い女の子の姿が浮かんでいた。「お兄ちゃん……」横分けに高く分けて結んだ髪は短く、小さな体には大きすぎるだろう粗め手編みのマフラーをぐるぐると巻いていた。お兄ちゃん、とこんな所で聞こえるはずのない可愛らしい声は、カケルに僅かな力を与えていた。そして呟いている。
「……ごめんなエリ、ひとりにさせ……て……」
カケルのまぶたは、閉じようとしていた。もうすぐ、お迎えがくるのだろうと覚悟に似た決意は、静かになろうとしていた。――静かに。
ざく、じゃく、じゃぐ、じゃぐ、ざ……
音は、段々と近づいてきていた。近づいてくる。
それは、重いものが、積雪を、踏みしめている音。――何者かが、倒れているカケルへと近づいてくる音だった。やがてそれは……止まった。
(……?)
音ではなく、気配を感じてカケルは目を薄っすらと開けてみた。するとシロクマが一匹……いや、ひとり? そう思われざるのも無理はなく、見るからにシロクマの格好をした動物が『立って』、カケルを心配そうに見下ろして覗き込んでいたのだった。
訳が分からずカケルは抵抗する気力もなく、その『動物』に例え食われても仕方がないなと諦めで充分に眠りへと落ちて――
カケルは、背負われてしまっていた。毛が、カケルの指に絡みついている。気を失い、背負われたカケルは謎の『動物』に拾われ運ばれていった模様で、その光景を見た者は誰もいない。
思いきり風は吹いているというのに、芯が凍えて……静かだった。
・ ・ ・
ここは、スノウランド。
陽の当たらない、雪の国――
・ ・ ・
枯れたわけではない木々に、妖精そっくりで住んでいる者たちがいた。目は無いのか、それとも毛で覆われて隠れているのか。一メートルにも満たない全身で、雪だるまでもない、綿帽子でもない、鶏でもない。鳥ではないだろう、羽がない。だが獲物をつつける嘴が長くあった、手足もするりと細く長い、だがしかし鳥ではない、何故なら鳴き声が「ふふふ」と、人のようだからだった。
彼らが見つめる先には一軒の、明かりのついた家があった。煉瓦と丸太で造られた家は、雪国なら珍しくもなく、煙突から煙が立っている。煙は途中から風に消されてしまってはいたが、家のなかはとても暖かそうだった。点々と、家に続いていた足跡は、間もなく新たな雪で埋もれて、なかったことにされるのだろう、消えていく。
激しくパチパチと弾くように、暖炉の火が赤く逞しく燃えていた。
カケルは毛布に包まれて、揺れる椅子の上で丸くなっていた。暖炉の前で凍えきっていた体を解凍しながら、炎を見つめて、心臓の音を聞いていた。トクン、トクン。僕、生きてる――じわじわと体温が戻っていくにつれて、実感が湧いてきていた。するとそこに、色あせた赤の服の上下を着た者がドアを開けてやってきた。
白く毛深い、老人だった。
「温まったかね」
しわがれてはいたが元気そうな声だった。カケルはにこやかに、「あ、はい」と素直に答えていた。
「温かいミルクでも飲むがええ……」老人は、自分の淹れてきたマグカップをカケルに差し出した。「ありがとうございます」カケルはまた素直に御礼を言うと、怖がることもなくさらに続けて言った。「一時はどうなることかと思いました」遮るように、老人が口を出していた。「感謝ならベビィに言ってくれや」
「ベビィ?」
首を傾げたカケルだったが、すぐにピンときて続けた。
「ああ、あのシロクマのことですか?」
「そうじゃ」
部屋に置いていた花瓶をいじりながら、老人は振り向きもせずに素っ気なく答えていた。するとそこに、新たな来訪者が訪れる。
噂をしていた、シロクマだった。
