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暗闇の底

 毎日は飛ぶように過ぎる。その日々の中に次々にしなければならないことが湧き出るように際限なく続けば、人は一体どうなってしまうのだろう。自分が出来ること以上のことが次々に積まれ、恐る恐る、それでも急いで片付けていくうちに息つく暇も無くなってしまう。

 午後八時。誰も居ない生徒会室の扉を力無く開け、漣は彷徨う蝶のようにふらつく足取りで椅子へと腰掛けた。触れた右頬から机の冷たさが伝わり、張り詰めていた糸が切れたように深く息を吐き出した。

 人気も無い。遠いグラウンドの声が微かに空気を揺らす。

 深い海の底にいるみたいだ、とぼんやり霞がかった思考回路が鈍い反応を示す。光も届かず、音も遠い。校舎を包む夜の底で漣一人が密やかに呼吸する。他に何も無い。ただ自分が存在するだけの世界。

 寂しいとも、悲しいとも思わない。どこに居ても同じことだ。

 潮騒に似た風音に誘われ、漣は目を閉じた。


 見慣れた白い天井が視界一杯に広がっている。

 地面を打つ激しい音で、外が激しい大雨になっていることはすぐに知れた。時折、雷鳴が空を引き裂くように響く。

 傍らでは小さな子供が本を読んでいる。一心不乱に読んでいるのはただの見せかけで、ちらちらと意識は家の外へと向けられているのがすぐにわかった。たまに窓を見る目がとても不安げで心細そうなのが、漣の胸を打つと同時に表情を歪ませる。

「やめろ。どうせ期待したって、無駄なんだ」

声に出した所で子供には聞こえた様子が無い。子供の全神経はただ一人の帰宅を告げる音の来訪をただ待ち望んでいる。漣の存在など空気よりも薄い。

 どんなに激しい音がしても、眩しい光が室内に突き刺さっても、子供と漣は深い海の底で息をしている。望む光と音が届かぬ限り、どこにいてもそれは深く暗い海の底だ。お互いの存在に意味を見出さず、ただ静かに息をする。

 音もなくリビングのドアが開き、子供は弾かれたように顔をあげた。

 全身ずぶぬれになった若い男が目を丸くしてこちらを見ている。今の漣とそう大差ない容姿ですっかり色の変わってしまった上着を脱ぎ、ネクタイを外しながらこちらへと近づいてくる。

「お母さんは」

そう尋ねる男の目には失意が宿っている。もう答えを知っているのだ。

 子供の目にも同じ色が宿っている。子供は漣の目の前で顔を俯けた。

 大きな腕が子供を包んだ。濡れた髪から滴る雫が子供の服にぽつりぽつりと染みをつくる。

 漣からは二人の表情は見えない。ただ冷めた目で傷を舐めあうような抱擁を眺めている。

 子供の頭をしっかりとシャツに押し付けると、男は静かに涙を流し始めた。

 漣の爪が手のひらにきつく食い込む。もう同じ光景を何度思い出しただろう。

 漣は立ち上がり、二人に背を向けた。そして、リビングのドアを開け放ち、一歩足を出す。

 その先に道が無いのはいつものことだ。


 目を開くと開け放ったままの窓から遠くの街灯が見えた。

 ゆっくりと上半身を起こし、まだ覚めきらない頭を支えるように肘をついてふっとため息を漏らす。

 同じ夢を何度も何度も見る。まるで壊れかけた映写機のように、同じ光景を何度も見せては漣を追い詰める。そのうえ、その映像は褪せることなく、いつも鮮明に強烈なイメージを突きつけてくる。

 あのまま母は帰らず、代わりに一枚の薄い紙切れが届いた。その日も父は漣を抱きしめて泣いた。

 幸せは何色をしているのだろう。昔の詩のように山の向こうにあるのだろうか。漣にはわからない。自分は幸せだと思っているのに穴が開いたような気になる。父の笑顔の中の影は幸せの痕なのかもしれない。自分の幸せは模造品なのかもしれない。照らす光を失って、漣も父も深い暗闇の中でたった一本のマッチの火に喜んでいるだけなのかもしれなかった。

 あの日。

「ただいま」という母の声が聞こえていたら。

「おかえりなさい」と笑って言えたなら。

 自分も太陽の光に溢れる世界を自由に泳げていたのだろうか。

 漣は夜の底で静かに息を吐いた。

初めての連載になります。よろしくお願い致します。

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