王女の生き方を救ったのは、敵国の捕虜でした
シャーメリアは、この国の王女だった。
橙がかった茶髪を一つにまとめ、
民のため、国のために尽くすことを、当たり前のように続けてきた。
城下町に出ては民の声を聞き、
不満や嘆願を受け止め、それを王へと伝える。
王宮では、
表に出せない摩擦を、静かに飲み込んできた。
ある日の社交の場。
貴族同士の利権を巡る対立が激化し、
場の空気は一触即発だった。
言い合いになった、そのときだった。
「待ってください」
声を上げたのは、シャーメリアだった。
「感情的になっても、場は治まりません。
どうか――冷静に、お話を」
互いに睨み合っていた視線が、わずかに逸れる。
シャーメリアは一歩踏み出し、
一人ずつ、丁寧に言葉を受け取っていった。
強い声も、抑えきれない苛立ちも、
否定せずに、ただ受け止める。
やがて、空気は少しずつ緩み、
ぶつかり合っていた言葉は、形を変えていった。
気がつけば、場は収まっていた。
胸の奥に、静かな手応えが残る。
――これで、よかったのだと。
だが――
後日、王宮で交わされた言葉は。
「さすが陛下のご采配だ」
「王妃様の取りまとめがあってこそですな」
そこに、シャーメリアの名はなかった。
何か問題が起きれば王女の責任とされ、
うまく収まれば、王や王妃の手腕として語られる。
そんな日々の中、
彼女は少しずつ、自分の生き方に疑問を抱くようになっていた。
この前、久しぶりに国王に呼び出された。
重臣もいない簡素な部屋で、彼は淡々と言った。
「お前の役目は、他国に嫁ぎ、国との関係を取り持つことだ。
最近、色々と動いているようだが――余計なことはするな。
政など、男に任せておけばよい」
それは叱責ですらなかった。
ただの、当然の事実を告げる口調だった。
その言葉で、
シャーメリアが王女として積み重ねてきたものは、
音もなく崩れ落ちた。
――ああ、そうなのだ。
私がしてきたことは、
最初から“仕事”ですらなかったのだ。
失意のまま歩いていると、
気づけば、王宮庭園の奥――
静かな湖の前に立っていた。
水面は穏やかで、
何も映さず、何も答えなかった。
すでに限界が来ていたシャーメリアは、ぽつりと呟いた。
「私がやってきたことは……
本当に、意味があることだったのかしら」
言葉にしてから、はっとする。
思っていただけのはずの問いが、声になっていた。
そのとき、気配に気づいた。
少し離れたところに、
一人の青年が腰を下ろしていた。
白銀の髪が風に揺れ、澄んだ水色の瞳が、静かに彼女を見つめている。
彼はすぐには何も言わず、
ほんの一拍だけ間を置いてから、穏やかに口を開いた。
「詳しいことは、わからない。けど――」
青年は、湖に視線を落とす。
「後悔なんて、しなくていいんじゃないかな。
今まで君がやってきたこと、
その経験は、君の中で確実に生きている」
「それは、誇りに思っていい。
それこそが……尊い宝物だと思うよ」
シャーメリアの目が見開かれた。
蜂蜜色の瞳が、涙に揺れる。
抑えようとしても、止められなかった。
……そうか。
私は。
私の生き方は――
間違っていなかったのだ。
青年はそれ以上、何も言わなかった。
ただ前を向き、湖面を見つめている。
風が吹き、近くの草花が静かに揺れた。
水面に小さな波紋が広がり、やがて消えていく。
シャーメリアは、しばらくその光景を見つめていた。
翌日、シャーメリアは気力を取り戻し、再び動き始めていた。
国王に何を言われても、 王妃にどれほど暗に諭されようとも、 もう心は折れなかった。
自分の生き方に、確かな誇りを持っていたから。
昼過ぎ。
彼女はいつものように、王宮の湖へ向かった。
――そこに、彼がいた。
隣国の第四王子、
セレン・アル=リュミエール。
冷戦状態にある隣国から、捕虜として連れてこられた王子だった。