「おかえりベビィ。……そのニンジンは……向こうへ持っていけ」老人が指をさして命令していた。コクコク、と頷くだけのシロクマ、ベビィという――は、言われた通りに2つ3つ脇に抱えていたニンジンを持って部屋の片隅へと移動した。速く動こうとはしているようだが、鈍かった。どう見てもシロクマだが、全身が毛むくじゃらでなければ人ではないだろうか。鈍くさい人間――何処かに、いそうだった。
「言葉が解るんですね」
カケルは素朴な疑問を口に出していた。老人は振り向き、カケルに、表情は髭や髪で見えないが関心を初めて寄せていた。
「知らんのかね。ここはスノウランド……全てのものが共存している所だ」
聞いたカケルは驚きもせず、頷いていた。
「へえ……。僕は……」
カケルは知っていた。スノウランドの存在に。
「『外』の世界からきたカケルっていいます。不思議な力を持つサンタクロースに会いにきたんです」
言いたいことを言おうと、カケルは強気でいるらしく、勇ましかった。
「ほう? こんなはるばる、サンタに何の用かね?」
老人が口を挟んでも、カケルの意志は変わらなかった。
「死んだ母さんに会いたがっているんだ、妹のエリが。一日だけでいいから……。一度だけでいいから……『会いたい』って! だから僕。サンタクロースに、お願いをしにきたんだ。噂にきく不思議な力で、僕と妹の願いを叶えて、……って」
意気込んでしまって、じんわりと汗をかいていた。
ここの地へくるまでの経緯を思い出していると、一緒に母親の面影も浮かび上がり、カケルの胸中を駆け巡っている。カケルちゃん、エリちゃん、と柔らかい声、優しげな瞳、温かい手の温度、そして、心。カケルがもし寒さ怖さで震えていたら、きっと抱きしめてくれるだろう、エリが寂しく泣いていたら、頭を撫でてくれるのだろう、見つけてくれるだろう、話しかけてくれるのだろう……記憶のなかで母親は、永遠だった。
「サンタは、ワシじゃが」
テーブルに肘をついた老人が、カケルに衝撃を与える。
「ええっ!?」
これはカケルも予想外だったようで、「あなたが!?」を何度も繰り返す羽目になっていた。
「だが、願いはきけんな!」
サンタだと名乗った老人はよそを向き冷たくあしらっていた。「そんな……何故ですか!?」焦ったカケルは叫んでいる。
「腰が痛くなる!」
そう老人が堂々と言い放ち、カケルは目を丸くして固まってしまっていた。はああああ!? と、カケルは固まったまま動けないでどうするかを悩んでいた。
しばらくの時を置く。
「それはさておき、さっきも言ったが。ここはスノウランド……『何かを失い、何かを忘れた国』」
老人サンタの語りは憂いを帯びる。膨れた指を持つ腕を広げて胸を張り、
(かつて子どもたちに夢を贈ったサンタも)
と、許しを請うように空を見ていた。目は長くなった眉の白髪で見えてはいない。
(今はただの)
老人サンタは言う。子どもの前で、悪びれた様子もなく堂々としていた。
「ワシはとうに夢を捨てた」
繰り返し繰り返し、聞こえないサンタの声は、聞くも苦しかった。
(今はただの)
苦しかった。
「老いぼれじゃ」
カケルは叫ばずにはいられない、立ち上がって訴えていた。
「そんな……! お願いしますどうか。帰れない。このままじゃ、帰れない……!」
カケルにポ、と、光が与えられたにも関わらず一瞬で粉々に打ち砕かれたようで、だが簡単には引き下がれなかった。サンタに会いにきたんだ。願いを叶えるために。カケルの頭はそのようにとても頑固で、譲る気はさらさらなかった。しかし言う。
「残念じゃが。夢を捨てたサンタには、もう魔法は使えんのじゃよ。諦めるんじゃな」……
風が、さらに一層、吹雪を強く増してくる。窓と壁を叩いてカケルに追いうちをかけているようだった。もう帰ればいいのではないか、いや待て、見ろよ外は吹雪だぜ機会じゃないか。どうだ……?
