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暁を告げる声

 真紅の薔薇さえ思わせるほどシャツを染めた右手の傷は僅かに名残を残すほどになった。

 それほど深くはなく、活動に何ら支障は来たさず、「躓いたときに伸ばした腕が硝子を突き破った」という言い訳も大部分の人間にはすんなりと納得された。普段の行いがいかに品行方正か分かるというものである。納得しない人間には正解に当たらずとも遠からずな言葉を放り投げた。解釈は相手に任せる。

 しかし、傷が薄くなるにつれて漣の表情には疲労が深く刻まれるようになった。目の下の隈も僅かにこけた頬も決して容姿を損ねるものではないが、それでも痛々しいことに変わりは無い。

 そんな周囲の心配をよそに、漣はさらにも増して自分に配分する仕事を多くし、一人で残ることを多くした。

 さりげなく手伝おうとする早苗や聖を難なくかわし、一人で生徒会室に篭る事が多くなっている。

 街は祭りが近く、ざわめいている。しかし、その喧騒も市街地から少し離れた高校までは届かない。

 まるで周囲の音を聞かなくなった漣のように、白い建物だけがぼんやりと夏の空気に漂っているようだ。

 だから、居心地がいい。

 漣は宙を見た。そこには何も無い。

  

 アナタナンテイラナカッタ。

 母の言葉が不意に蘇る。胸の辺りがざわついて、気分が悪い。

 真新しいシャツの胸元を掴んで、身体をくの字に折って寄せては返す感情の波をやりすごそうとする。

 いらなかった、いらなかった。その裏には「お前さえ居なければ、私も貴也さんも幸せだったのに」という言葉が見え隠れする。

 気付きたくない、触られたくない。誰かと居れば、その皮膚一枚の所の感情を暴かれそうで怖い。

 ここ数日、頭を占めていたのはそのことばかりだった。

 気の置けない仲間達が急に怖くなった。手を、視線を避けたくなった。鋭い早苗と聖を近づけるわけには行かなかった。思慮深い慶一郎も直感で接してくる英次も怖くてたまらない。

 皆の顔を見るたびに胃から、心から何もかもが逆流しそうになる。

「くそっ」

口元を押さえたまま、漣は生徒会室を飛び出しトイレに駆け込んだ。

 気が緩んだ瞬間、強烈な酸が食道、口を焼いて外へと溢れ出る。独特の臭いがさらに嘔吐感を誘う。

 何も食べていない。ほとんど眠れていない。吐いては微睡み、また吐くことの繰り返し。一晩のうちに何度も思い出すたびに吐き、食事を摂る気も睡眠を摂る気も失せていた。唯一の救いは父親が長期出張で留守にしていることだ。無駄に心配かけたくない。母親の言葉を確かめるのも恐ろしい。

 荒い呼吸を繰り返し、やっとの思いで口を洗う。廊下に出ると、生ぬるい風が頬を撫でていった。

 壁に凭れ掛かり、そのまま滑り落ちる。一番深い所で溜まっている息を全部吐き出した。背中に当たる壁だけが冷たい。火照った身体を持て余した漣には心地好い冷たさがじわじわと染みこんで来る。

「嫌だなあ……」

このままでは友人達も愛想を尽かしてしまう。ある程度の痛みは我慢して、理解してもらうのが正しいだろう。

 でも、それは、別の恐怖も付いてくる。今はその恐怖を否定するための要素が無い。

 八方塞、とはこのことだ。打つ手が見つからない。

 座り込んでいてもどうにもならない。漣はもう一度息を吐くとゆっくりと立ち上がった。

 飛び出したときのまま、生徒会室の蛍光灯は煌々と光を放っている。

 中を覗いて、漣は音を立てて固まった。

「やけにだるそうな顔をしてるな。寝不足か」

優しい声音に漣は一歩退いた。全身で拒否反応を示している。

 がたり、と椅子を動かす音がして、漣の表情がさらに強張る。

「折角卒業した先輩が慰労に来ているのに、なんでそんな顔をする」

「な、なんで」

「夏休みだから」

(夏休みだから?夜に居る理由がそれか?)混乱する漣の頤に指がかかる。漣は小さく息を呑んだ。

「言うべき言葉があるだろう、日向」

「……お帰りなさい、冴木先輩」

「よろしい」

在校時、歩く怪奇現象と恐れられた前々生徒会長、冴木綾人が微笑を浮かべていた。


 頭脳明晰、品行方正、眉目秀麗。どの四字熟語も綾人に当てはまる。しかし最もふさわしいのは複雑怪奇。

 有能だが有能すぎて、普段の彼と話をするためには先の先の先の話をしなければならなかった。自然と付いていける人間は限られてきて、漣と慶一郎は綾人と何とか話が出来るというだけでスカウトされた。

