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すき焼き

 久しぶりの家族全員がそろっての外食だったのに、皆の表情は暗かった。口数も全くない。

 当然だろう。私と夫の関係は今や完全に破綻していた。毎日言い争いが絶えず、離婚は時間の問題という所まできていた。

 まだ中学生の息子と小学生の娘も状況を分かっているのだろう。行きの時は必死に話題作りに励んでくれていたが、帰り道の今は何も喋らない。娘は半分泣き出しそうだ。夫は行きの段階から不機嫌さを隠そうともしていなかった。

 一体、なぜ? 何時からこんな事になってしまったのだろう? 最初は些細なすれ違いだったと思うが今や切っ掛けすら思い出せない。

 その内に、我が家が見えてきた。明かりと暖房の付いていないその姿は、かつての暖かさを失った文字通り冷たく暗い私達の関係そのものだった。

 子供たちに申し訳がなくて、自分が情けなくなる。でも、もうどうしようもない。そう思うと、頬を一滴の涙が伝って地面に零れた。

 その瞬間、目の前の光景が回転しはじめた。まるでジェットコースターに乗せられてループを何度も経験するような感覚。いや、コーヒーカップに乗せられているほうが正しいか? 縦回転しているのか横回転しているのか、私が動いているのか世界が動いているのかすらわからない。


「…なに? 何が起きたの??」


 息子と夫も驚いたようにその場に立ち尽くしている。どうやら幻覚ではなかったようだ。


「お母さん、あれ…。」


 思わず私の腕に抱きついた娘が、指さす方を向くと一軒の小料理屋が建っていた。いつの間にか回転は終わっていた。


「志乃ちゃん料理店? おい、さっきまでこんな店ここにあったか?」


 夫の言葉に首を振る。そもそも家の近くにこんなお店はなかったはずだ。


「…入ってみるか。まだ、飲み足りないと思っていたところだし。」


 しばらく立ち尽くした後、夫はそう呟いた。不思議とそれに反対する気にはならなかった。戸の隙間から出る光があまりにも暖かそうで、自然と足が出る。

 ガラガラガラと扉を開けると、そこには4人掛けのテーブルが2つとカウンター席が5つ。自分たち以外の客はいない。


「いらっしゃいませ。志乃ちゃん料理店へようこそ。どうぞ、お好きな席におかけください。」


 厨房と思われる場所から出てきた小さな影。黒髪おかっぱに三つ編みおさげがよく似合う少女。割烹着を着ているが、まさかこんな小さな子を働かせているのか??


「料理長兼店長の志乃と申します。どうぞ、ごゆっくりおくつろぎください。」


 困惑する私をさらなる困惑が襲う。今この子は何と言った? 料理長兼店長? つまり、この子が料理を作るのか?

 夫も私も子供たちもあっけにとられたが、促されるまま席に座る。


「入った勢いで座ってしまったけど…、だ、大丈夫なのか??」

「わ、わからないわよ。」


 夫もまさかこんな小さな子が応対に出るとは思っていなかったのだろう。夫の困惑顔など久しぶりだ。私も正直、どう反応していいのかわからない。


「お待たせ致しました。ビールとコーラとオレンジジュースです。そしてお通しです。」


 こっちがアワアワしている間に、キンキンに冷えた飲み物が運ばれてきた。夫と私には好きな銘柄のビール瓶。息子はコーラ、娘にはオレンジジュース。そして、お通しとして出されてきたのは…。


「だし巻き卵か。美味しそうじゃないか。」

「「本当!」」


 出てきたそれに夫と子供たちが目を輝かす。

 それもそのはず、だし巻き卵は私の得意料理だ。最近はあまり作らなくなったが、数年前まではしょっちゅう作っていた。

 そう言えば夫に最初に振舞ったのもだし巻き卵だった。

 そもそも夫と知り合ったのは会社の新入社員歓迎会での席。そこで同じ銘柄のビールが好きという事。お通しとして出された、だし巻き卵の味への意見が一致した事だった。そんな事を思い出す。


 出来立てホヤホヤなのか、それからは湯気が立っている。その湯気に交じって漂ってくる香りは鼻の神経を刺激し、摂食中枢を叩き起こすには十分だった。先ほど食べたばかりだというのに、お腹がなる。それは、私だけでなく家族全員同じだったようだ。