とはいえ、監視の目が届く範囲で、
比較的自由に過ごすことが許されていた。
彼は、いつもこの時間に湖のそばにいた。
セレンは、湖のほとりに腰を下ろしている。
シャーメリアに気づくと、水色の瞳をわずかに細め、軽く会釈をした。
シャーメリアもそれに応え、
少し距離を保ったまま、その隣に立つ。
二人で黙って湖を見つめる。
光を受けた水面が、きらきらと揺れていた。
この静かな時間は、
いつしかシャーメリアにとって、かけがえのないものとなっていた。
ある日、いつものように湖へ向かうと、
そこにセレンの姿はなかった。
胸騒ぎを覚え、事情を尋ねると、
隣国との関係が急速に悪化し、
彼は地下牢へ移されたのだという。
――いつ処刑されても、おかしくない。
そう理解した瞬間、
シャーメリアは地下牢へ走り出していた。
セレンは、地下牢の中で静かに腰を下ろしていた。
仄暗い石の部屋はひんやりとしていて、
小さな窓から差し込む光だけが、床に細い線を描いている。
彼はその光を、ぼんやりと見つめていた。
――彼の国の王太子が、
違法な取引に手を染めていた。
国の外から密かに持ち込まれた、
魔草を原料とする精神安定薬。
常用すれば、心身を蝕むと知られるものだった。
その事実を、
セレンは偶然、知ってしまった。
王が長く不在にしていた間、
国政を預かっていたのは王太子だった。
国の最終責任者であるはずの彼が、
違法な薬に手を出している。
その現実に、セレンは強い衝撃を受けた。
ある日、二人きりになった折、
彼は意を決して口を開いた。
「兄上。その薬は違法です。
兄上ほどの方が、なぜそのようなものを使われるのですか」
王太子は穏やかに彼を諭した。
だが、薬をやめる気配はなかった。
セレンはそれ以上踏み込むことができなかった。
だからこそ、
帰国した王に事実を告げた。
「兄上は、民のため、国のために尽くしておられます。
ですが、あの薬だけは……
父上のお力で、どうかお諫めください」
それが、
最善だと信じていた。
――その後で知った。
王太子が、
心身ともに限界に達していたことを。
夜も眠れず、
判断を誤ることを何より恐れ、
逃げ場を失っていたことを。
結果、隣国との関係は悪化し、
国民の反発が噴き出し、
王家の威信は大きく揺らいだ。
混乱の中で、
「責任を取る者」が必要になった。
選ばれたのは、一人の魔草研究者だった。
伯爵家の次男で、
政治とは無縁の場所で、
ただ国のために研究を続けてきた青年。
穏やかで優しく、
セレンとも、言葉を交わしたことのある人物だった。
彼は国のために汚名を着せられ、
「決まったこと」として処分された。
――自分の正義が、
一人の人間の命を奪った。
その事実は、
セレンの人生観を、静かに、しかし決定的に変えた。
窓から差し込む細い日差しを、
セレンはぼんやりと眺めていた。
やがて足音が響く。
振り返ると、そこにいたのはシャーメリアだった。
彼女はキッと顔を上げる。
「……私が」
一度言葉を切り、
静かに、息を整えてから続けた。
「……私が、あなたをここから出す。
あなたには、一生分の恩があるの。
絶対に、死なせない」
強い意志を宿した蜂蜜色の瞳が、
まっすぐにセレンを見つめる。
セレンは、澄んだ水色の瞳を向け返した。
その瞳には、
拒絶も希望も、覚悟さえも見当たらない。
ただ、ここにある。
……それだけだった。
シャーメリアは、ふいに踵を返す。
――国のために。
――必要のない犠牲を、出さないために。
ギイ、と鈍い音を立てて、
地下牢の扉が開く。
セレンはただ、
受け入れるように、その先を見つめていた。
読んでいただき、ありがとうございました。
来週から、新しい連載を始める予定です。
すでに最後まで書き終えている作品になります。
よろしければ、そちらも読んでいただけると嬉しいです。




