青天の霹靂
夏休みが始まると、生徒会は急に忙しくなる。
最大のイベント、文化祭の準備を始めなければならないからだ。
昨年は前々生徒会長の「まあ、なんとかなるんじゃない」発言により、未曾有の大混乱に陥った生徒会だが、今年は漣が一切を取り仕切り、すべての部門に完璧に組み立てられたスケジュールが配られた。大体の筋道さえ示しておけば、後はそれぞれの部門のトップに任せれば大丈夫だ。普段は遊んでいても、それぞれがスカウトされた精鋭揃い。多少のことでは揺るがない自信がそれぞれにある。
それでも漣の姿は、ほぼ毎日高校にあった。不測の事態は免れない。万事は流転する。推測通りの道筋ばかりを通るとは限らない。
8月初めの昼下がり、漣は一人だった。他のメンバーの行方は知らない。
漣にも当然仕事はあるが、午前中に終わらせてしまっていた。
昼食を終え、ぼんやりと宿題に目を通していると、包んでいた蝉時雨の代わりに突然乾いた音が響き、漣の肩が跳ね上がった。
音のした方を見やる。木製のドアにはめ込まれたすりガラスにぼやけた黒い影が映りこんでいる。
また、乾いた音が響いた。どうやら、ノックしているらしい。
漣は立ち上がり、ゆっくりとドアを引いた。
「生徒会室はこちらかしら?」
落ち着いた女性の声が耳朶を打ち、まとめられた髪と白のスーツに凛とした印象を受ける。
見たことも無い人だった。目に強い力を感じるのに、全体として気品のある顔立ちをしている。
しかし、その表情はむしろ驚愕のそれに近い。漣は内心首をひねりながら丁寧に答えた。
「確かに、生徒会室ですが」
返事はない。更に驚愕の色が深まったように思う。
初めて会う人にこんな反応をされたのは初めてだった。いよいよ漣は怪訝に思った。
「あの、何か御用ですか?」
「・・・・・・貴也さんにそっくり」
その言葉に漣は目を瞠った。貴也とは漣の父の名だ。それに、漣は若い頃の父とよく似ている。容姿も声も。
しかし、何故父の名を知っているのか。それがわからない。調べた所で、自分を日向漣だと断定する確証がなければ意味が無い。
「貴也は僕の父の名ですが、父をご存知ですか?」
女性は声を失ったかのように、何かを言いかけてはやめるのを何度か繰り返した。どうにも言葉にならない、といった様子だ。
そこで、漣は不思議な既視感を覚えた。その唇の形、声、そして特徴的な目。全体を包む空気。
自分の底に一つの可能性を見出す。そして、慌てて否定する。否定しつつもその手がかりばかりが目につく。他の可能性をその一つの可能性が次々に削っていく。
記憶の中に溶け消えたと思っていた映像と目の前の映像が結びついたとき、女性は静かに言葉を紡いだ。
「久しぶりね・・・・・・漣」
自分の名を呼ぶ声を聞いた瞬間、漣から言葉が零れ落ちた。
「おかあさん」
すっと心を閉ざすように母から表情が消えた。漣は慌てて口を押さえ、それでも母の顔から目が離せない。
「入れてもらって良いかしら」
気圧されたように漣はドアノブを掴んだまま後ずさり、母はするりと室内に滑り込んだ。
そして、当然かのように上座に座り、流れについていけないまま漣はその場で立ち尽くした。
気まずい沈黙が間を埋める。
「座りなさい」
命令するように促され、漣は恐る恐る母の目の前に座った。視界の端に白い紙が滑り込む。
早崎蓮香、と記され、先日取材を受けた雑誌名、そして役職―編集長の文字がはっきりと刻まれていた。
「先日の取材のお礼と文化祭の取材の打ち合わせをしたいと思って来たの。写真は見てなかったから、まさか貴方がいるとは思わなかった」
写真を見ていれば、気付いていたのに。そう言って、視線を窓の外に転じた。まるで漣と向き合うことを避けるように。
「見ていたら?」
俺が居るとわかってたら、貴女はどうしたのですか。漣は声にならぬ声で問う。
母は視線を窓の外に向けたまま答えた。
「来るわけ無いでしょう」
背筋が冷えた。
期待してはいけない。そう何度も何度も心の中で唱えなければならなかった。