カケルは、そのように諦めたつもりは毛頭なかった。
家の裏に、小さな小屋があった。ベビィは薪を運ぶために持てるだけの分をせっせと雪の地面に積んでいた。
ある程度に積んだ所で持ち上げると、背中から誰かに呼びかけられた。
「それを運ぶのかい?」
薪のことに一生懸命で、気配にはちっとも気がつかれなかったベビィの心臓は、面白く飛び跳ね上がった。ビクビクしながら背を小屋の壁にぴったりと添いガタガタと全身の震えを徐々に大きくさせ、顔を引きつらせて声の主へと向かった。
「そんな怯えないでよ……」
カケルは、すまなそうに手招きをしていた。「手伝うよ!」手招きをしていた手は、ぐっと力を入れて自らに引き寄せていた。ベビィは少し安心したようで、蒸気した白い顔で目を輝かせていた。
(あれ? 額に……)
カケルは思い出していた。最初に、出会った時のことを――ベビィの白い、毛に隠されそうになりながらも付いていたのは、三日月形の小さな「傷」だった。
改めて額を今に見た所、確かに、傷が付いている。傷口は塞がってはいるものの、消えてはくれそうでもない傷だった。古傷だろうか。興味を持ったが、しかしカケルは聞かないでおこうとした。また後で――薪を、家のなかへと運んでいった。
外は凄い吹雪だろう? だから、おさまるまでここに、いさせてもらったんだ。
カケルの言い分を、ベビィはにこにこと笑いながら聞いていた。薪を運んだ後は、夕食の用意をするらしい。ニンジン、大根、じゃがいもといった野菜が食卓テーブルに並べられ始めていった。台所で、今日はシチューでも作るのだろうか、ベビィが鍋を持って支度を始めていた。
「ほとんど押しかけだな」
初めて聞く声が高い所から響いている。カケルたちが振り向くと、戸棚の上で寛いでいた中背の紳士だった。キセルをひとつ、煙を口から吐きながら、自己紹介をした。
「君は?」
「俺か? 俺は『ジェント』。風の妖精さ」
眉をひそめてカケルは訝った。妖精だって! ――カケルは信じられなかった。妖精って、もっと何かこう、神秘的で、可愛らしかったり、小さいものじゃないの? と、イメージとは程遠いなとカケルは思っていた。紳士に見えたのは服装からくるもので、ちゃんと見れば、靴の先はクルンと丸まって、蝶ネクタイは派手で安っぽく、ぽっちゃりした体格に顔、繋がった太めの眉毛、赤いつけ鼻、たらこ唇、中途半端なアフロヘアに中途半端な帽子――どこをどう言ったらいいのだろうか、とにかく、妖精らしくはない。そんな判断を、カケルは下していた。
「変なの。妖精だって。何でこんな所に」
「おっと。この家にいるのは俺だけじゃないんだぜ?」「え?」
「探してみるか? 雪女の『カレン』に、木人形の『ポックル』、人間の『マコト』。ま、全員滅多に集まらねえけどな。ここはスノウランド。ここにいる連中は皆、『何か』から逃げてきたのさ」
妖精ジェントは、せせら笑いながら語っていた。
「逃げた?」
「おうよ」
ちらりと、ジェントはカケルの傍にいたベビィを見て言った。
「そいつだって、仲間のイジメから逃げてきたし」
言われて、ベビィは微かに反応した。構わずジェントは流暢に語るのをやめないでいた。
「サンタじいさんが夢を忘れてああなったのも、辛い現実から逃げてきたのさ――」
カケルの脳裏に、母親の影がちらついていた。辛い現実。床についた母親に、呼びかける子どもたち。病で死んだ母親はその時に、静かに、息を引きとった。
もう会えないと知ったのは、すぐだった。
夢との境が、わからなくなってくる。