「それにしてもこの時間まで何に手間取ってるんだ」

そう言いながら並べた書類の上を目でなぞる。そして僅かに柳眉が逆立つ。

 何か言いたげな綾人の目の前に入れたてのコーヒーを置いた。

「どうぞ」

「ありがとう」

在校時からカフェイン依存の気配があった。とりあえずコーヒーがなくなるまではあまり際どい話は持ち出してこない。綾人封じと呼ばれるコーヒーを入れられるようになるまで1ヶ月かかったが、それだけの価値はある。

「で、この時間にどうしていらっしゃるんですか」

「聖に泣きつかれた」

「は」

「『日向君が無理してる。自分では無理だ』だと。その後に『毒を持って毒を制す』とか何とか言ってたけど」

そこでカップから唇を離し、綾人は怪訝な表情を浮かべた。

「日向、お前、聖に『毒』とか言われるようなことしてるのか」

自分が毒と言われたことにはつっこまないのか、と思いつつ、漣は首を振った。

「覚えはありません」

だろうな、と呟き、綾人は再びコーヒーを口へと運んだ。

「吐いて、碌に眠れなくなるまで何を抱えてる」

びくり、と漣の背が揺れた。恐怖に近い感情が治まりかけたものを再び揺さぶる。

「な」

「日向。『幸せの重ならない近しい人』って誰だ」

畳み掛けるような痛点を突く質問に声を詰まらせる。『幸せの重ならない近しい人』。硝子を突き破るほどの動揺の理由として聖に放り投げた言葉だ。呼吸を整えてから視線を綾人の目に合わせた。

「答えなければ、いけませんか」

「どうせ、母親だろうから、答えなくても良いけど」

両親が離婚し、父親と暮らしていることは周知の事実であった。父親と暮らしているのだから、問題があるのは母親との間だと推測したのだろう。

「正しくは両親ですけど……同じようなものですから、まあ、良いです」

静かに言葉が出てきたことに驚くと同時に確信する。誰かに聞いてもらいたかったのだと。

 どうせ9月には居なくなる。そう思うと少し気が楽だった。

「先輩は親に要らない、なんて言われた事無いですよね」

「無いな。母親には『あんた、やっぱり変わってるわ』と笑い飛ばされるけど」

「先輩のお母さんが大らかなのは知ってます……俺は、そう言われたんですよ。生まなければ、今も両親は幸せだったって。ちょっと、ショックでしょう。俺、母親のことよく覚えてなくて、勝手に優しいのを想像していたから、余計にショックは大きかったんです」