「早く食べよう!」

「待ちなさい。乾杯が先だ。」


 焦る息子に夫が待ったをかける。だが、これを前に長時間我慢しろと言う方が酷だろう。グラスを手にとる。


「「「「かんぱーい!!!!」」」」


 こんな風に乾杯するなんていつ以来だろうか? 家族が揃って笑顔になっているのを見るのも久しぶりだ。


「うまいな! さっき飲んだビールと全然違う。」

「ええ、本当に。」


 先ほどの店で飲んだビールとの味の違いに思わず頬もほころぶ。銘柄自体は同じなのに、どうしてこうも味が違うのだろう。


「うまい! これ、マジ美味い!!」

「ほんと! アツアツホカホカで、中から出汁の味がジュワッと出てくる!」


 息子はコーラをがぶ飲みした後でだし巻き卵にむしゃぶりついた。美味い美味いしか言わない息子と違い、娘は食レポをきちんとしてくれる。


「本当に美味いなあ。何だか懐かしい味がするよ。」


 夫もだし巻き卵の味に満足そうだ。自分も箸で一切れつまむ。

 口に入れた瞬間、卵の優しいフワッとした触感が舌に触れる。噛むと溢れ出ただし汁が舌を包み込んで離さない。トロリとしていて、それでいてサラリとしている。何とも不思議なだし汁だが、掛け値なく美味い。息子が美味いしか言わない理由もわかる。

 

「お待たせいたしました。どうぞごゆっくり味わってくださいね。」

「「「「わぁー!!!!」」」」


 お通しと飲み物でワイワイしていた所に出てきたのは立派なすき焼きだった。グツグツと音を立てているそれによって、空いていないはずの腹が鳴る。まるで、このすき焼きのために場所を開けましたと言わんばかりに、胃の中が空になった。

 早速皆で小皿にとって頂く。


「これも美味いな! 肉汁が舌で踊るぞ!」


 夫の言う通りだ。食べた感じ、恐らくだが無茶苦茶良い肉を使っているわけではなさそうだ。しかし、じっくりと煮込まれているのか割り下の味が肉の奥までしみ込んでおり、それがまた噛む度に溢れ出て舌を潤す。

 肉だけではない。豆腐、ネギ、しらたき、しいたけといった野菜にも味がしみ込んでいる。割り下だけでなくそれら野菜も己を主張していてネギは割り下がしみ込んでいるとは思えないほどシャッキシャキ。ほろりと崩れる豆腐は大豆の程よい旨味が顔を覗かせ、割り下を十分に吸ったしらたきとしいたけは舌の上で絡み合って踊りだす。

 どれもブランド物を使っているわけではない。そこら辺のスーパーで買えるような一般的な食材。それなのにどうしてこんなにも美味しいのか?


「卵をつけて食べてみろ。別の味が楽しめるぞ。」


 夫が差し出してきた卵を受け取り、割ってかき混ぜる。そこに肉をつけて食べると卵のトロリとした触感が肉汁と合わさってさらに美味さを増した。


「うめえ、うめぇよ!」

「ほんと! 何だか懐かしい味。」


 美味いしか言わない息子の目から涙が流れている。そして、娘の言葉で理解した。

 ああ、そうだ。懐かしいのは当然だ。つい1年前までこんな光景は当たり前だったのだ。家でこうやって月に一度は家族そろってすき焼きを囲んでいた。

 何時からだろう。こうやって家族で食卓を囲むことがなくなったのは…。

 そうだ、思い出した。息子の進路のことで夫と意見が対立したんだった。夢を追いたいとサッカーの強豪校に進むと言い出した息子を私は否定した。

「あんたのレベルではとてもプロになんかなれっこない。仮に運よくなれたとしてもその寿命は短く、他のつぶしが効かない。お世辞にも成績が良いとは言えないのだから、むしろ勉強を優先しろ。」