ジェントは「気をつけな。カケルさんよ」と忠告をした。
「ここはお前を歓迎しちゃいねえ。お前さんにゃあ帰る所があるからな」そう言っていた。
妹――エリ――の姿が浮かんでいた。
(そうだ。エリが待ってる……)
カケルは、願いを再確認していた。
(待ってろよエリ。絶対願いを叶えてやるからな……)
ボーン、ボーン。違う部屋にあるのだろう、古時計が時刻を知らせている。
風は弱まり、でもまだ、雪は……止んではいない。
・ ・ ・
夕食は、根野菜を使ったシチュー。広間のテーブルに盛った皿が並べられて、カケルがまだ知らない者たちが集まってきた。白い着物姿で色白の女性、キャップを被った子ども。人の姿ではない、木で組み立てられたような人形のような姿の者――カケルは、先ほどジェントが言っていたことを思い出していた。
雪女の『カレン』に、木人形の『ポックル』、人間の『マコト』。
それぞれが部屋にやって来て席に着き始めると、カケルは、彼らがそうなのだと思った。用意されていた食事があと4人分。空いていた席には、後からやって来たサンタと、ジェントが座った。
ベビィは支度を続けていた。カケルは座ろうとして、その前に窓を指し、ベビィに聞いていた。
「ベビィ、外のあれは一体何なんだい?」
コップを運んできたベビィはその手を止めて、カケルの方を見て気がついた。
カケルが言う「それ」とは、窓の外の、大木にまとわりつく「彼ら」のことだった。枝に立ったり座っていたりしがみついていたり。目は毛で覆われているのか、足は細長く、ほこほこの鳥のようで、嘴が鋭かった。よく見れば、手もスラリと細く、膝を抱えていたりする。
数が異常なほど居た。薄暗くなった外の視界のなか、遠くにある影も推察すれば、何百何千とも見れた。しかし不思議なことに外は不気味なくらいとても静かで、「居る」ことを除けば特に害はない。
「ずうーっと、こっちを見てる……」
自然で自由奔放、野生。気ままそうに、寛いでいるのだろうかとカケルは窓から目が簡単に離せなかった。「ナイトスノウよ」助言したのは、着物姿の女性だった。恐らく雪女のカレンさん……カケルは声には出さなかったが、気にしなかった。
「この土地の先住民で、暗い所じゃないと姿は見えないの。あなたみたいなのが珍しいんでしょうよ」
窓に張り付いていたカケルの所に、一匹のナイトスノウとやらが木から降りてきて、外から窓ガラスに両手をベットリとつけて「ニカ」と笑った……初めて口があるのを見た。嘴と思われたものは嘴ではなかったのか? 人のような口が下にあった。一種の謎だった。
「面白い奴らですね……」
初め驚いて目をまん丸にさせていたカケルだったが、慣れてくると親しみが沸いた。グーをすればパー、チョキをすればチョキの手が返ってくる。愛嬌のある仕草に、カケルは笑いが込み上げてくるようで堪らない。
「そう?」
ツン、と。顔を背けてカレンは言い放った。「鬱陶しいだけよ」どうでもいいように食事を始めた。
「あいつらも。……人間も」
食べ始めていたシチューのなかに仕舞い込むように、呟いた声。
カケルは思い出した。ジェントの言葉を。
『ここにいる連中は皆、「何か」から逃げてきたのさ』
そして、こうも言った。
『辛い現実から逃げてきたのさ――』
気をつけな。カケル。
ここはお前を歓迎しちゃいない。ここは、スノウランド。『何かを失い、何かを忘れた国』。
『何か』。
『何か』とは、それぞれ何。それは――
吹雪く風空の下で、カケルに問われた問題だった。
・ ・ ・