正確に言えば、期待していたのは優しさでない。後悔だ。別れなければ、良かった。三人で暮らしたかった。その言葉が欲しかった。

 豪邸でも三畳一間でも何処でも良い。三人で普通に暮らす。それが漣の描いていた幸せ。

 けれども両親の幸せは、二人で暮らすこと。

 同じ幸せでも上手く重ならなければ、途端に不幸に早変わりする。

「最近じゃ、珍しく無いよ。子供に要らない、って言う親。何もお前だけが不幸せじゃないだろう」

「わかってます。それは、もう良いです。諦めたので」

「じゃあ、仕事を増やしてるのは」

漣は沈黙した。理由はある。あまりに浅ましくて言いたくもない。

 仕事を出来る自分。仕事をしていればここでの居場所はある。

 奪われまいと必死な自分。要らないと言われることを恐れる自分。それを仲間達に知られるのが怖い。

「馬鹿だなあ」

綾人が笑みを浮かべて言った。この人に隠し事はできない。けれども子ども扱いされたようで少し腹立たしい。

「これでも、必死なんですけど」

「わかってるから馬鹿だって言ってるんだよ」

舌鋒鋭い綾人の手元を覗いて漣は細く息をついた。コーヒーが無くなっている。

「必死にならなくたって良いんだ」

綾人はいつになく真剣で優しい目を漣に向けている。そういえば意識すれば普通に会話できる人だったと今更ながらに思い出した。

「皆、お前の優しさに気付いてる」

「優しさ?そんなもの、ないです。ただ知られたくない、臆病なだけで……」

「優しいんだよ、お前は。本能的に他人を守ることを知ってる」

綾人の腕がすっと伸び、漣の頭をゆっくり撫でた。父にされたこともあるが、ほっとする。ゆるゆると肩から力が抜け出ていった。

「大丈夫。お前は母親のようにはならない。自分のために他人を犠牲にしたりしない」

不意を突かれて漣は言葉を失った。綾人はまだ漣の頭を撫で続けている。

「自分が悩み疲れていることを言えば、皆が同情して、自分に仕事をさせないだろう。そうして、やりたいことも出来ずに、不満も言えずに、ストレスが溜まって、内側から崩れていく……今のお前みたいに。そう考えてしまうから他の人に渡したくない。心配させたくない。お前が守りたいのは、皆なんだよ。お前の居場所じゃない。お前が居なくなって、疲れた顔で穴を埋める皆の姿が怖いんだ」

「そんな……違いますよ。俺は、そんな出来た人間じゃ」

「自分が辛いのを抱え込めるだけでも優しさだ。最近じゃ出来る奴は少ないから。何も言わず、ただ笑っていられる強さが、皆を守ってる。別に仕事ができるからじゃない。そういうお前だから皆が集まってるんだ。人間には防御本能があって、自分を傷つけない、守ってくれる人間を直感で選び出す。自分本位で器の小さい奴には誰も集まらない」

ちょっとかっこつけすぎたな、という呟きと共に綾人の手が離れていく。漣が顔をあげると、綾人の手が別の何かを示していた。

「聞こえないか」

何が、とは問わなかった。誰も居ないはずの廊下に数人の足音と微かな話し声が波紋を描くように広がり、近づいてきている。

 ここにいる理由は2つあって、と綾人が呟いた。

「早苗からメールが来たんだ。皆で花火を買ってきますから、お前の話し相手をしてあげてくださいって」

あいつらはお前を独りなんかにする気は無いぞ。むしろ巻き込んで力一杯遊ぶ気だ。

 そう言って綾人は艶めいた笑みを浮かべた。


 いつも独りだと思っていた。独りで仕事をし、会話をただ聞いて、稀に相槌を打つ。

 でも、彼らと一緒なら楽に呼吸ができるのも分かっていた。

 だから、手放したくないし、見放されるのも怖くて、自分に出来ることをすることが自分の存在理由だと思っていた。そうしなければ、皆に要らないと言われると思った。

 でも、綾人によるとそういうことでは無いらしい。本当かどうかはわからないが、直感で選ばれているらしい。気休めにはなる。

 普通の幸せは手の届かないところにある。でも、十分幸せじゃないか。

 近づいてくる彼らの声に誘われて、ゆっくりと光の中へと浮かび上がる。

 

お読みいただきありがとうございました。これでこのお話は終わります。

本当にありがとうございました。

*主な登場人物

 日向漣ひゅうが・れん:御代高校2年生。生徒会・書記

 深山慶一郎みやま・けいいちろう:御代高校2年生。現生徒会長

 鷹匠早苗たかじょう・さなえ:御代高校2年生。生徒会・会計

 常盤英次ときわ・えいじ:御代高校2年生。生徒会・総務。聡一の弟

 水田真菜みずた・まな:御代高校1年生。生徒会・書記

 常盤聡一ときわ・そういち:御代高校3年生。前生徒会長。英次の兄

 宮原亜美みやはら・あみ:御代高校2年生。生徒会・会計

 冴木聖さえき・せい:御代高校2年生。綾人の妹。

 冴木綾人さえき・あやひと:大学1年生。御代高校前々生徒会長。聖の兄

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