机の下で力一杯手を握りしめ、笑顔を浮かべる。
「先日はお世話になりました。とても楽しかったと皆、申していましたから。文化祭のほうもよろしくお願いします」
「じゃあ、取材はこの間の二人が来ますから」
ただの業務だ。母ではなく仕事相手だ。冷静に、冷徹に。心を閉ざし、踏み込ませない。漣は涼しい表情の下で必死に壁を作った。
しかし、蓮香の目が一度こちらに向けられ、それだけで、壁がぐらつく。弱くは無いはずなのに。
「貴也さんは・・・・・・再婚、した?」
何故、この人は。漣は更に手を強く握り締める。折角張ったバリアーを簡単に壊そうとするんだ。
「いいえ」
そう、とため息混じりに聞こえた声は明らかに安堵の色を呈していた。
不安が増殖する。質問を止められない。漣はわずかに身を乗り出した。
「・・・・・・父を、愛してましたか」
「当然よ。貴也さん以上の人はいない」
即座に断言され、漣は息を呑んだ。質問を畳み掛けずにはいられない。
「今でも、そう、ですか」
「もちろんよ」
カタカタと机が小刻みに音を立てる。漣の手が触れた所から広がって、部屋中を震わせている。
「もし、生まれていなかったら」
蓮香は小さく吐息を漏らした。嘲るような響きは隠しきれていない。そして、今まで向けなかった強く鋭い視線を漣に浴びせた。
「貴也さんと一緒に居たわ」
漣は小さく呻き、面を伏せた。
聞いたことが、あった。
父と母が出会った頃、母はやっと掴んだ雑誌の記者の仕事に熱中し、全てを注ぎ込んでいた。その凛々しく、美しい姿と心に惹かれた父の一目惚れから始まった恋だったと。
結婚しても母親にはまだなりたくない。そう主張する母に祖母は危機感を覚えたが父はそれでも良いと言ったらしい。落ち着いてペースが掴めたら、きっと良い親になれる。最終的に祖母も折れた。
結婚して3年。母は着実に前進し続けていた。
そして、漣が生まれた。
「・・・・・・早すぎたのよ」
突然の声に漣はのろのろと顔を上げた。そこには蓮香の横顔がある。ずっと手を伸ばし続けてきた。それが今届く所にあるのに、とても遠い。
「わかった時は母親になろうと思ってた。産んだときだって、そう思った。でも、実際育てているうちに、自分が母親だ、なんて。『お母さん』なんて、耐えられなかった」
漣は立ち上がった。それ以上は聞きたくない。
部屋を出ようとしたその背に言葉が突き刺さる。
「貴方なんて、いなければよかった」
大きく派手な音が校舎中に響き渡り、蓮香ははじかれたようにその音がした方を向いた。
漣の右手が舞い散る硝子の中で緋色に染まっていた。大きな破片が突き刺さった手の甲から腕を伝うようにして鮮血が模様をなし、床の上に小さく染みをつける。
「もう、良いですから」
早く、帰って。その体勢のまま、漣は呟いた。遠くから人のざわめきと足音が近づいてくる。
「騒ぎになる前にどうか」
搾り出すような声に蓮香は小さく息を呑む。自分は一体何を言ってしまったのか、ようやく気付いたという風情で。
「早く!」
悲鳴に近いその声に蓮香は慌てて立ち上がった。そして、漣の横を通り抜けようとする。
「どうか、お元気で」
空気に溶けるような声に蓮香は立ち止まって、漣を省みた。
漣は微笑んでいた。寂しさも悲しさも絶望も全て覆い隠し、ただ微笑んでいた。
「早く」
その声に促され、蓮香の背は遠ざかっていった。
あの日と同じだ、と漣は震える手でもう一方の手に刺さった硝子片を取り去りながら思う。
出て行った日。いってらっしゃいの声に応えることの無いその背中。少し小さくなっただけで変わらない。
そこには拒絶しかない。
血の止まらない手を抱きかかえるようにしてその場に蹲る。全身が痛い。
皆の近づく気配がする。いつの間にか流れだした涙が止まらない。
欲しいのはそんな言葉じゃなかったのに。
遠くで雷鳴が響いている。
お読みいただきありがとうございました。次が最終話になります。
もうしばらくお付き合いください。