アメリカ大陸よりももっと北、カナダ北東にあり、島の大半が北極圏になる世界で最大の島、『グリーンランド』。アイスランドを発見した欧州人は、人が住むようにと願い約80%以上は氷床と万年雪に覆われている厳しい寒冷のこの地を『緑の島』と呼んだ。
漁業や狩猟をする生活者が多く、寒気候のため野菜や果物などの栽培は育たずしていない。魚やアザラシの肉を主に食し、含まれている成分のため脳梗塞や心筋梗塞になる人はいないと言われているほど血液がサラサラで、非常に健康的だった。
ここで暮らす少数のイヌイットは、この厳しい極地で大自然を前に、彼ら自然と共生することを選んだ。「雪」を示す言語は30以上も持っているのだが、「戦争」を表す言葉を彼らは持ってはいないという。死生観が大きく異なり、彼らは平和を愛した。
だが今は栄え、自給自足だけには偏らない発展した『国』になりつつある……。
――おいで。歓迎してあげる。ここは、『スノウランド』。
陽の当たらない、雪の国……
豪風が少し治まって、わずかばかり静かになると、奇妙な声がした。暖かい暖炉のある部屋で毛布に包まれたカケルは、寝転がっていたソファで目を覚ました。
それは本当に耳を澄まさないと聞こえないくらいの微音量で、気がついたカケルは奇跡にも近い。奇妙な音――ピヨ、ピヨと。雛の鳴き声か? と思わずにはいられなかった。
(外から……)
カケルは、起き上がった。暖まった室内にいるため、寒くはない、だが、外は当然のことながら冷えるだろう、カケルは厚着になって防寒に気を遣いながら、部屋を後にした。
暗がりの廊下を渡り終えてすぐ、押し戸を開けて外へと続く。一面の銀世界は変わることがないが、幸いなことに吹雪は止んでいた。
雪をかいて掬うと、まるで特殊な性質で、重さを感じず、綿菓子のようで、こぼれ剥がれた雪の粉が溶けずに顕している。
(何処からなの……)
辺りを見回すと、白のなかに黒、色のある物が少ないなかで、目立つ影が見えた。
林のなかで、人影がひとつ。カケルと同じくらいの子どもだった。
(あれは……知ってる)
そんなに離れた場所ではない。足跡も残っていた。カケルは追うように雪を踏み、埋まりながらも時間をかけてそこへ辿り着いた。相手も気がついて待ってくれているかのように、ジッとして動いていなかった。
「マコトさん」
呼びかけてみた。
しかし、返事はなかった。マコト――カケルが晩飯で見たそのまま、キャップを被り、反発を絵に描いたようなジャンパーを着ている。白い息を出してはいるが、寒さを撥ね除け表情は頑なだった。
「……」
「……」
無言の時間が過ぎる。
空気が凍っていた。林のなかにあれだけ無数に居た住民はひとつもおらず、存在しているのはカケルとマコト、それから、彼らの足元にいる――「ピヨ」。
一匹の、ナイトスノウの子どもだった。
「その子は……」
暗い所でしか姿が見えないと言われるこの地の住民であるナイトスノウだったが、子どもでも確かに、居た。
「親からはぐれたんだ」
子どもは白い毛玉の如く丸まっていて、嘴の下から産声のように上げている。ピイ、ピイ。ピイ、ピイ。ピヨ、ピヨ。こんな小さ過ぎる声が部屋まで届いたとは信じられず、我が耳をカケルは疑った。
親からはぐれた? 成る程、そうなのか……。それ以外には考える頭を持ち合わせてはいない。「じゃあ……」と、カケルは傍の林を眺めた、静まりかえった周囲に動物の気配は感じられない。
「……俺と同じさ。親に見捨てられた……」
ナイトスノウの子どもを両手で包むように掬い上げた。その目が、何かを訴えている。
(マコトさん……?)