 そう言って私は息子の夢を否定した。実際、息子の技術は地区大会で通用するかしないかのレベルでしかなかった。

 しかし、夫は息子の味方をした。自分が夢を追いたくても家庭環境が許さず断念したのを思い出したのだろう。実際、サッカーを息子に教えたのは夫だ。

 そこからは事あるごとに衝突した。進路だけではなく、今までは気にならなかった些細な生活習慣の違いすら際立ってきて、その度に口論になった。

 状況はあれよと言う間に悪化し、今日に至る。


 そうだ。こんな状況は誰も望んでなどいなかった。些細なすれ違い、ボタンのかけ間違いが増幅して、こんな事になってしまった。

 ああ、私は息子の意見を一顧だにせず却下してはいけなかったのだ。もっときちんと意見を聞いて話し合えばここまでこじれる事はなかったはずだ。


「ごめんね。」


 意識せずに口から出た言葉に、息子の動きが止まった。


「…、いいんだ。この1年で状況が変わってさ。俺も自分の実力が分かってきたんだ。母さんの言う通りだった。俺はとてもプロじゃ通用しないって。」


 息子も何かを悟ったのか、今まで全く語ってくれなかった胸の内を明かしてくれた。


「でも、それを認めたくなかったんでしょう。あきらめたくなかったんでしょう。今も。」

「…うん。」


 息子は短く頷いた。


「俺も悪かった。あんなに声を荒げなくてもよかった。すまなかった…。」


 夫が頭を下げるのを見るのは初めてだ。


「私こそ、無下に否定して悪かったと思ってる。ごめんなさい。」


 お互いがお互いに頭を下げる。ようやく誰もが素直になれた。もっと早くに、こうしていれば良かったのだ。幸い、遅かったが遅すぎたという事はなかったようだ。


「諦めきれないなら、とりあえず次の試合までは全力で挑戦してみなさい。挑戦せずに生涯後悔するくらいなら、そっちのほうがいいわ。」

「いいの!??」

「ええ、いいわ。そっちのほうがすっきりするだろうし。」


 おそらく、息子の挑戦は失敗で終わるだろう。実力に関しては自分でも力量不足を感じているくらいだ。それでも、挑戦してさえいればもしかしたら…。そんな後悔を生涯負いながら生きていくくらいなら、最後に思いっきり力を出し切って玉砕したほうがましだろう。

 少なくとも、それがか細い道であったとしても、それに挑んだという経験はむしろ今後のこの子の人生を豊かなものにしてくれるに違いない。


「そのかわり、次で駄目だったら素直に勉強に勤しみなさい。大丈夫よ。だとえ駄目でも、プロになれないだけでサッカーをやっちゃいけないわけじゃないんだから。だから、その時は試験までは我慢しなさい。」

「わ、わかった! ありがとう。母さん。」

「よかった。よかったな。」


 夫が嬉しそうな息子の頭をワシャワシャワシャ撫でる。

 ああ、本当に良かった。娘のほうを見ると泣いていた。それを見て私もつられて泣いた。いつの間にか、全員が泣いていた。


「「「「ご馳走様でした!!!!」」」」




 何時、家に帰ってきたのかわからない。気が付いたら朝で、リビングに出ると直ぐに皆も起きてきて集まった。


「あなた。昨夜の晩の事、覚えてる?」

「もちろんだ。でも、何だか記憶があやふやだ。」

「俺も。」

「私も。」

 

 皆同じだった。話した内容と出された料理の味はしっかり覚えているのに、お店の事に関しては途端に霞がかかったようにモヤモヤしている。お店の雰囲気と志乃と名乗った幼い料理長の事は何とか思い出せた。


「なあ。俺、金払ったっけ?」

「わ、わからないわよ。」


 誰も財布を出した記憶がない。


「無銭飲食してしまったのか?」

「そんな事、流石にあるわけないと思うけど…。」

「でも、財布の中身が一軒目に行った後と変わっていないんだ。払ったから覚えている。」


 それは大変だ。もしかしたら本当に無銭飲食してしまったのかもしれない。酔っぱらってそのまま出てきてしまったのか? 




 家族総出でお店のあった場所に行く。しかし、そこにあのお店はなく、空き地が広がっているだけだった。そうだ、この場所は去年あばら家が解体されて以降売地だったはずだ。最初に戸惑ったのも頷ける。ここには何もなかったはずなのだ。

 不思議と、悲しいとか、どうしてという感情は湧かなかった。何となくだが、そんな気はしていた。

 あの不思議なお店はきっと、私たちのような人たちの前に現れて大切な何かを思い出させてくれるおとぎ話のような存在なのだ。

 夫と子供達を見ると、皆同じ気持ちだったようだ。悲しいけれど、でも仕方ないと納得している顔だった。


 ありがとう。小さな料理長さん。私たちはもう大丈夫。これから先も、何かあればまた食卓ですき焼きを囲って話をすればいいのだ。何があっても、それで乗り越えられる。


 家は直ぐ近くだったが、家族皆で手を繋いで帰った。




 志乃ちゃん料理店。それは家族の大切な味を提供してくれる不思議な料理店。もしかしたら、次はあなたの前に現れるかもしれません。



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