カケルは疑問に感じていた。言葉の意味がわからず。
「連れて帰ろう……」
吐き出した息に、ナイトスノウの子は、包まれている。
凍えながら、ここ(スノウランド)へ来た(にげた)。
『何か』を忘れて。
火が消えることのない暖炉の前で、カケルは昼になろうとしている時刻まで、大きな椅子の上で過ごした。体が充分に温まっているおかげで、ウトウトと眠くなって寝て見た夢は、酷くはない。目を開けると、向かい合わせになって同じように椅子に座ってカケルを見ていたジェントに気がついた。
「はよ」
気さくに挨拶し、吊り上がった目や口元は変わらず、ピエロのような表情は一緒で、笑っているのだが、それは歪んでいるようにも見えるし、又は楽しんでいるだけのようにも見えた。
そういえば妖精だったと、カケルは寝ぼけた目をこすった。
「おはよう……マコトさんは?」
「いねえよ。部屋だろ。ここにはいっぺんも来てねえ」
「そう……。ナイトスノウの子、大丈夫かな」
つい心配が口に出ていた。
「子?」
「親からはぐれたんだって言ってた。俺と一緒さ、とも……」
「ああ、そうだな」
何とでもないように答えたジェントに、カケルは驚いて視線を向けた。
「どういうこと?」
「マコトは……」
片手に持ったキセルに火をつける。
「マコトは、親に捨てられたのさ。行き倒れていたのをサンタのじいさんが拾ってきたんだ」
暖炉の隅にベビィが現れ、椅子に座る。
ジェントは思い出しながら刻々と、時を刻むと同じくらいのペースを持って語り出していった。当然、カケルには興味が津々で、揺りかごに揺られている赤子のように穏やかに、されるままになっている。
暖炉の火が時々、生命のようにパチパチと音を立てていく。
「皆……何か、辛いことがあったんだね。ここに来る前に外の世界で」
自分の声が遠い。とても現実とは思えなかった。
「まあな。俺は、住んでた所が居心地悪くなってこっちに逃げ込んだ。度重なる住宅開地、道路拡張、山林破壊。外の奴らにゃ俺たちの声は届かない。外の奴らにゃ、木人形のポックルも酷い目に遭ってる」
抑揚の無い声は、カケルの心に吸い込まれていく。
「作っただけで後はポイ」
目は何処か虚ろで、手で廃人の真似をした。
「捨てられたポックルは、ゴミ箱から何とか這い上がって、ここに来た」
カケルは、涙する。「うっ……」とめどなく水が目から溢れていた。
(どうして辛いことばかりなの……?)
悲しくて苦しい現実が襲ってくる。
とても耐えられなくなり、カケル、そしてベビィは連れだって外へと出て行った。
雪は風で吹雪いている。
この世界に太陽はないのだろうかと思えるくらい、光を探した。しかし見当たらない。いつも薄暗い、視界は森を見渡せるのだが、光というものがそもそも無い、真っ白な「闇」。
家を離れると迷いそうになって、足が進まない。ますます冷え切って寒いだろうし、この暖かい空間に、出来たら居続けたい――。純粋な欲求は、満たされないのか。満たしてくれるのか。
どちらか。
「薪木、いつもは何処まで取りに行っているの?」
カケルの質問に、横に居たベビィは頷いて、前方を指さした。あっちだよ、と教えてくれている。そしてカケルを案内するように前を先に歩き出して行った。
(ベビィは)
カケルの頭に、僅かな閃きがあった。『それ』は決して聞いてはいけないことなのかもしれないと、最初は思った、だが。
しゃぐ、しゃぐ、しゃぐ……
両者、だんまりで足を休ませずに歩いていくと、雪を踏む音だけでは飽きてくる。カケルに悪気の無い「興味」が勝った。
それは家からもう既にかなり離れた場所だった。山に入って、ベビィの背後で、カケルは決心して聞いていた。
「ベビィ、その傷だけど……」
三日月形の小さな「傷」は無論、ベビィの額に今も尚、張り付いている。それが今になってまた思い出されて、カケルの興味を引いたのだ。「その傷――」振り返るベビィに、表情は無かった。
ジェントは教えてくれた。ベビィがここに居るのは、仲間からのイジメから逃げてだ、と。
「その傷、イジメられてた時に付いた……傷だね?」
聞いたのも確信に近かった。
見るとベビィは、済まなさそうに笑って、頭を掻いていた。隠せないでゴメンねとでも言いたげでもある。それが何だかカケルには許せなかった。
(笑わないでよ)
唇が震えて、上手く発音できるのかどうか、自信がなかった。「ベビィはここに居て……幸せかい?」聞くのが本当は怖い。
しかし、それよりも……である。
ドドドドド。
地鳴りが遠くからと地面と、近づいてきていた。「?」
すぐに異変に気がつき周囲を見渡す、カケルとベビィ、音はかなりに派手な演出になっていくのか、心臓の音を連想させるように、ドクドクと脈打つかのように、次第にそれが大きく忍び寄ってくるようで……不安が、大きくなる。「何の音?」まだあどけない声でカケルは尋ねていた。
それは瞬間。
白い世界が襲ってくる。
「あああ!」
雪が、雪崩が、迫ってきていた。
「ベビィイ!」
ちょうどカケルたちが居た地点の頭上から、山の斜面を「駆け下りて」きた積雪は、魔物のように襲いかかってきた。ドドドドド。叩く音が凄まじい。ビュオオォ、風が応援してるが如く、凍りそうな空気のなかを忙しく吹き荒れる。カケルたちを丸めこんでいく。
「……!」
息が出来ない。
・ ・ ・
壁にもたれかかったジェントは、片膝を立てて、考えごとをしていた。特に重要なことを考えているわけでもなく、「ぼうっとしている」ようにも見えた。だが、彼の前にいる老人に目が行き、つい、言葉が、考えるよりも先に出てしまっていた。
「……まだ引きずってんのかい?」
暖炉では休みなく火が焚かれて、彼らの顔を赤く染めている。目が細くてよく見えてはいない彼らだが、しっかりと機能としては働いてはいるようだ。老人、サンタは、ある装飾品を手に持っていた。それは古びており明らかに新品ではなく、傷みが激しかった。皮で出来ているらしいそれは恐らく、「首輪」という物なのだろう。
「死んだトナカイのことを……」
哀れむ声ではなかった。起きた出来事の事実を伝えるために発しただけの、感情の無い低い声。ジェントは続けて言った。
「外の奴らに殺されたことを……」
行き場の無い感情のために出された声といってもよかろう。
遠くで鳥が鳴き、
それを聞いた空が受けとめて、
雲になって、雨になって、
川に落ちて、下る。
その繰り返し。
だが雨は雪となり、粉となり、
時間をかけて、時間をかけて、
水に溶ける前に、我々に、
考える時を与えてくれるのだ。
『何か』を失ったサンタの爺は、ため息のような声を出す。「忘れられるもんかね……?」
隠れた目には僅かな光が見えた。
バタン!
乱暴な音でドアが開き、静かな部屋の空気を一変させた。
「助けて――ベビィが!」
怪我もない、無傷のカケルが滅茶苦茶な息を吐きながら飛び込んできたのだった。
「僕を庇って雪崩の下敷きになったんだ……! 早く――早く! ベビィを……ベビィを助けて!」
部屋にはジェントとサンタの他に、カレン、マコト、ポックルも居た。ただ、お互いの所有を邪魔しないようにか干渉したくはないからか、それまで会話はなかった。
一番に声を発したのは、雪女であるカレンである。
「無駄よ」
落ち着いた声は、女性の声でありながら、重かった。「私たちが行っても何にもならない。雪崩? そんなもの、どうすることも出来ない。二次災害にでもあったらと思うと嫌ね、巻き込まれたくないわ。どれだけの積雪があるのかしら……思ってるの?
諦めるのね」
カケルは愕然とした。
「何だって……?」
聞いた内容が、信じられなかった。
「仲間じゃないか……!」
「プッ」
すかさず、ジェントが堪え切れずに吹き出した。
「『仲間』! 『仲間』!? いつから!? カケルさんよ、何か勘違いしてないか? 俺らは別に協力し合ってここに居るわけじゃねえ。好きなことを好きな時に好きなだけする。他人なんざ知らねえ、個人の自由が全ての国。スノウランド」
彼の言うことが大胆で、凄まじき。
「あのクマ公だけさ、他人を庇ったり手伝ったり食事の支度したり。世話焼くのが好きなのさ。それも自由。俺らはやらない、向こうが勝手にやるだけ。俺らは一切他人の手助けなんざしねえさぁ」
カケルの耳には念仏のようにも聞こえた。耳に入ってきてはいても留まらない。
(そうか……)
脱力していった。体に電気が流されて麻痺した患者のよう。
(そうか……)
受け入れには時間がかかる。ジェントの言葉が今一度、カケルに侵入していく。
(この連中が失ったもの、なくしたもの。僕が失いつつあるもの。それは――)
手に力が込められていった。出所の分からない力が。
『それ』は? ――
『希望』
カケルの両目からは涙が流れ、打ち砕かれた心はそれでも抵抗しようと足掻き。
カケルからは言いたくもなかったことが飛び出されていた。
「サンタさん。お母さんのことはもういいから……だから――」
カケルは悟った。ただ信じていただけ。ただ、幸せに平凡で平和な毎日を、望んでいただけだったと。信じていただけ。この幸せが永遠のものだと。母が居た頃は。
信じていただけ。
「ベビィを助けて……!」
それでも尚、他人にすがる。
失ったものを埋めるために。
・ ・ ・
春の来ない土地に、咲かない花。
ここは、スノウランド……来るのも帰るのも、あなたの自由。
『何か』を失い、『何か』を忘れた冬の国。
さあいらっしゃい、あなたも。
そこから、逃げ出したいのなら。
――おいで。歓迎してあげる。ここは、スノウランド。
陽の当たらない、白の国……
桜が丘養護施設では、可愛らしい雪が降り始めていた。頬に触れても角がない、優しい雪だった、と後で言う。
「見てお兄ちゃん。雪だよ」
まだ成熟していない声が、窓の端から聞こえている。「本当だ」認めて出た声が返ってくる。
「どうして雪は白いの? お兄ちゃん」
「え? それはね、そうだね、うーんとね」
虚を突かれて困ったように、少年の目は何処か泳いでいる。「たぶん……」窓の外の雪に助けを求めてついに出た。「白が好きだったんだよ」妹のエリは、それで満足したようだ。「そうなの」カケルは恥ずかしそうに、エリに向かって大きな声を出していた。
「早く寝ろよ! また園長先生に怒られちゃうぞ。知らないからな」「はぁい」
兄妹は、それぞれが並べて敷いている布団へと戻っていき、眠りについた。明かりが消され、暗がりのなかでスウスウと、微かに寝息が聞こえていた。
雪は何故白いのだろう。
それはね、白を選んだから。
誰からも逃げられて、染まらないで、染められるために?
それとも。
自由を求めて。
遠くで鐘が鳴った。
明日を知らせる鐘だった。ここは自由の国ではない。明日がやって来る。
働く鐘だ。
少年カケルは朝までに、夢をひとつ見ていた。
雪崩で沈んだはずのシロクマが、何でも無い顔をして、家へ帰ってきた夢だった。
「何で!? どうして助かったの、ベビィ!?」
諦めかけて床に手をついていたカケルの前に、突然に訪れた奇跡だったろう、焦点の合わない目で前を見つめた。ベビィは確かにそこに居た。
照れて頭を掻きながら、笑っている。足元に現れていたのは、ナイトスノウたちだった。数匹とベビィを囲んでいて、ピースサインを見せている者もいた。
「はは、こいつら、掘り起こして助けてやったんだな」
遠巻きにそう助言してくれたのは、舌打ちしたジェントだった。彼なりに光景を愉快に眺めているらしい、言うと背を向けて去って行った。「ありがとう。本当に」カケルはナイトスノウの手を掴み、拝むように顔を伏せた。「本当にありがとう……」涙が止まらず、水滴は床へ。
「ピ?」
首を傾げたナイトスノウは、ただ鳴いた。
『お母さんのことはもういいから――』
一度言ってしまったものに、取り消しがきかなかった。母に会わせてと頼みにきたはずが、願いは叶わずに直ぐに帰ることになった。
だが奇跡は二度目で訪れる。
夢を見ていた兄妹に、舞い降りた天使ではなく――母親。まるでいつまでも一緒に居るんだよと、物語っているかのような視線である。だが残念なことがあった、安らかな寝息を立てている兄妹が、それに気がつくことはなかった。
空からは静かな雪が降り続いていくと、やがては下に、白が積もっていく。地面が白に、屋根が白に、そうして町が白に洗われた、そのなかで気まぐれに、三度目の奇跡は訪れる。雪が星に変わる――。
星が降った、空の向こうで。
気まぐれな老人、奇跡を起こした張本人は「腰が痛くなる」と、さぞ嘆いていることなのだろう。
《END》